カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 全国高校駅伝の行われた、その12月21日の午後。松本市民芸術館で上方落語の桂二葉独演会が開催され、前売り券を事前に購入してあったことから聴きに出掛けました。
数ヶ月前に購入したので、独演会の開催日が毎年楽しみにしている全国高校駅伝の当日だったとは“露知らず”、結果“後の祭り”ではあったのですが、戦前から女子の長野東は優勝争いをすると思っていましたが、片や3連覇の掛かった男子の佐久長聖は今年は無理で、せいぜい入賞争いだろうと予想していましたので、結果、午前中の長野東優勝の女子の部はしっかりTVで観戦出来たことから、予定通り落語を聴きに出掛けた次第(結果は案の定・・・イヤ、残念ながらそれ以下でした)。

 上方落語の噺家、桂二葉。2021年に女性初のNHK新人落語大賞優勝者です(因みに今年、春風亭一花さんが女流噺家二人目の優勝者となりました)。
上方落語会の人気者で、その実力も丁稚の定吉や、憎めないアホな人物が登場する所謂「与太郎噺」を演じさせればまさに天下一品。
TVの人気番組への出演もあって、今や関西だけではなく全国的にもチケットが即完売の売れっ子噺家です。そんな彼女が、昨年の12月に続いて今年も松本で独演会を開催。
大阪は東住吉出身というチャキチャキの浪速っ子が、地方には珍しい古典芸能専門の北野文芸座の在る長野市ならまだともかく、全く縁の無さそうなこの松本に来て二年連続で独演会を開いてくれるのですから、地方に暮らす落語ファンとしては本当に有り難い限りです。
会場は昨年同様市民芸術館の小ホール。300席弱のホールですが、さすがに今や全国的な人気噺家ですので、おそらく追っかけも含め地方の落語ファンで今回も満席の盛況でした。

最初の枕は、今回も松本に因んで二葉さんが大好きな松本一本ネギとマサムラのベビーシューの話題からスタートです。
彼女は松本での独演会開催のオファーがあると、松本一本ネギが旬を迎える年末の時期に絶対に設定してもらうということで、この日の楽屋も松本一本ネギとベビーシューの差し入れが混ざり合って異様な匂いとか。また長野市の北野文芸座での高座でも、松本での独演会同様に、同じ長野県なので松本一本ネギやら松本のことを誉めちぎっていたら客席が、
 「何やこうしらーっとした雰囲気が、何でか段々漂ってきましてん・・・」
と、ここ松本の客席を大いに沸かしてくれました。因みに、さすがにもう売れっ子ですので、白木みのるネタはこの日はありませんでした。
今回の出し物は、先ず開口一番で桂白鹿さんが前座噺の「平林」で開演し、続いて二葉さんが「上燗屋」から二席続けての「粗忽長屋」。そして仲入り後にトリで上方落語の演目「打飼盗人」でした。
 歌舞伎の女形同様に、落語もこれまで殆ど男性が演じて来ただけに、女流噺家には主人公を女に代えて演じるケースや女性が中心の新作落語を演じる噺家もいる中で、彼女は飽くまで古典落語に拘っています。
甲高い声の持ち主である彼女が、噺の中で声色を落として男性の親方や老人を演じる際に多少の違和感を感じたとしても、相方の与太郎や丁稚が登場すると、即座に見事なアホや子供に化けて演じ、これがまさに秀逸なのです。男の噺家に負けていないどころか、むしろ凌駕して客席を沸かせます。
今回も、初めて聴く「上燗屋」の酔っ払いのオッサンぶりがそうでした。続いての柳家小さんの十八番と云われた「粗忽長屋」。上方風に浅草の観音さまを住吉さんに変えて、八さん熊さんのボケたやり取りが上手い。この日の仲入り後のトリに演じたのは、江戸落語では「夏泥」というネタの、上方落語の「打飼盗人(うちがえぬすっと)」。これも初めて聴くネタでしたが、生粋の難波言葉が心地良い。
 桂二葉さんは、子供の頃からアホをしても怒られない男の子が羨ましかったとか。そして「自分がアホやという自信は子どもの時からあったけど、言えずに来た。でも落語でならできる。自分なら嘘(うそ)なくアホができる」と感じて、噺家を目指したのだそうです。
名人米朝の弟子になる師匠の米二師匠は、自分の弟子の中では二葉さんが一番根性があるとのこと。
また、ざこば師匠が主催していた米朝一門の寄席「動楽亭」落語会では、これまで女性噺家が演じたことが無かったため、弟弟子が高座に出ても彼女はずっと出れずにいて、しかし前座仕事に何年も通って黙々と働いていたら、兄弟子がざこば師匠に進言してくれて、その先輩の助言で漸く出演が決まって泣いたのだとか。
また、上方落語の若手噺家のコンテストで準優勝したのに、表彰式でブスッとしている彼女に兄弟子が理由を聞くと、「負けた時にニコニコ出来ひん!」と応えたのだそうです。だからこその、落語大賞受賞後の記者会見での感想を聞かれ「ジジイども、見たか!?・・・と思うてます」なのです。
そんな彼女が売れっ子になって、尊敬する鶴瓶師匠から「イイ経験になるから(出てみたら)」と薦められて受けたというフジTVの昼の「ぽかぽか」の曜日のレギュラーを2年余りで卒業したのですが、その理由を後で知ったのが、
 「出演していても上手く喋れなくて、こんなんでお金貰ろうたらアカン!」
と自ら降板を申し出たのだとか・・・。
お節介な落語好きのジジイとしては、「その意気やヨシ‼」。押しも押されぬ上方落語の金看板として、一所懸命稽古して古典落語のネタを増やした方がヨロシおます!

 今回は、お囃子を録音ではなくて、生演奏としていつもお願いしているという三味線の豊田公美子さんも同行され、最初の出囃子がいつもの彼女の出囃子「♪いっさいいっさいろん」ではなく、「♪アルプス一万尺」を演奏。
  (紹介頁から拝借した、演奏する三味線の久美子さんと太鼓の二葉さん)
枕の中で今回の生のお囃子を紹介された中で、以前から高座をするために地方に行った先では、例えば名古屋では「燃えよドラゴンズ」、広島でもカープの応援歌を出囃子に演奏して貰って好評だったので、旅先の高座では出来るだけその土地に縁のある曲を出囃子にアレンジして貰うのだと紹介しながら、ここ松本ではその「♪アルプス一万尺」の出囃子を受けて、元歌の歌詞にある「♪小槍の上でアルペン踊りを・・・」の部分を二人共「子ヤギ」だとずっと思い込んでいて、以前特急電車の中での移動中に、向かい合わせの席で公美子さんとお酒を飲みながら、二人で何故か“手遊び歌”をすることになって、この「アルプス一万尺」を歌いながらへべれけに酔っぱらってずっとやっていたら、隣の席に座ってずっと静かに本を読んでいた女性が、さも迷惑そうに「それ、子ヤギじゃなくて小槍ですから!」とボソッと、しかしピシッと言われたのだとか・・・。

 そんなアホ話の枕も本当に楽しい、桂二葉さんのここ松本での独演会。是非一本ネギの季節に毎年来てください。今回も土付きの松本一本ネギを楽屋に差し入れしようかと本当に迷ったのですが・・・。いつか必ずそうしたいと真剣に思っています。
終演後、芸術館から家路への道を歩きながら、ホンワカ暖かな気持ちでの今年の笑い納めとなった、今回の「桂二葉松本独演会」でした。

 12月21日に京都で行われた、師走の都大路を走る全国高校駅伝。
3連覇の偉業を狙った男子の佐久長聖高校は1区の出遅れが響き、その後追い上げるも及ばず10位に終わりましたが、昨年の優勝メンバーが4人残った女子の長野東が、今年も1区区間賞からの1位を一度も譲らずに見事連覇を果たして、3度目の全国優勝を飾りました。しかも、エースの真柴愛理選手が故障明けで回った留学生も走る3km区間の3区で、それまで留学生選手の持っていた区間記録を大幅に上回る驚異的な新記録で走り抜けたのには感動しました。平坦なトラックの3000mでも9分一桁のスピードはトップクラスの記録なのに、それが最後の1㎞は完全な上り坂だったにも拘わらず、男子並みに3分を切っての結果9分6秒という、TV解説を務めた小林祐梨子さんも記録を二度見して確認し直す程の驚異的な走りでした。

 しかし、何より凄いと思うのは、この長野東高校は長野県立の公立高校なのです。高校スポーツ界では何も駅伝に限ることではありませんが、全国から有能な選手をスカウトしたり、勝つためには留学生を連れて来れたりする様な強豪私立高校では無いのです。ましてや、ウィンタースポーツならいざ知らず、決してスポーツが強いとはいえない長野県であれば尚更です。
ただ陸上の長距離では昔からマラソンのオリンピック代表など国内トップクラスの選手を排出するなど、長野県では昔から地域別対抗で県内を南北に走る県縦断駅伝が盛んだったこともあり、地域の“駅伝クラブ”などで小学生位から子供たちを育てるなどして、その中の有力選手が結果、県内で有能な指導者の居る高校の男子では佐久長聖、女子では長野東に県内全域から集まるようになって、その結果唯一駅伝競技だけがあたかも県高校選抜チームの様になって全国でも上位争いが出来るまでのレベルになってきたのです。
しかし、そうは言っても佐久長聖は私立高校であり、寮も持っていて、甲子園に出た高校野球に始まりスポーツ全般に力を入れているのも分かりますが、片や長野東は公立高校なのです。
現在日体大の駅伝部監督を務める玉城監督が、県立高校ですから県教委の人事異動で、それまでも何度か高校駅伝に出場させていた諏訪実業から長野東に異動した結果、監督を頼って県内の有力選手3人が長野東に進学して来る様になったことから、監督が自宅を合宿所としてその子らを下宿させ、たまたま自宅近くの犀川の河川敷のランニングコースを使って、たった3人の選手で練習したのが長野東高校陸上部の始まりだったとか。。
その河川敷のコースでは、一般の市民ランナーの皆さんやウォーキングでも使われる地元の方々に混じっての練習のため、コースの清掃や整備なども朝晩の練習前後に率先して取り組んでいたことから、やがて市民の間でも同じコースで一緒に練習をする彼女たちを自然に応援する様になり、中には毎朝子供たちが来る前にコースの手入れや整備をしたり、子供たちへ差し入れをしたりする地元の方々が現れる様になったのだそうです。
そうしたことが相乗効果を生んで、コースは素より応援してくれる地元の皆さんへの感謝を、自分たちは走ることで、更に結果を出すことで恩返しすることが彼女たちの一番の目標になっていったのだとか。
そして、そうした努力がやがて成績としても実を結ぶようになった結果、私立高校の様なスカウティングはしない公立高校ですが、今度はそんな長野東に憧れて、最近では隣県からも長野東に進学してくる生徒が出て来たのだそうです。
 玉城監督時代に都大路での準優勝二回。そして玉城監督が請われて母校の日体大の駅伝部監督に栄進した後を継いだ横内監督になって、遂にケニア人留学生を擁する強豪私立に打ち勝って2022年に初めて全国の頂点に立ったのです。
最初の優勝は留学生を擁する仙台育英を最終区で逆転して、県内出身の地元の子供たちだけでの初優勝。男子での連覇を成し遂げた佐久長聖と共に、初の“長野県勢男女アベック制覇”で、まさに“駅伝王国長野”の面目躍如となりました。
そして今回の長野東3回目の全国優勝となる連覇は、昨年同様またも1区から首位にたっての堂々の完全優勝。強豪私立高校を相手に、胸のすく様な公立高校の快挙と言っても決して過言ではありません。まさにアッパレな長野東の全国優勝でした。
あと、駅伝競技でまだ残るのは、女子は今まで入賞だけで一度もメダル獲得が無い全国都道府県対抗駅伝大会で、これまで4連覇中の男子県勢の佐久長聖同様に、OBや進学候補の中学生を含めた“オール長野東”での長野県としての初優勝・・・のみでしょうか。
先行した佐久長聖同様に、女子も細田あい選手や萩谷楓選手といった日本代表クラスの社会人選手や、また卒業後に大学女子駅伝で活躍する長野東OBが増えて来ているので、いつか必ずその夢が実現されるものと期待しています
【注記】
掲載した写真は、長野東高校陸上部の紹介頁から拝借しました。

 新年 明けましておめでとうございます。
 『山高く 水清くして 風光る』(平林荘子)
2026年、信州松本より謹んで新春のお慶びを申し上げます。

 我が家では初めて年末から次女と孫たちが松本へ来てくれ、また2年近く振りに長女もNYから帰国。そして次女の婿殿も大晦日までの病院勤務を終え、元旦に横浜から松本に来てくれて、今年は皆揃っての賑やかなお正月を松本で迎えることが出来ました。
今年最初に掲載した写真は、薄っすらと雪を被って白く雪化粧をした、水清き“湧水の街”松本の名水「源智の井戸」の祠と縁起物の南天です。
 今年も先ずは、マンションのベランダから鉢伏山に登る初日の出に今年一年の平穏無事を祈りました。
三重大学の40数年間に亘る調査で、温暖化で夏が3週間長くなりその分春と秋が短くなっても、冬の長さは変わらないのだとか。
信州松本の冬らしい、モルゲンロートに染まる常念岳を始めとする北アルプスの峰々を眺められるのも幸せなことなのかもしれません。




   (原田泰治「ふるさとの四季・冬」)

 新年の2026年は午年です。決して立ち止まることなく、ギャロップの様に何事も軽快に駆け抜けて行ける年になります様に。
私個人は、今年も“山高き”松本に暮らす幸せを感じながら、“水清き”松本の象徴でもある「源智の井戸」のボランティア清掃等に精を出す“普通の”年になりそうです。
        (アルプス公園から“霧の海”越しに臨む真冬の常念岳)
 最後に、今年一年の皆さまのご多幸を、ここ信州松本より謹んでお祈り申し上げます。復興途上の能登半島や地震の不安の尽きない東北北海道、そして世界に目を転じれば、なかなか区切りの見えないウクライナとガザ。そんな人々にもどうか一日も早く穏やかな“普通の”日常が戻って、以前と変わらない“普通の年”になりますように。

 本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。

                     カネヤマ果樹園一同+コユキ&クルミ💛

 今年一年、特段の大きなイベントも出来事も無く、淡々と暮れようとしている我が家の2025年です。しかし、その平々凡々が一番の“何より”だったのかもしれません。

 私事では、昨年12月から参加した地元町会有志の皆さんに依る「源智の井戸」清掃ボランティア。中心市街地の高齢化とドーナツ化に伴う担い手不足に依り維持することが困難となり、年度末の3月末を以って解散することになっていて、私の投書した「市長への手紙」を切っ掛けに、結果私一人が残って4月からの清掃ボランティアとして引き継ぐことになりました。そのため地域の行政窓口の職員の方々と協力し、ボランティアを募集した結果30人を超える方々が集まって下さり、ここで思いがけず同じ様に困っていたという他の井戸とも連携が始まるなど、行政と連携しながら「まつもと城下町湧水群」維持管理に向けて、まだホンの小さな光ですが、一年前の今頃には想像すら出来なかった様な、将来への発展可能性をも見えてきた一年でした。
この年末には、昨年までの地元町会の方々に代わって井戸の大掃除をして、注連縄も新しく張り替え、また正月用の松飾りのお松は地元町会で準備してくださり、無事に新年を迎える準備が整いました。

 一方、昨年12月に正式に我が家の家族の一員として迎えることになった保護犬のシーズー「くるみ」。
保護犬ボランティアのコユキも世話していただいた仮親さんに依ると、クルミは「劣悪な環境」から救い出されたワンコで、骨折をそのまま放っておかれたせいで、左の後ろ脚が曲がらずに伸びきったまま。当初は散歩も無理かと心配しましたが、これが“跳んでも八分・・・”。
 「劣悪な環境下で生き延びてきた子ですから、存外強い子かもしれませんヨ!?」
と仮親さんが言われた通り、慣れてくると“お転婆娘”の本領発揮で家の中を元気に走り回るようになり、食欲旺盛で保護されていた時の痩せこけていた体も、「これ以上太らせないように!」と獣医さんから注意される程に順調以上に!?成長しました。今では先住犬のコユキと仲良く暮らしていて、夜は(信州の冬は寒いせいでしょうか)二匹でくっ付いて寝ています。
              (夕映えの常念岳と北アルプス)
 一昨年に二人目の孫が生まれてから、毎月二週間次女の所に家政婦で行っていた奥さまも、上の孫が4月から幼稚園に入園したことから、手伝いに行くのは隔月になったのですが、逆に幼稚園の春休み、夏休み、年末年始の冬休みには(例え数日間でも、ジジババに任せっ切りの生活に味を占め?)次女が孫たちを連れて松本へやってくるようになりました。“ジジババ”的には有難い限りなのですが、そのお陰で今年の自分たちの旅行は箱根に行ったのみ(なお奥さまは長女に会いに今年もNYに行かれましたが・・・)。
そんなこともあって、お陰さまで大きなトピックスも無い(そのためブログネタには苦労する日々・・・)、そんな“平和”な一年でした。
               (東山魁夷「年暮る」)
 さて今年の本ブログへのアクセスは昨年の37万件を大きく超えて遂に年間40万の大台を突破。しかもその中で2月と5月は月のアクセス件数が4万件超えたこともあり、有難いことに今日の時点で41万件に達し、今年も過去最高のアクセス件数を更新することが出来ました。いずれにせよ、ご愛読いただき本当にありがとうございました。

 それでは皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

                     カネヤマ果樹園一同+コユキ&クルミ💛

 12月7日まで松本市美術館で開かれていた企画展「戦後80年 石井柏亭 “えがくよろこび”-信州から美術の未来をみつめた画家」。
個人的には子供の頃、多分地元の八十二銀行のカレンダーに使われていた石井柏亭の「松本城」の絵が印象的で今でも忘れられず、画伯の企画展が開かれると知り前売り券を購入してありました。

 石井柏亭は祖父と父が画家で弟が彫刻家という東京の芸術一家に生まれ、自身は二科会や一水会の創設に関わるなど中央画壇の重鎮として活躍していましたが、東京大空襲で自宅とアトリエが全焼したのを機に、戦時中に松本市の浅間温泉(当時は本郷村)に疎開してアトリエを構え、終戦後もそのまま留まって信州美術会の設立にも尽力し、現在も続く「県展」を創設するなど、戦後の信州美術界の再興と発展にも大きな足跡を残した画家です。
今回は、そんな石井柏亭画伯の信州に縁の作品を中心に、松本市美術館が収蔵する作品のみならず、長野県立美術館をはじめとする県内の美術館から東京国立近代美術館など県外の美術館や個人蔵に至るまで、幼年期の作品をも含め画伯の初期から晩年までの作品100点余りを展示した、松本市美術館が企画する初の石井柏亭だけの絵画展で、謂わば石井柏亭の大回顧展ともいえる絵画展でした(そして、今回の企画展でありがたかったのは、その展示作品の殆どが地方の美術館では珍しく、フラッシュ無しでの写真撮影がOKだったこと。松本市美術館側の配慮に大いに感謝したいと思います。あとは、都会に比べて遅れているクラシック演奏会でのアンコール時の写真撮影だけでしょうか・・・)。

 会場に入って最初に目にするのが、私自身が一番記憶に残る“あの”「松本城」でした。松本市美術館蔵の謂わば松本にとっての“お宝”でもありましょう。松本城の“昭和の大修理”が1950年(昭和25年)に始まり、困難を乗り越えて5年後に竣工。本作はその竣工直前の夏頃の作品と云われます。そして画伯の好意に依りこの絵の絵葉書が制作されて、解体修理に携わった工事関係者や協力者に贈られたのだとか。
 この後の展示は画伯の生涯を年代に沿って四つの章に分けて展示されていて、前半の第1章「困難を乗り越えて」では幼少期から20代まで。そして第2章「東奔西走の日々」では、画伯の30代から60代の頃に制作した作品が展開されていました。
後半の第3章は「信州と柏亭」と題され、疎開後から晩年の活動を取り上げた内容。東京大空襲の戦禍を逃れて松本市の浅間温泉へ疎開し、アトリエを設けて制作を続け、亡くなるまでの約13年間で1000点を超える作品を残しました。
最後の第4章「松本をえがく」では、終戦の1年後、松本に腰を据えることを決意して、美術が都市部に偏っている状況を打破するために、画伯自身が取り組んだ様子が紹介されていて、個人的には作品もですが、むしろそれ以上にその記された文章や短歌に詠まれた画伯の想いに大いに惹かれました。
 先ず若い頃からの作品に始まる展示で目に付いたのは、「騎馬随身図」(1890年 個人蔵)という日本画で、この作品は僅か8歳の時の作品。いくら祖父や父が日本画家だったとはいえ、その天賦の才能に驚かされます。
水彩画「とり入れのあと」(1901年 松本市美術館蔵)は若くしてその父を亡くし、一家の大黒柱として働きながら画作に励んでいた19歳頃の水彩画で、松本市美術館に残る柏亭作品の中でも一番古い作品だそうです。
続いて水彩画の「」舟に居る人」(1912年 千葉県立美術館蔵)と、構図、題名ともにマネの「草上の昼食」に着想を得たものとされる、柏亭22歳の初期の代表作の一つ油彩画「草上の小憩」(1904年 東京国立近代美術館蔵)。

また木版画も手掛けていた頃の柏亭の作品「木場」(1914年 長野県立美術館蔵)と、その後支援を得て何度か渡欧外遊した中の28歳の時の作品「サン・ミッシェル橋」(1923年 東京国立近代美術館蔵)。

そして本展における最大級サイズという作品「画室」(1930年 京都国立近代美術館)。この作品は第17回二科展への出品作で、この作品の中には“画中画”として画伯が第15回二科展に出品した「果樹園の午後」(1928年 福島県立美術館蔵)が描かれていて、この「画室」は80年以上もの間個人蔵となっていた作品でその後京都国立近代美術館の所蔵となり、今回が所蔵後の初めての貸し出しで、中に描かれている「果樹園の午後」と共に二つの作品が並べられて見られる貴重な機会になったのだそうです。
 後半は疎開後に迎えた終戦後もそのまま松本に留まり、腰を据え描いた信州縁の作品が並びます。
その中で印象的だった作品が「山河在」(1945年 松本市美術館蔵)。これは、形勢が不利になった戦時中に政府の国民の士気高揚に使われたスローガン「国破れて山河なし」に反発して描いたという作品で、そこから犀川となる奈良井川と梓川の松本市島内の合流地点から見た信州の山河を描き、戦後最初の「日展」へ出展された作品です。
杜甫「春望」の一節「国破れて山河在り 城春にして草木深し」をモチーフに、敗戦後描いた作品と共に、
 「やぶれたる 国ではあれど 山河のすがたうつくし 心なぐさむ」
と画伯が詠まれた短歌も一緒に添えられていました。
「画室小集」(1949年 長野県立美術館蔵)は、画家達が集うサロン的な情景を描いた作品ですが、画面にはサントリー角瓶と分かるボトルが描かれています。また背後には風景画がこれも“画中画”として描かれています。その作品は浅間温泉のアトリエ付近から松本平を見た「麦秋」(1949年 長野県立美術館蔵)。
その「画室小集」に似た作品が「中信酒客」(1953年 松本市美術館蔵)。
こちらは、中信美術展の会場にいた地元の作家たちが、絵画展に偶然訪れた柏亭にビールをご馳走になろうと画策して市内のレストラン「鯛萬」に連れ出し、柏亭は5日間「鯛萬」に通って彼らをモデルにこの作品「中信酒客」を描いたのだとか。そして、その間のビール代は画伯が快く支払ったのだそうです。隣はやはりアトリエ付近から見た風景の「浅間眺望」(1945年 浅間温泉菊之湯旅館蔵)。
最後の「松本をえがく」の章では、松本の情景などを描いた作品を主体に展示されていました。
松本に腰を据えてから何度も描いた別の「松本城」(1945年 松本市美術館蔵)と「槍ヶ岳」(1946年 個人蔵)。そして依頼されて描いたという珍しい屏風絵「菜園果樹」(1946・49年 松本市美術館蔵)や女鳥羽川(1947年 松本市美術館蔵)など。
展示フロアには絵画作品だけでなく、「終戦一年後の信州」と題して、新聞社に送られたという画伯の決意を示した文章が展示されていて、曰く
「(前略)
幸いに空襲被害の殆どなかった此県は日本有数の地方文化中心にならうとして居る。
 東京へは要件のある時だけ行くことにして、私は此地に腰を据える覚悟をして居る。美術の大都市偏在の弊を聊(いささ)か破ることが出来るならば幸であると思って居る。
 日本アルプスの関門にあたる松本市の如きは観光都市としての施設の改善も考へなければなるまい。先づ第一に終戦中の誤った指導に基づく家屋の迷彩を剥いで、以前の誇りであった白壁の美しさを取戻さなければならず、市の文化懇談会でさう云う意見を述べもしたが、其実現の一日も早からむことを希望して居る。」
  (「女鳥羽川」1947年、松本市美術館蔵と同じ場所から見た現在の写真)
 敗戦後間もない80年も前に、現在の地方文化の創生にも繋がる画伯の先見性であり、こうした強い志を持つ石井柏亭の元には必然的に信州に疎開していた他の芸術家や地元の画家たちが自然と集まり、やがて信州の美術界の中心となっていったのです。
それはきっと石井柏亭が中央画壇の重鎮だったという実績と名声によってではなく、中央から離れたこの信州の僻地から気概を以って中央画壇に立ち向かおうとする画伯自身の強い志が、齢60を超えて尚その煮えたぎる様な熱い想いで、やがて皆を巻き込むマグマの核(コア)となっていったのでありましょう。
そんな石井柏亭画伯の熱き想いが80年の時を越えて感じられた、非常に印象深い絵画展でした。

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