カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 さて、前話での和田さんの言われたポイント、『外資(外国資本だけではなく県外資本を含めた“地元の外”)に頼らず、地元の若い人のために「土地を売らず」に「地元調達率を高め」て、「稼ぐ手段を地元に残す」。そのためには(地元に金が無ければ)Fundを活用する』という意味で、最近気になったことがあります。白馬やニセコの様な、地域というエリア全体の話題ではありませんが、古くからの地元の人気店が、後継者が居なくて最近幾つも“地域外の資本”に経営が変わった事例です。

 それは、松本の地で50年近く愛され続けてきた老舗の人気洋食店「民芸レストラン盛よし」です。
松本の有名店でもあったこの洋食店は、二代目の女性経営者が体調を崩したため、2023年3月に多くのファンに惜しまれつつ、一度は閉店しました。そして、それから5ヶ月後の8月に復活。店のH/Pでの紹介に依ると、
『“思い出の味を思い出だけにはしたくない”というスローガンの元、「民芸レストラン 盛よし by onion」として復活プロジェクトが開始。盛よしの味を愛してくださっていたファンの皆様に、「変わらない盛よしの味」をお届けするため、レシピは営業当時のものを受継ぎ、当時と同じメニューを再現。盛よしで40年以上腕を振るった大ベテランのシェフと、その右腕として20年以上腕を振るったシェフ、盛よしの味を熟知した2人が、「思い出の味」を再び提供しています。』
ところが最近、市内の庄内地区に「初代 民芸レストラン盛よし」なるレストランが出現したのです。同様にその店のH/Pでの紹介に依ると、
『当店「初代民芸レストラン盛よし」の看板メニューは、伝説の味として語り継がれてきた「カニコロッケ」や「ハンバーグ」「エビフライ」など。
創業者の直接レシピと調理技術を伝授された料理人たちが、その「味」と「想い」を忠実に受け継ぎ、新天地で新たなお店をオープンさせます。
店名の「初代」には、「創業者本人から最も深く技術を受け継いだ料理人たちによる、新しい出発」という意志が込められています。』
これに対し、『一部のニュースやSNS等において「盛よし」という名前を冠した新店舗が取り上げられておりますが、当店「盛よし by onion」とは一切関係ございません。私たちは、松本駅前にございます「盛よし」を、これまで共に歩んできた仲間とともに大切に守り続けております。現在話題となっている新店舗は、当店とは別の運営によるものであり、私たちが手がける「盛よし」とは異なります。』
・・・と傍目から見ると、何だかどこかの“元祖”や“本家”を名乗っての主導権争いと同じ様な、批判合戦の様相を呈してさえいます。
元の店が創業者や先代の築いた伝統を否定する様な経営をしているので、それへの批判で、先代に恩義を感じる元従業員が義憤として対抗するというのなら、「美味しんぼ」に描かれる類の“下世話”なストーリーとしては分かります。しかし実態はそうでもない様です。
ですので傍目には何が事実か、どちらが真実かは分かりませんし、「盛よし」の看板メニューのカニクリームコロッケはともかく、こちらも目玉である筈の「盛よし」のハンバーグは、本来ハンバーグは牛100%たるべしと思っている自分にとっては、豚肉の割合が多過ぎて一度食べて懲りてしまったので、個人的には別に初代か元祖かどちらでも構わないのですが、(地方の人気店をおそらく投資目的で)事業継承したOnionというのは、千葉県を拠点としたメディアと広告代理店を運営している会社で、元々はフリーペーパーから始まった「オニオン新聞社」という名前の投資会社なのだとか。
「盛よし」が復活してすぐの2023年12月には、東京の多摩地区にも府中店をオープンし、開店当時は昼も夜も割と行列が出来ていたそうですが、最近ではその光景も無くなったとかで、たった2年ちょっとの2026年3月で「民芸レストラン盛よし by onion 府中」店を閉店したとのこと。出資したのが仮に投資目的であれば、儲からなければ出血を止めるべく、速やかに事業を停止するのも当然なのかもしれません。
無論、“赤の他人からとやかく云われるのは大きなお世話”でしかないのですが、復活した店舗には創業者の二人のお孫さん(二代目の息子さんたち)も調理や運営に加わっているそうですが、「いつか自分たちが」という夢を持って、亡くなった二代目である母上の意志を継ぐためにせっかく調理学校にも通って勉強していた筈なのですから、安易に投資会社に踊らされず、じっくり焦らず兄弟で力を合わせて実力と資金を蓄えてからでも決して遅くはなかったのではないか!?
創業した初代や、経営を軌道に乗せた2代目の苦労を知らず、恵まれた環境でトップに就いた3代目の経営の難しさを、同族経営での事業継続の難しさを表す格言として、“3代目は身上を潰す”などと云われますが、是非自分たちの手で地道に頑張って欲しいと思います。
片や「初代」を名乗る店も、もし味と値段に自信があるのならそんな名称を“客寄せパンダ”的に使わずとも、美味しければいずれ自ずとお客さんは集まって来るのではないでしょうか・・・。
 最近、この「盛よし」以外にも、松本で老舗と云われる様なレストランが店の名前をそのままに、手を挙げた別資本に事業承継(或いは単なる事業継承?)されるケースがありました。
 昨年の9月末で、駅前の公園通り近くで45年続いてきた「若大将」が閉店し、年末の12月に「ニュー若大将」としてオープンしました。地元紙の報道に依れば、
『松本駅前で45年間にわたり地元客や観光客らに親しまれてきた中華料理店・若大将が、後継者がいないことから市内の企業へ事業譲渡することになり、9月30日で店を閉める。駅前で「元祖スタミナやきとり」等を営む会社が事業承継した』とのこと。新店舗の紹介には、
『松本駅前で45年間愛されてきた「若大将」を事業承継しました!
2025年12月頃「ニュー若大将」としてリニューアルオープン予定です。「若大将の想いと人気メニューを引き継ぎさらに愛されるお店を目指してまいります!」ということで、やきとり、餃子、韓国料理に中華居酒屋が加わります!』
個人的には、昔「若大将」がオープンして間も無い独身時代の頃に何度か食べた記憶があるのですが、覚えているのは中華というより、味噌ラーメンや冷やし中華などラーメン屋さんのイメージ。ですので、名前は残っても全くの別形態の店になってしまったので、経営として駅前の好立地の空き店舗を取得し、既に地元で知られた店名を使って店舗を単に増やしただけという感が否めません。もしそうであるならば事業承継ではなく単なる事業継承ですが、果たして・・・?
 また、こちらも公園通りで親しまれて来た老舗の洋食店「どんぐり」が72年という歴史に“一旦”幕を下ろしました。同じく地元紙の報道です。
『レストランどんぐりの店主・浅田さん(67)が3月1日で引退する。松本駅前で72年続く名物店を営む傍ら、全国の災害被災地で炊きだしボランティアを重ねるなど食を通じた社会貢献活動にも取り組んでいる。事業はM&Aで県内の企業に譲渡するが、現店舗はそのまま「どんぐり」として事業承継される。県内で飲食店を展開するデライト(岡谷市、横山社長)に譲った。店はボリューム感あふれるメニューや価格、内装をそのままに、11日に新たなスタートを切る。』
デライトという会社は諏訪郡下諏訪町などで飲食店を運営していて、その一つが諏訪湖畔にある「ホルツ」とのこと。この店は以前「ホルツはつしま」として60年以上続いてきた謂わばローカル版の“ファミレス”で、2020年の3月に経営が変わり「ホルツはつしま」から「HOLZしもすわ店」となっているとのこと。
知りませんでしたが、実は以前のオーナーのご家族が経営していた頃、そのオーナーご自身は私と同じ会社におられた大先輩で、夫婦共々お世話になりましたし、結婚して諏訪に住んでいた頃には何度か食べに行ったこともありました。
その「どんぐり」の経営を引き継いだという方は、報道に依ると、
『「店の名前を残せるなら引き継ごうと考えた。地域に必要な店。まずは常連客に来ていただける店をつくりたい」と説明した。
事業承継の話自体は2年ほど前に持ち上がり、浅田さんも複数面談した中で横山さんを気に入ったが、最初は「どんぐりは良くも悪くも“俺”。俺がいないと成立しない」との思いから屋号やレシピは残すつもりはなかった。こうした考えから一度は断わったが、横山さんの真面目な人柄や運営する店舗の清潔さなどを見聞きするうちに心変わり。昨年の初めに再度打診し、屋号もレシピも残しての承継が決まった。
横山さんは「私自身もよく訪れた場所で、なくなるのは寂しく、店や味を残していくことが大切だった」と振り返る。浅田さんからは「好きにやれ」との激励を受け、駅前はかつてより(パルコ閉店で)人が少なくなっているが「大きくもうけようとは思っていない。この場所にこの店があることが大切であり、まずは常連さんや地域の方に“変わっていない”と認めてもらえるように営業していきたい」と話す。』
(・・・だとすれば、こちらはちゃんとした事業承継でしょうか?)

 長年地元で親しまれて来た店の事業承継、若しくは事業継承としての再出発には、それぞれの事情がありましょう。
前話でご紹介した「ズクトチエ」の和田さんは東京出身の“よそ者”ですが、学生時代から来ていた岩岳や白馬に惚れ込み、その結果『地元の若い人のために「土地を売らず」に「地元調達率を高め」て、「稼ぐ手段を地元に残す」。そのためには(地元に金が無ければ)Fundを活用する。』と自らが経営に乗り出したのは、ご自身の“地元愛”でもありましょう。そしてその地元を大切にする経営スタイルは、嘗ての妻籠や白川郷の「売らない、貸さない、壊さない」にも繋がります。
勿論前話でも指摘した様に、精神論や“美辞麗句”だけで経営が成り立つ訳でないのは百も承知です。しかしそこには単に儲けや稼ぐこと以上に大切なモノがあり、それがあるからこそ例え時間は掛かっても、結果として子々孫々への利益にもまた繋がっていくのではないのでしょうか。
ですので、もし太地真央さん演じる女将さん的に云うならば、即ち、
  「そこに地元への“愛”はあるんか!?」
(上の写真は、CM元であるアイフル株式会社が作成した『「そこに愛はあるんか」と思わず言いたくなる誰もが共感できる、日常の些細な「愛がない瞬間」を描いた全46種類のかるた』の写真からお借りしました)

 先日、以前から興味のあった、岩岳マウンテンリゾートを再生した現「㈱ズクトチエ」代表の和田寛さんの話を聞く機会があり、大いに感銘を受けました。
そうは言っても白馬も決して例外ではなく、中国や県外の“いかがわしい”資本が入りつつあるとも云われていますが、お聞きした和田さんの話は、おそらくニセコを反面教師に、『外資(外国資本だけではなく県外資本を含めた“地元の外”)には頼らず、地元の若い人のために「土地を売らず」に「地元調達率を高め」て、「稼ぐ手段を地元に残す」。そのためには(地元に金が無ければ)Fundを活用して調達する。そして、その実行のために、先ず「危機意識=課題認識の共有」と「(成功するための)ゴールイメージを共有」する。更に、岩岳の成功だけでなく、白馬エリア全体を活性化するために「点でなく面で攻める」』・・・ということに集約出来るかと思います。

 しかし、和田さんの言われたことは必ずしも目新しいことではありません(但し、アイデアマンとしてのブランコや展望テラスといった具体的な展開策の目の付け所の新規性と、また兎角“排他的”な信州の田舎で和田さんの様な“よそ者”が仕掛けたという、大いに評価出来る二点は別として)。
それに今回は全く触れられていませんでしたが、赤字を極力抑えるべく、それまで外部委託していた年間500万円の経費削減のために行った、社長以下全経営陣の自らに依る駐車場整理だけではなく、他にも同様に現場の手が足りない時にはリフトやゴンドラの乗車係から、更にはレストランのレジ打ちや皿洗い、草刈り、雪掻きなどもこなしていたという“泥臭い”一面もお持ちで、その理由が必ずしも単純に人件費削減という経営者としての経済合理性だけではなく、また開成高校・東大卒で元キャリア官僚出身というエリート然としたイメージともまた異なる、(社長が率先し経営者陣が現場で範を示したことも、経営陣が現場の実態を知るという副次的効果だけはなく、チームの士気を高めるためには重要だった筈の)“熱き”一面もお持ちです。
また、和田さんは岩岳の弱点として標高が低い(=温暖化に伴う少雪化の影響を受け易い)ことを挙げておられましたが、実際に冬も夏も行ったことのある人間としては、栂池(昔スキーに行った時に、スパイクタイヤを履いていた時でさえも坂を上るのに苦労したことがありました)などより上り坂が少ないので雪道でもアプローチし易く、また白馬の八方尾根などよりも(道路事情も良くて)国道からも近いので、(スノーマシンで駐車場近くの下のゲレンデに雪を確保することが出来るならば)スキー場へアクセスし易いのは逆にメリットだと個人的には感じました。
 さて、地元を優先させることが決して“目新しくない”と申し上げたのには、県内にはもっと以前に好事例があるからです。
それは木曽の妻籠宿です。この妻籠宿は住民たちが自らの意思で町並みを守り抜いた、日本で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」です。 以下、妻籠宿のHPから借用します。
『昭和43年8月、妻籠宿保存事業は、昭和44年を初年度とする3カ年計画で、町屋を対象とした歴史風土を守る観点から復元・修景を実施した。そして地元住民は、昭和43年(1968年)「妻籠を愛する会」を設立し「売らない、貸さない、こわさない」の信条に基づき、地元住民を中心とした保存事業であり、観光的利用であるという考えのもとに意思統一を図り、さらに妻籠の観光開発は、自然環境も含めた宿場景観あるいは藤村文学の舞台としての景観保存以外にはありえないという考え方を確認し、その結果、我が国初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定(昭和51年)された。』
そして、この「売らない、貸さない、壊さない」という原則で他に有名なのが岐阜の白川郷です。片や世界遺産で、インバウンドを中心に今や200万人の観光客が訪れる人気観光地です。
『この白川郷(岐阜県)の保存理由は、1970年代の近代化に伴う急速な景観消失の危機に対し、住民が「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を定めて伝統的な合掌造り集落を守り抜いたためです。豪雪地帯特有の自然と共生する知恵や、相互扶助「結(ゆい)」の営みが評価され、1995年に世界文化遺産に登録されました。
このままでは白川村の合掌造りがなくなってしまうという危機感を抱いた住民が、昭和46年(1971年)に地域内の資源を「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げ、「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」を全住民の総意で発足、保存活動を展開し始め、これらの保存活動が認められて昭和51年(1976年)に国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、1995(平成7)年には世界遺産に登録されています。』
ですので、「売らない、貸さない、壊さない」は、妻籠が白川郷の先輩格なのです。妻籠も白川郷も必ずしも観光での金儲け目的ではなく、自分たちの街の景観を守る、伝統を守るという住民意識が元々の原点であり、それが結果的に住民主体での“街づくり”として現在の観光産業にも繋がったのです。
 今ではオーバーツーリズムさえ指摘される程、インバウンドの観光客で溢れ返るその白川郷と同様に、片や世界有数と云われるパウダースノーを求めて、オーストラリアなどからの裕福な外国人スキー客が急増し国際リゾートとなったニセコ。その後中国・香港などの外国資本によって開発が進んできたこのニセコ地域で、外国人・外資による不動産取得に伴う地価高騰や無許可での森林伐採、税滞納などの問題が相次いでいるのです。2022年に土地利用規制法が施行されたものの、対象は限定的で売買規制もなく、大きな問題となっています。しかしそれはニセコだけの問題ではありません。
例えば最近の報道では、ニセコばかりではなく、山梨県笛吹市の石和温泉では、バブル崩壊やコロナ禍で経営破綻した旅館・ホテルを中国資本が相場の何倍もの価格を提示して買収する動きが活発で、2025年時点で主要な旅館・ホテル40軒のうち、実に25%に当たる10軒が既に中国系資本に転換されており、宿泊客の8割が中国人という施設も出現、街並みも「ガチ中華」店などが進出する様な変化を見せているとの報道もあり、地元では「高く売れるに越したことは無い」と歓迎する向きもあるのだとか(“戦狼外交”により中国人団体客が来なった今どうなっているのかは知りませんが・・・)。石和温泉そのものが、昭和30年代に入ってボーリングして一面のブドウ畑の中に温泉が噴き出し、高度成長期に歓楽街として賑わったという新しい温泉地なので、もしかすると元々が余り地元とは関係無い資本だったのかもしれません。
勿論精神論や“美辞麗句”だけで経営が成り立つ訳でないのは百も承知です。しかしそこには単に儲けや稼ぐこと以上に大切なモノがあり、それがあるからこそ例え時間は掛かっても、結果として子々孫々への利益にもまた繋がっていくのではないのでしょうか。
 (以下長くなりそうなので、続きは次回「後編」へ)

 “平成の名水百選”に選ばれている「まつもと城下町湧水群」の代表的井戸であり、江戸時代には既に“当国一の名水”と謳われていたという「源智の井戸」の清掃に、これまで30数年間に亘って携わって来られた地元町会の有志の皆さんが、高齢化と担い手となる後継者不足に伴い継続が難しくなっているという状況を地元紙の報道で知り、10年来“タダ”でその水を頂いてきた身としては申し訳なくていたたまれず、その仲間に加えさせていただいたのが一昨年の12月。
その後色々実情を知る中で、私がダメ元のつもりで出した「市長への手紙」がきっかけとなり、その結果、市の第二地区地域づくりセンターを事務局として清掃ボランティアが募集され、昨年3月にそれまで井戸清掃を続けてこられた地元町会の有志「井戸と花の会」からの引継ぎを兼ねてトライアル清掃を行い、翌4月より第二地区の役員の方々など住民有志、井戸利用者、市内在住者や移住者の皆さん等による「源智の井戸を守り隊」が結成されて、月一回の清掃活動が開始されました。

 ボランティア登録者は当初14名からスタートし、その後ボランティア活動に興味を持った若い方々の参加も得て、最近では大手企業の松本支店のメンバーの方々が地域貢献として参加されるなど徐々に増加し、現在では39名を数えるまでになりました。
また市の「松本市地域チャレンジ応援事業補助金」制度が令和7年度からスタートしたことに伴い、「源智の井戸を守り隊」の清掃ボランティア活動に伴う必要な備品購入費用が「一般チャレンジの部」に採択され、それまでボランティアの方の善意に頼っていた水中ポンプと発電機をその補助金で購入して毎月の清掃活動に役立てると同時に、ボランティア参加登録者全員に万が一に備えた傷害保険を年間付保することも可能となりました。
 そこで、この3月を以て清掃ボランティアとして丸一年が経過しますので、3月上旬の清掃後、“モーニング会”と称し、源智の井戸の水で淹れたコーヒーで朝食を食べながら、一年間の活動をふまえて来年度の進め方を話し合う場を持ちました。
当日は30人を超えるメンバーに参加いただいたのですが、20代の若者から、松本へ移住して来られた方々や、更には地元の80代の(失礼ながら)“お年寄り”までさまざま。
中にはご高齢のため、正直手は余り動かずに見ているだけの方もおられるのですが、それで結構!井戸の実情を知り我々の応援団となって、色んな場面で働き掛けを行ってくださっておられます。そのお陰で、例えば地域の育成部長さんが夏休みの子供たちの参加を検討するために見学に来られるなど、有難いことに、手が出せぬなら口でしっかりサポートしてくださっているのです。
 昨年までは、地元町会に有志の方々が藻の繁殖する夏場は月三回、冬は月二回の清掃を実施して来ました。今年度から、地元町会に長年の要請もあって、清掃ボランティアとは別に市の特別史跡である「源智の井戸」を管理する文化財課が予算を確保して外部業者に清掃業務を委託し、月二回、我々と合わせて月三回の井戸清掃が行われて来ました。
しかし、少子化に依る人口減は松本市も例外ではないので、今後もずっと業者委託の予算が確保される保証はありません(というよりむしろ不可能でしょう)。
そこで、今回は39名にまで登録メンバーが増えたことに伴い、二年目を迎えるにあたり、来月からボランティアを二班編成にして、今年度の月一回を月二回と清掃回数を増やすことを計画し、清掃後の親睦を兼ねての“モーニング会”の中で提案させていただいて、皆さんから賛同を得ることが出来ました。また幾つかアイデアも頂き、早速今後の改善に繋げることにしました。
 清掃ボランティアである「源智の井戸を守り隊」の活動は、井戸の在る市の第二地区地域づくりセンターが事務局となってはいますが、高齢化と空洞化で地元町会が白旗を挙げたことに依り、これまでの市政における通常のパターンである行政と地元町会とではなく、地域外の有志ボランティアの市民とコラボして実現した活動です。
市の職員も人的に決して十分な訳では無いので、市民からの要望に全て対応することは困難です。そうであるとすれば、市の補助金活用など行政は「金」を出す。そして市民は「口」で要望するだけではなく、そうした「チエ」と共にしっかり「ずく」も出す。市民も自分の手を動かすことで、双方課題解決に繋がっていければ良いのではないでしょうか。
そしてそんな活動に、松本の未来を担う子供たちや、松本の街を気に入って来てくれた移住者や、そして松本が好きでUターンで戻って来た若者たちも興味を持ち、やがて参画して貰えたら・・・。
 「決して世の中、そして松本の街も、まだまだ捨てたもんじゃない!」
・・・最近、何だかそんな風にも感じています。

 先日、税務署での修正手続きへ行って来ました。
久し振りだったので、ウォーキングがてら歩いて、松本駅から伊勢町、大名町を通って、松本城を抜けて・・・。
平日の月曜日でしたが、外国人の方も含め観光客の方も結構おられます。

土地土地によって“春”の感じ方は違うかもしれませんが、個人的には啄木の

 『 やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに 』

ではありませんが、早春、梅よりも先に僅かに「青めいてきた柳」の新芽を見ると、何となく春の訪れが近いことを感じます。
そして、“春告草”の梅。松本城公園にも20本程の白梅と紅梅が植えられた一角があり、「松本城管理課によると、公園内の梅は例年並みの2月15日に開花した」との報道がありました。
この日はもう3月の中旬でしたので、お堀端の柳も芽吹いていましたし、紅白の梅の中にはもう満開に近い木もありました。柳越し、梅林越しに眺めると、天守閣も何となく春めいているように感じられます。
そうは言っても、信州では風はまだ冷たく感じますが、お堀の水面も陽光にキラキラと輝いているのを見ると、その風も心なしか春めいて感じられるのは、陽の光の中にも春が“混じり始め”ているからなのかもしれません。
(下の絵は、春の伊那谷下条村を描いたという、原田泰治画「梅の咲く頃」)
 今年の松本城のお堀端の桜の開花予想は、少し早まって3月31日とか。
そして税務署からの帰路、開運堂の横を通ったら桜餅の販売が既に始まっていました。販売期間は実際に松本で桜が咲いている4月中旬までとのことですが、桜餅の幟を見たら何だか気分はもう桜の季節になりました。
 松本の“春本番”も間も無くです。

 今日は春分の日。“暑さ寒さも彼岸まで”・・・春のお彼岸を迎え、春の遅い信州松本にもそこかしこに春の雰囲気が感じられる様になりました。

例えば、ロウバイ、オウバイ、万作にサンシュユ・・・。ワンコの散歩でご近所を歩いていると、春先にはそこかしこにそうした花を目にすることが多い気がします。しかも、これらの花ってどれも皆黄色い花ばかり・・・。
因みに、日本で咲く花の中で黄色は白に次いで二番目の多く、実に3割が黄色い花なのだそうです。しかも、特に春先にそうした黄色い花が多い気がします。他にも、身近なところでは早春のフクジュソウに始まり、水仙やタンポポ、菜の花も皆黄色い花・・・。因みに下の写真のオウバイは、一般には“迎春花”とも云われているのだとか。但し、個人的にイメージするのはフクジュソウなのですが・・・。
  『 み吉野の 春つげ草の花の色 あらぬ梢に かかる白雲 』
(まだ梅の花が咲くには早い梢に 白い梅の花の様に白雲が掛かっている)
しかし“春告草”というと、上に記した和歌からも分かるように古来我が国では梅の花になるのだそうですが、個人的には“春色”というと何だか黄色をイメージしてしまいます。

 調べてみると、春に黄色い花が多い理由は、冬眠明けのハエやアブなどの昆虫に、殺風景な早春の景色の中で黄色を強調し、受粉の手助け(虫媒花)をしてもらうためなのだそうです。黄色は春になって飛び始めたハエやアブなどの昆虫が敏感に反応する色であり、効率的に子孫を残すためのそれらの植物にとっての子孫を拡げ生存するための知恵なのです。
また寒さの残る景色(茶色やグレー)の中で黄色は目立ち、虫たちに花の場所をアピールし易いとも云われています(視認性)。

 そうした春を代表する黄色い花の一つにタンポポがあります。それこそ季節になると、リンゴ園がタンポポで黄色の絨毯の様に染まります。
大分昔ですが、2009年にタンポポについてブログに書いたことがあった(第78話)ので、その部分のみ抜粋します。
『上述の女性ハーブ研究家の方が、昔(日本でハーブがブームになる遥か前)「食用タンポポ」を海外から取り寄せて植えて楽しみにしていたら、春生えてきたのは“そんじょそこら”のどこにでもある普通の西洋タンポポだったのだそうです。タンポポは仏語でピサンリ。英語ではダンディリオン(dandelion)。そのノコギリのような葉から「ライオンの歯」を意味する仏語に由来とか・・・。
西洋タンポポって、ヨーロッパでは古くからの食用ハーブだってご存知ですか?
作庭に際して熟読したある女性ハーブ研究家(注記)の方の記述に寄れば、早春のパリの青空市場に大量に積まれ、パリっ子にとっては待ち望んだ「春告げ」野菜?なのだそうです(生のままサラダで食べて、毎日どんより曇った暗い冬が去って明るい春が来たことを実感するのだとか)
我家のリンゴ園にもいくらでもあるので、以前、本に記載されていたお薦めレシピ(確か、生の葉を固ゆで卵の黄身をほぐしたものと絡ませ、細かく切ったベーコンをオリーブオイルでカリカリになるまで炒めてタンポポの葉にかけるだけ)に沿って試してみましたが、以降、家族からのリクエストは無し・・・。

【注記】 広田セイ子女史(セイは偏が「青」の旧字体に右側の「つくり」が「見」)。わが国のハーブ研究のパイオニアだそうです。女史の著作『香りの花束・・・ハーブと暮らし』(84年初版)の文庫版(92年講談社刊)のから引用。この本は、カラー写真入りのハーブのリスト、栽培方法やレシピなどもあってハーブガーデン作庭の際に大変重宝しました。 』

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