カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
12月21日に京都で行われた、師走の都大路を走る全国高校駅伝。
3連覇の偉業を狙った男子の佐久長聖高校は1区の出遅れが響き、その後追い上げるも及ばず10位に終わりましたが、昨年の優勝メンバーが4人残った女子の長野東が、今年も1区区間賞からの1位を一度も譲らずに見事連覇を果たして、3度目の全国優勝を飾りました。しかも、エースの真柴愛理選手が故障明けで回った留学生も走る3km区間の3区で、それまで留学生選手の持っていた区間記録を大幅に上回る驚異的な新記録で走り抜けたのには感動しました。平坦なトラックの3000mでも9分一桁のスピードはトップクラスの記録なのに、それが最後の1㎞は完全な上り坂だったにも拘わらず、男子並みに3分を切っての結果9分6秒という、TV解説を務めた小林祐梨子さんも記録を二度見して確認し直す程の驚異的な走りでした。

ただ陸上の長距離では昔からマラソンのオリンピック代表など国内トップクラスの選手を排出するなど、長野県では昔から地域別対抗で県内を南北に走る県縦断駅伝が盛んだったこともあり、地域の“駅伝クラブ”などで小学生位から子供たちを育てるなどして、その中の有力選手が結果、県内で有能な指導者の居る高校の男子では佐久長聖、女子では長野東に県内全域から集まるようになって、その結果唯一駅伝競技だけがあたかも県高校選抜チームの様になって全国でも上位争いが出来るまでのレベルになってきたのです。
しかし、そうは言っても佐久長聖は私立高校であり、寮も持っていて、甲子園に出た高校野球に始まりスポーツ全般に力を入れているのも分かりますが、片や長野東は公立高校なのです。

その河川敷のコースでは、一般の市民ランナーの皆さんやウォーキングでも使われる地元の方々に混じっての練習のため、コースの清掃や整備なども朝晩の練習前後に率先して取り組んでいたことから、やがて市民の間でも同じコースで一緒に練習をする彼女たちを自然に応援する様になり、中には毎朝子供たちが来る前にコースの手入れや整備をしたり、子供たちへ差し入れをしたりする地元の方々が現れる様になったのだそうです。
そうしたことが相乗効果を生んで、コースは素より応援してくれる地元の皆さんへの感謝を、自分たちは走ることで、更に結果を出すことで恩返しすることが彼女たちの一番の目標になっていったのだとか。
そして、そうした努力がやがて成績としても実を結ぶようになった結果、私立高校の様なスカウティングはしない公立高校ですが、今度はそんな長野東に憧れて、最近では隣県からも長野東に進学してくる生徒が出て来たのだそうです。

最初の優勝は留学生を擁する仙台育英を最終区で逆転して、県内出身の地元の子供たちだけでの初優勝。男子での連覇を成し遂げた佐久長聖と共に、初の“長野県勢男女アベック制覇”で、まさに“駅伝王国長野”の面目躍如となりました。
そして今回の長野東3回目の全国優勝となる連覇は、昨年同様またも1区から首位にたっての堂々の完全優勝。強豪私立高校を相手に、胸のすく様な公立高校の快挙と言っても決して過言ではありません。まさにアッパレな長野東の全国優勝でした。
あと、駅伝競技でまだ残るのは、女子は今まで入賞だけで一度もメダル獲得が無い全国都道府県対抗駅伝大会で、これまで4連覇中の男子県勢の佐久長聖同様に、OBや進学候補の中学生を含めた“オール長野東”での長野県としての初優勝・・・のみでしょうか。
先行した佐久長聖同様に、女子も細田あい選手や萩谷楓選手といった日本代表クラスの社会人選手や、また卒業後に大学女子駅伝で活躍する長野東OBが増えて来ているので、いつか必ずその夢が実現されるものと期待しています
【注記】
掲載した写真は、長野東高校陸上部の紹介頁から拝借しました。
新年 明けましておめでとうございます。
『山高く 水清くして 風光る』(平林荘子)
2026年、信州松本より謹んで新春のお慶びを申し上げます。

今年最初に掲載した写真は、薄っすらと雪を被って白く雪化粧をした、水清き“湧水の街”松本の名水「源智の井戸」の祠と縁起物の南天です。
今年も先ずは、マンションのベランダから鉢伏山に登る初日の出に今年一年の平穏無事を祈りました。三重大学の40数年間に亘る調査で、温暖化で夏が3週間長くなりその分春と秋が短くなっても、冬の長さは変わらないのだとか。
信州松本の冬らしい、モルゲンロートに染まる常念岳を始めとする北アルプスの峰々を眺められるのも幸せなことなのかもしれません。
(原田泰治「ふるさとの四季・冬」)
新年の2026年は午年です。決して立ち止まることなく、ギャロップの様に何事も軽快に駆け抜けて行ける年になります様に。
私個人は、今年も“山高き”松本に暮らす幸せを感じながら、“水清き”松本の象徴でもある「源智の井戸」のボランティア清掃等に精を出す“普通の”年になりそうです。
最後に、今年一年の皆さまのご多幸を、ここ信州松本より謹んでお祈り申し上げます。復興途上の能登半島や地震の不安の尽きない東北北海道、そして世界に目を転じれば、なかなか区切りの見えないウクライナとガザ。そんな人々にもどうか一日も早く穏やかな“普通の”日常が戻って、以前と変わらない“普通の年”になりますように。
本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。
カネヤマ果樹園一同+コユキ&クルミ💛
今年一年、特段の大きなイベントも出来事も無く、淡々と暮れようとしている我が家の2025年です。しかし、その平々凡々が一番の“何より”だったのかもしれません。
私事では、昨年12月から参加した地元町会有志の皆さんに依る「源智の井戸」清掃ボランティア。中心市街地の高齢化とドーナツ化に伴う担い手不足に依り維持することが困難となり、年度末の3月末を以って解散することになっていて、私の投書した「市長への手紙」を切っ掛けに、結果私一人が残って4月からの清掃ボランティアとして引き継ぐことになりました。そのため地域の行政窓口の職員の方々と協力し、ボランティアを募集した結果30人を超える方々が集まって下さり、ここで思いがけず同じ様に困っていたという他の井戸とも連携が始まるなど、行政と連携しながら「まつもと城下町湧水群」維持管理に向けて、まだホンの小さな光ですが、一年前の今頃には想像すら出来なかった様な、将来への発展可能性をも見えてきた一年でした。
この年末には、昨年までの地元町会の方々に代わって井戸の大掃除をして、注連縄も新しく張り替え、また正月用の松飾りのお松は地元町会で準備してくださり、無事に新年を迎える準備が整いました。

保護犬ボランティアのコユキも世話していただいた仮親さんに依ると、クルミは「劣悪な環境」から救い出されたワンコで、骨折をそのまま放っておかれたせいで、左の後ろ脚が曲がらずに伸びきったまま。当初は散歩も無理かと心配しましたが、これが“跳んでも八分・・・”。
「劣悪な環境下で生き延びてきた子ですから、存外強い子かもしれませんヨ!?」
と仮親さんが言われた通り、慣れてくると“お転婆娘”の本領発揮で家の中を元気に走り回るようになり、食欲旺盛で保護されていた時の痩せこけていた体も、「これ以上太らせないように!」と獣医さんから注意される程に順調以上に!?成長しました。今では先住犬のコユキと仲良く暮らしていて、夜は(信州の冬は寒いせいでしょうか)二匹でくっ付いて寝ています。

一昨年に二人目の孫が生まれてから、毎月二週間次女の所に家政婦で行っていた奥さまも、上の孫が4月から幼稚園に入園したことから、手伝いに行くのは隔月になったのですが、逆に幼稚園の春休み、夏休み、年末年始の冬休みには(例え数日間でも、ジジババに任せっ切りの生活に味を占め?)次女が孫たちを連れて松本へやってくるようになりました。“ジジババ”的には有難い限りなのですが、そのお陰で今年の自分たちの旅行は箱根に行ったのみ(なお奥さまは長女に会いに今年もNYに行かれましたが・・・)。
そんなこともあって、お陰さまで大きなトピックスも無い(そのためブログネタには苦労する日々・・・)、そんな“平和”な一年でした。

さて今年の本ブログへのアクセスは昨年の37万件を大きく超えて遂に年間40万の大台を突破。しかもその中で2月と5月は月のアクセス件数が4万件超えたこともあり、有難いことに今日の時点で41万件に達し、今年も過去最高のアクセス件数を更新することが出来ました。いずれにせよ、ご愛読いただき本当にありがとうございました。
それでは皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。
カネヤマ果樹園一同+コユキ&クルミ💛
12月7日まで松本市美術館で開かれていた企画展「戦後80年 石井柏亭 “えがくよろこび”-信州から美術の未来をみつめた画家」。
個人的には子供の頃、多分地元の八十二銀行のカレンダーに使われていた石井柏亭の「松本城」の絵が印象的で今でも忘れられず、画伯の企画展が開かれると知り前売り券を購入してありました。

石井柏亭は祖父と父が画家で弟が彫刻家という東京の芸術一家に生まれ、自身は二科会や一水会の創設に関わるなど中央画壇の重鎮として活躍していましたが、東京大空襲で自宅とアトリエが全焼したのを機に、戦時中に松本市の浅間温泉(当時は本郷村)に疎開してアトリエを構え、終戦後もそのまま留まって信州美術会の設立にも尽力し、現在も続く「県展」を創設するなど、戦後の信州美術界の再興と発展にも大きな足跡を残した画家です。今回は、そんな石井柏亭画伯の信州に縁の作品を中心に、松本市美術館が収蔵する作品のみならず、長野県立美術館をはじめとする県内の美術館から東京国立近代美術館など県外の美術館や個人蔵に至るまで、幼年期の作品をも含め画伯の初期から晩年までの作品100点余りを展示した、松本市美術館が企画する初の石井柏亭だけの絵画展で、謂わば石井柏亭の大回顧展ともいえる絵画展でした(そして、今回の企画展でありがたかったのは、その展示作品の殆どが地方の美術館では珍しく、フラッシュ無しでの写真撮影がOKだったこと。松本市美術館側の配慮に大いに感謝したいと思います。あとは、都会に比べて遅れているクラシック演奏会でのアンコール時の写真撮影だけでしょうか・・・)。
会場に入って最初に目にするのが、私自身が一番記憶に残る“あの”「松本城」でした。松本市美術館蔵の謂わば松本にとっての“お宝”でもありましょう。松本城の“昭和の大修理”が1950年(昭和25年)に始まり、困難を乗り越えて5年後に竣工。本作はその竣工直前の夏頃の作品と云われます。そして画伯の好意に依りこの絵の絵葉書が制作されて、解体修理に携わった工事関係者や協力者に贈られたのだとか。


後半の第3章は「信州と柏亭」と題され、疎開後から晩年の活動を取り上げた内容。東京大空襲の戦禍を逃れて松本市の浅間温泉へ疎開し、アトリエを設けて制作を続け、亡くなるまでの約13年間で1000点を超える作品を残しました。
最後の第4章「松本をえがく」では、終戦の1年後、松本に腰を据えることを決意して、美術が都市部に偏っている状況を打破するために、画伯自身が取り組んだ様子が紹介されていて、個人的には作品もですが、むしろそれ以上にその記された文章や短歌に詠まれた画伯の想いに大いに惹かれました。


水彩画「とり入れのあと」(1901年 松本市美術館蔵)は若くしてその父を亡くし、一家の大黒柱として働きながら画作に励んでいた19歳頃の水彩画で、松本市美術館に残る柏亭作品の中でも一番古い作品だそうです。




また木版画も手掛けていた頃の柏亭の作品「木場」(1914年 長野県立美術館蔵)と、その後支援を得て何度か渡欧外遊した中の28歳の時の作品「サン・ミッシェル橋」(1923年 東京国立近代美術館蔵)。


そして本展における最大級サイズという作品「画室」(1930年 京都国立近代美術館)。この作品は第17回二科展への出品作で、この作品の中には“画中画”として画伯が第15回二科展に出品した「果樹園の午後」(1928年 福島県立美術館蔵)が描かれていて、この「画室」は80年以上もの間個人蔵となっていた作品でその後京都国立近代美術館の所蔵となり、今回が所蔵後の初めての貸し出しで、中に描かれている「果樹園の午後」と共に二つの作品が並べられて見られる貴重な機会になったのだそうです。

その中で印象的だった作品が「山河在」(1945年 松本市美術館蔵)。これは、形勢が不利になった戦時中に政府の国民の士気高揚に使われたスローガン「国破れて山河なし」に反発して描いたという作品で、そこから犀川となる奈良井川と梓川の松本市島内の合流地点から見た信州の山河を描き、戦後最初の「日展」へ出展された作品です。

「やぶれたる 国ではあれど 山河のすがたうつくし 心なぐさむ」
と画伯が詠まれた短歌も一緒に添えられていました。




こちらは、中信美術展の会場にいた地元の作家たちが、絵画展に偶然訪れた柏亭にビールをご馳走になろうと画策して市内のレストラン「鯛萬」に連れ出し、柏亭は5日間「鯛萬」に通って彼らをモデルにこの作品「中信酒客」を描いたのだとか。そして、その間のビール代は画伯が快く支払ったのだそうです。隣はやはりアトリエ付近から見た風景の「浅間眺望」(1945年 浅間温泉菊之湯旅館蔵)。


松本に腰を据えてから何度も描いた別の「松本城」(1945年 松本市美術館蔵)と「槍ヶ岳」(1946年 個人蔵)。そして依頼されて描いたという珍しい屏風絵「菜園果樹」(1946・49年 松本市美術館蔵)や女鳥羽川(1947年 松本市美術館蔵)など。

「(前略)
幸いに空襲被害の殆どなかった此県は日本有数の地方文化中心にならうとして居る。
東京へは要件のある時だけ行くことにして、私は此地に腰を据える覚悟をして居る。美術の大都市偏在の弊を聊(いささ)か破ることが出来るならば幸であると思って居る。
日本アルプスの関門にあたる松本市の如きは観光都市としての施設の改善も考へなければなるまい。先づ第一に終戦中の誤った指導に基づく家屋の迷彩を剥いで、以前の誇りであった白壁の美しさを取戻さなければならず、市の文化懇談会でさう云う意見を述べもしたが、其実現の一日も早からむことを希望して居る。」


敗戦後間もない80年も前に、現在の地方文化の創生にも繋がる画伯の先見性であり、こうした強い志を持つ石井柏亭の元には必然的に信州に疎開していた他の芸術家や地元の画家たちが自然と集まり、やがて信州の美術界の中心となっていったのです。
それはきっと石井柏亭が中央画壇の重鎮だったという実績と名声によってではなく、中央から離れたこの信州の僻地から気概を以って中央画壇に立ち向かおうとする画伯自身の強い志が、齢60を超えて尚その煮えたぎる様な熱い想いで、やがて皆を巻き込むマグマの核(コア)となっていったのでありましょう。
そんな石井柏亭画伯の熱き想いが80年の時を越えて感じられた、非常に印象深い絵画展でした。
孫たちが横浜に帰る最終日。
蕎麦好きの婿殿のために、山形村のそば処「木鶏」で新蕎麦を食べてから松本発の午後のあずさに乗るようにと、事前に予約をして伺いました。
勿論儀弟のそば処「丸周」にも何度も行ったことはあるのですが、営業中に子供たちが騒ぐと、やはり周囲のお客様には気兼ねをして申し訳なく、親戚だと尚更余計に気を使ってしまいます。



コシもあって喉超しも良く美味しかったのですが、最近の蕎麦は秋の新そばであっても、何処で食べても何故かあまり香りが感じられない気がします。また。木鶏の蕎麦の量は大盛りだと240だったか250gで少々足りない気がして、鬼盛りが300gとのことだったのでそちらの方が満足出来るかもしれません(次回は鬼盛りにしたいと思います)。





