カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 先日、「源智の井戸」の清掃ボランティアに参加いただいている方のコーディネートで、松本市の上下水道局に伺う機会があり、毎日私たちがお世話になっている松本市の上水道と下水道について状況をレクチャーいただき、併せて松本の上水道の水源の一つである「島内水源地」と下水道の「宮淵浄水センター」を見学させて頂くことが出来ました。
その両方の現場も含めて水道局で説明をお聞きする中で、今回私が一番に感じたことは、専門知識の高い、そして志ある職員の方々の存在と、そして誠に失礼ながら(昔よりも遥かに改善されてきたとはいえ)窓口で感じる“お役所意識”が鼻に付く様な“公務員”ばかりではないことでした。今回それを知って、何だか嬉しく、そして“任せて安心”という意味で非常に頼もしく感じた次第です。
そして、状況面で知り得たことの一番重要な点は、上水道よりも下水道の方に、設備投資と維持管理に関してより多額の資金(住民税+国や県からの公的補助金)が掛かっているという現実でした。
松本市では市内の小学4年生の社会見学の一環として、宮淵浄化センターの下水処理場を見学して貰って、その状況を子供ながらに認識して貰うことと、そして何より家に帰って台所を預かるお母さん方に、家庭の台所での洗剤や油の使用に関して、多分一番効果的であろう子供さんの口から直接注意喚起して貰うことを目的に、毎年実施しているとのことでした。
 当日、先ずは上下水道局で、専門職員の方から松本市の上水道と下水道の歴史と現状についてレクチャーを受けました。
湧水に恵まれた松本は、江戸時代から木管などを使った簡易水道が城下町へ導水されていましたが、有圧送水・濾過上水・常時給水という近代上水道の歴史は、我が国では明治20年の横浜に始まり、ここ松本は二度の大火に依る防火上の観点からもその必要性が高まって、大正12年から給水がスタート。最初の水道網は市街地の中心部から始まり、私の生まれた岡田の神沢地区も大正15年には他に先駆けて水道が敷かれるなど、徐々に周辺の農村部にまで拡大して、令和5年には創設から100周年を迎えたのだそうです。
松本の上水の水源地は旧松本市が7つ、平成の合併に伴い四賀、梓川、奈川地区を含めると、市内には全部で39ヶ所の水源地と17の浄水場があり、美ヶ原の麓の三城から乗鞍地域まで広域に亘っています。
メインの水源は松本市、塩尻市、山形村に上水を共有する県の奈良井ダムの松塩水道用水で、塩尻の本山にある浄水場を経由して、松本市には契約上一日63000㎥の水道水が供給されています。これが松本市の水道水の80%、旧松本市で云うと90%の水量を賄っていて、残りを旧市内で云うと、島内と源池の水源地の湧水をブレンドして旧市内に配水されているのだそうです。
続いて、下水道の説明を受けました。松本市の下水道は昭和34年に宮淵浄化センター、昭和57年に両島浄化センターが共用開始され、その後の広域合併により旧安曇村の上高地浄化センターを始めとする各エリアの浄化センターを含め、計6ヶ所の浄化センターでカバーされており、普及率は97%とのことでした。
そして上下水道両方に関係する喫緊の課題は、埼玉県の道路陥没事故に見られる様に、松本市も同様に給水管や下水道の本管の老朽化とその取り換えなどの改善事業です。これは上下水道に留まらず、高速道や橋脚なども含め、我が国のインフラ全体が今抱えている問題でもありましょう。

   (登録文化財の手前の丸い屋根が集水井、奥の建物が旧喞筒室)
 レクチャー終了後、現場を見せて頂くことになり、職員の方に案内頂いて、島内の第一水源地と宮淵の浄化センターを見学させて頂きました。
この島内第1水源地は、大正12年に設置された松本市の近代水道の創設当初の施設で未だに現役でもありますが、集水井や会所、旧喞筒室などの建物などが国の登録有形文化財に指定されています。そうした古い施設だけではなく最新の自家発電設備もあって、万が一の事態にも備えています。こうした普段はなかなか見られない(中に入れない)施設であり、源智の井戸をきっかけに松本の湧水に多少なりとも関わる者として、今回一番関心のある施設でした。

   (旧喞筒室の外観と、移設保存されている初期の給水管)
島内には二つの水源地があり、この第1水源地は能力27500㎥/日の湧水量に対し、取水量は7500㎥/日とのこと。これは、県の奈良井ダムの上水が契約上松本市に63000㎥/日が毎日供給されて来るので使い切らないといけないために優先され、その差を市内の水源で埋めているためなのだそうです。因みに説明に依ると、この島内水源地の水は、大町や安曇野の湧水と同じ北アルプスからの伏流水で、糸魚川静岡構造線の断層が、島内のすぐ目の前に聳える城山山系にあり、すぐ横を流れる奈良井川の地下には固い岩盤層があって、この層に遮断された伏流水がこの島内地区で豊富な湧水として地上に湧き出しているのだそうです。市内に在る源池の水源地は美ヶ原などの筑摩山系からの伏流水の湧水ですが、ここは北アルプスの水。松本の上水道には、主な奈良井川の水に、北アルプスと筑摩山系の二つの湧水がブレンドされていることを初めて知りました。因みに、この「島内第1水源地」の湧水が非加熱除菌され、松本のおいしい水道水をPRし水道水の利用を促進するため、市の主催行事、会議、イベント、観光宣伝、コンベンション用として提供されていた「信州松本の水」で、「モンドセレクション2014」のビール・飲料水・ソフトドリンク部門で金賞を受賞しています。
  (旧喞筒室内部の現役のポンプと、加圧され奈良井川を渡る給水管)
ウォーキングで歩く城山には配水地があって、どうしてこんな所にといつも不思議に思っていたのですが、ここ島内水源地から見ると、城山はホンの目と鼻の先。この島内水源地(おそらく標高は580m程)からの給水管が奈良井川を渡って、すぐそこの断層の崖の上の標高650mの城山まで一気にポンプアップして、そこから南側には緩やかに傾斜している市街地に向けて自然に流れ下って行くのは、大正時代に作られた上水設備として、自然の理であることが良く分かりました。
 続いて訪れた宮淵浄化センター。奈良井川沿いにJR大糸線を挟んで、72000㎡という敷地に82000㎥/日の処理能力を持つ二つの浄化処理場が並んでいます。両島にも60000㎡の敷地に33000㎥/日を処理可能な浄化センターがあり、この二つの施設で旧松本市全域の下水処理をカバーしています。
ここに集められた下水は、最初沈殿池で水に溶けない汚れを沈めて取り除き、次に反応槽のタンクに送られて微生物によって汚れが食べられ、最終沈殿池でも更に汚れが食べられて集まった微生物も沈められ、見違える程透明でキレイになった水が更に塩素消毒されて、最終的に奈良井川に放流されます。見学の途中で沈殿池の水をすくって、大型のメスシリンダーに入れて見せてくれましたが、数分もすると汚れと微生物が沈んで、澄んだ水と汚れとのキレイな二層にクッキリと分かれたのを見ることが出来ました。
     (奈良井川への放流口)
また、沈殿した汚れは濃縮され汚泥となって、更に脱水されて「脱水ケーキ」と呼ばれるリサイクルされるセメント原料になり、ダンプカーで定期的に売却先のセメント工場に運ばれて行きます。またこの過程で発生する消化ガスは燃料として自家発電用に供され、電気として施設内で使用され、またその排熱は汚泥層の加湿用にも用いられているとのことでした。
私たち市民の知らない所で、コストダウンのために様々な工夫がされていることが分かりました。
こうした施設が傾斜を利用して広大な半地下に巨大な空間として拡がっているのです。上水道の設備に比べ、その巨大さに圧倒されました。
自然の恵みである水を取水し、その見た目もキレイな水を更に浄化して生活用水として使い、その結果汚れた水を全て回収して消毒し、最終的に問題の無いレベルにまで浄化させて、また自然界に戻す。
そして地表面の敷地は、下水の浄化センターという施設への周辺地域や周囲の目を和らげる目的もあるのか、花の時期には摘み取りを市民に無料で開放していている一面のラベンダー畑を始め、きちんと手入れがされた様々な植栽が季節を彩っていました。そんな努力さえも伺えた浄化センターでした。
 今回の上下水道の施設見学を通じて感じたこと。
それは、世界中196ヶ国の中で、僅か9ヶ国しかないという水道水を蛇口からそのまま飲める国、日本。世界の平均降水量の1.6倍という、四季と水に恵まれた日本列島。そして、その中でも市街地に豊富に湧き出る湧水に恵まれた街である松本。
そんな清き水に恵まれた地である信州松本に暮らす自分たちに、その水の有難さと大切さを改めて実感としても感じさせて貰えた、そんな有意義な今回の訪問でした。

  “昭和は遠くなりにけり”・・・。
今や昭和だけではなくて、最早平成さえも遠くに感じるのかもしれませんが、そんな現代の我が松本駅で“古き良き昭和”を感じさせてくれるモノが二つあります。

一つは、JR松本駅の正面に掛かる古い木製の看板。新駅舎建築と共に屋上に大きな看板が付けられたため、一旦外されたのですが、北アルプスから下山して来てこの看板に触れ、初めて登山での無事を確認し合うという昔ながらの“儀式”を望む登山客からの強い要望などもあって、また再度駅舎に掛けられたと言います。
そしてもう一つが、松本駅に電車が到着した時に掛かる、あの「まつもとぉ~、まつもとぉ~」という自動放送のアナウンスです。
そして、40年もの間愛され親しまれて来たこの“名物”アナウンスが、今日の11月16日の最終列車の到着を以って終了し、明日からは新しい音声アナウンスに切り替わるという発表があり、ローカルTVなどで報道されてちょっとした話題になりました。
この「まつもとぉ~、まつもとぉ~」と語尾を延ばす独特のアナウンスの声の持ち主は、アニメ「アルプスの少女ハイジ」のナレーションなどを担当された、今も現役のベテラン声優、沢田敏子さん。
沢田さんは40年ほど前の1985年に、当時の国鉄の駅で使用するアナウンスを依頼されたのですが、その中で上野駅と松本駅用には特別な注文が入ったのだそうです。因みに、沢田さんが選ばれた理由は、甲高いソプラノではなく、沢田さんの声の周波数が機械にも載り易い落ち着いたアルトの声域の持ち主だったからとか。
沢田さんに依ると、収録したのは国鉄が駅の自動放送の本格導入を計画した時期。声の吹き込みの依頼を受け、担当者から「切れの良い発音で」など数多くの指示があり、北海道から九州まで収録した幾つもの駅の中で、東北や信越などの玄関口として一大ターミナルだった上野駅と、松本駅だけがなぜか「別枠扱い」とされ、「上野は郷愁を、松本は旅情を感じるように・・・」と注文されたのだそうです(余談ですが、そのため“鉄ヲタ”の間では「上野オバサン」と呼ばれて有名な存在だったのが、上野駅の音声アナウンスが終了してしまったため、今度は「松本オバサン」と呼ばれる様になったとか)。
それにしても、東京の一大ターミナルだった上野駅と並んで、一地方駅である松本駅がなぜ別格だったのか・・・?
その理由は、当時長野県では冬季五輪の招致話があり、国鉄がいち早く自動放送を導入したからだった様です。

 「松本は今までと他とは違う雰囲気を出して欲しいって言われて。松本はすごく空気が澄んでいて、アルプスの少女ハイジの様に山の澄んだ空気とそこからイメージが膨らんで、“やまびこ”みたいな読み方にしましょうかねと、試行錯誤しながら」何度も録音し直して、漸くOKが出たのだそうです。
そして、現在このような語尾を伸ばすアナウンスが聞けるのは、全国の駅の中でも松本駅くらいなものだとか。
 学生時代に生まれて初めて4年間松本を離れ、そして就職して会社に入り、今度は7年間海外赴任をして、その間に帰省や出張帰国で松本へ帰って来る度に、終着の松本駅に降り立って、この「まつもとぉ~、まつもとぉ~」という松本駅ホームのアナウンスを聞くと、「あぁ~、松本へ帰って来たなぁ」という実感が湧いてきたものでした。
そんな“名物”アナウンスも、機器の老朽化で、自動放送設備の更新が必要になったのですが、新旧放送機器のメーカーが異なりシステムが違うため、40年も前の古い音声データを新しい機器に引継ぐことが技術的に不可能とのことから、JRサイドも止む無くこのアナウンスの変更を決めざるを得なかったとのこと。
というのも、駅の自動放送は単純に「まつもとぉ~、まつもとぉ~」だけではなく、システムとしても技術的に複雑で、松本駅に到着した列車により、その後の放送が全て異なるからです。その到着した列車(松本駅は、特急あずさの終着ターミナルでもあり、また特急しなの途中下車駅でもあり、更に毎回特急とは限らず、普通列車も中央東線、中央西線、篠ノ井線、大糸線とそれぞれあります)毎に異なる内容が、単語、文節毎に事前に録音されている音声データの中から、その都度自動的に選ばれて他の決まりきった文節と組み合わされ、結果として一つの文章になって行くのです。それは、例えば・・・、
『松本~松本~・終着・松本です
お忘れ物の無いよう・もう一度お手回り品をお確かめください
本日は・特急・あずさ・○○(号数)号を・ご利用いただきまして・ありがとうございました
○○方面は・○番線から・○時○分発・普通列車・○○行きをご利用ください
アルピコ交通・上高地線は・7番線の・新島々・行きをご利用ください』
と、都度選ばれた単語と単語の間のつながりに少し間があって、不自然に感じられるのはそのためなのです。
 先月末、そのニュースが流れて、これまで松本に来訪したことが無かったという声の主である沢田さんご本人が、11月1日に地元の鉄道ファンの方々に招かれて初めて松本に来られ、松本駅で40年前のご自身の声を聞かれ、地元TVの取材クルーのリクエストに応えて、40年振りに「まつもとぉ~、まつもとぉ~」というアナウンスを、お年を召されてトーンこそ少し下がっていましたが、現役声優として変わらぬ張りのある“生声”で披露されていました。

 この名物アナウンスは、或る意味松本にとっても“宝”の筈。
良く有名な歌謡曲や歌の発祥の地などに行くと、歌詞を彫った石碑があり、そこのボタンを押すとその歌が短く流れたりすることがあります。
出来れば、そんな簡単な装置で松本駅のどこか、例えば冒頭の古い松本駅の表札の近くにでも(駅の正式なアナウンスの邪魔にならぬよう)、“古き良き”昭和の松本の“記憶遺産”として残して頂くことは出来ないのでしょうか?
或いは、JRとしては併存させるのは日常の業務上無理でしょうから、松本市が支援して(もしくは市民から募集してのクラウドファンディングでも良いから)、例えばJRではない、地元のアルピコ交通の上高地線専用の松本駅の7番線ホームで、ワンマンカーのアルピコの電車の松本駅到着時だけ、機関士さんが手動でその車内や7番線ホームだけで“現役のアナウンス”として流すことは出来ないでしょうか?
 「まつもとぉ~、まつもとぉ~」。
40年もの間、松本市民に、観光客に、そして登山者に愛され親しまれてきたこの名アナウンスが、今日11月16日の最終列車の到着を以って終了し、明日からは新しい音声アナウンスに切り替わります。

【追記】
同じ様に感じる松本市民の方々が多い様で、市やJRにも「何とか残して欲しい」という声がたくさん届いているそうで、幾つか地元紙に記事として掲載されました。
しかし、実際には技術的なことだけでなく権利関係なども絡み、そう簡単ではないようです。
技術的なことは分かりませんが、ただ今回残して欲しいのは「まつもとぉ~、まつもとぉ~」という冒頭部分だけですし、予算面で急な捻出が難しければ、それこそ場合によってはクラウドファンディングで市民に呼び掛けても良いだろうし、何とか松本市民の願いが届けば良いと願っています。

 リンゴ園脇に父が植えた二本のひらたね(平核)という渋柿があって、秋になると祖母や母がコタツで柿の皮を剥いて、風通しが良くて雨が当たらぬ母屋の車庫の軒先にたくさんの柿を干していました。

               (母屋の車庫の軒先で)
そしてやがて柿に白い粉が吹いてくると、コタツに座って夜なべ作業で柿を一つずつ何度も何度も揉んでは柔らかくしていたものでした。
祖母や母が作れなくなった後も、毎年結婚以来ずっと一緒に手伝って来た家内が、戸建てに居た頃はベランダの物干しに吊るして、毎年100個近くの干し柿を作っていました。
10月末から11月に掛けて、我が家だけではなく、特に農家ではこうしたたくさんの吊るされた“柿すだれ”が見られるのが、この晩秋の時期の“里”の風物詩でもありました。
柿の木が二本もあると、“なり年”に依る多少の差はあっても、毎年たくさん柿が採れたので、横浜に暮らす母方の叔母に送ったり、希望されるご近所さんにあげたりもして、それでもまだたくさん木に残ったまま完熟した柿は、今度は冬の間の鳥たちの大事なエサになっていました。
              (戸建ての時のベランダで)
 終活のため戸建てや母屋も畑も処分して、マンションに移って四年。当然柿の木はもうありませんし、またマンションでは干す場所も無いことから、我が家では秋の“柿すだれ”は無くなくなっていました。またマンション周辺のエリアを見ても、ワンコの散歩中にこの渚地区でも本棟造りの旧家などでは時折見掛けることはあっても、以前の農村エリアとは異なり、街中で“柿すだれ”を見掛けることも殆どありません。柿すだれはやはり“里の秋”の風物詩なのでしょうか。
 先日、松本一本ネギが欲しくなって、秋が収穫時期ですので、地物野菜の産直マーケットにネギを買いに行ってみました。すると、奥さまは何を思ったか、お目当てのネギだけではなく、収穫したばかりで鮮度の良い大きな地物の白菜を三つ、そして10個以上袋に詰められていた渋柿の大振りのひらたね(平核)を二袋購入。柿は勿論干し柿に、そして白菜も天日で干して、貯蔵して冬の間に鍋物等に使うのだとか。更に立派な大根も二本買って、こちらはスライサーを使って、きしめんの様に薄くスライスして、干し網に敷いて自家製の切り干し大根にするとのこと。
干し網は、戸建てに居た頃は薪ストーブの燃えた後の灰で作った焼き芋を切って自家製の干し芋を作っていましたし、マンションに移ってからは時々生のキクラゲをたくさん買っては天日干しにして、体に良い栄養素が多く含まれるという乾燥キクラゲを作って、次女の所にも持って行って料理に使っています。
干し柿は、南側のベランダの洗濯物の物干しでは一日中日当たりが良過ぎるので、日差しを避けるべく別の西側のベランダに布団干しを持って行って、物干し竿を通してそこに吊るすのだとか。
そう云えば、切り干し大根や干したかんぴょうは、毎年祖父母が夜なべで大根とユウガオを薄く剥いては、何日も天日で干して作っていました。昔の農家では出来るだけ自給自足で、特に何も採れない冬場の間の食材作りを自家製で作るのが当たり前でした。
子供の頃の一大イベントだった小学校の運動会や地区対抗の区民運動会では、お昼休みのお弁当にはかんぴょうの太巻きのお寿司がお稲荷さんと一緒に必ず入っていたものです。
祖父母が亡くなってからは、かんぴょうも切り干し大根も作ることはなくなっていましたので、自家製の切り干し大根は、我が家にとってはそれこそ半世紀ぶりでの復活なのかもしれません。
 もしかしたら、年寄りの暇に任せて・・・なのかもしれませんが、久し振りの“秋の風物詩”である柿すだれも、そして切り干し大根も、もしもそのおかげで復活出来たのであれば、それはそれで“年寄りの暇”も田舎の伝統を守るには良いことなのかもしれません。
その結果、初めて挑戦したマンションのベランでの干し柿や干した保存用の白菜作りも何とか上手くいきそうですので、気を良くした奥さまはもう一度産直に買い出しに行って、白菜を合わせて6玉、干し柿を全部で60個、切り干し大根はナント5本で作ることになりました。

 奥さまが何を思ったか、急にミシュランシェフ監修という冷凍の宅配弁当を申し込んだとのこと。それは14食セットで通常一食当たり760円位なのが、TVショッピング等でも良く見る様な、初回限定特典で一食ワンコインの500円とのこと(次回の注文からは、注文するセット数に依り一食650円~850円の由)。
横浜の次女の家に孫の世話と家事手伝いで、恒例の“家政婦”に行っている間に決めたらしいのですが、もしかするとその一因は、“鬼の居ぬ間”を謳歌しつつも、10日も過ぎると食事を作るのが段々億劫になって来て、LINEのメールやビデオ通話が来た時に、
  「今日はもう面倒臭いから、HottoMottoの弁当にした!」
とか、時々愚痴っていたのが少々マズかったのかもしれません。

 一年前から、NZの鳥インフルの影響で原材料が輸入禁止となり、それまで定期的に購入していたドッグフードが販売停止になってしまい、それに代わるウェットフードに選んだのが、犬・猫向けの生肉専門店の生肉ミンチのドッグフードで、ご先祖様が本来肉食動物だった犬の食性に合わせて作られたという「HUGBOXブレンド」のホースとチキンで、これが毎回4㎏ずつ冷凍で届くのです。従って、氷をノコギリで切るのと同じ様に、カチカチだったのが半解凍手前の少し柔らかくなった段階で、包丁で切り易い位の凍っている状態のまま、一袋1㎏を一食分の50gずつ包丁で切って小分けして、ケースに入れ替えて冷凍庫にまた戻して、食べるまで保管しています。
ことほど左様に、人間のみならずワンコたち用にも冷凍食品が増えている昨今、大型冷蔵庫の大小二つの冷凍室は常に満杯。
  「○日に冷凍でお弁当が14食届くから、冷凍室を空けなくっちゃ!」
と、横浜から戻り、それまで“たまの贅沢用”にと大事に冷凍保存してあった、娘夫婦が送ってくれた治作の水炊きセットやしゃぶしゃぶ用の高級和牛とか、他にもキノコや野菜の冷凍保存してある食材を消費すること暫し・・・。しかし、14食分の冷凍宅配弁当を収めるスペースは確保出来なかった模様・・・。
  「ヨシ!冷凍庫を買おう ! !」
些か短絡的の様な気もしないでもありませんが、冷蔵庫を補完するために小型のセカンド冷凍庫を購入するとのこと。
 因みに我が家の冷蔵庫は、娘たちが大学進学で巣立った後で、家を建てた時から使っていた大型冷蔵庫の寿命が来た時に、それまでより小さめの480ℓにダウンサイズしたのですが、これが失敗でした。というのも、例え年寄り家族3人だけであっても、食料品を週一で買い溜めするのであれば、それなりの容量は必要という当時の反省を踏まえ、終活でのマンションへの引っ越しを機に、今度は年寄り夫婦二人だけなので他の大型家電や家具類をダウンサイズして買い替えた中で、冷蔵庫だけは550ℓへと逆にむしろサイズアップしました。
出来れば、キッチンのその冷蔵庫スペースの脇の隙間に二台目の冷凍庫が入れば万々歳なのですが、残念ながらそこは25㎝しかスペースが無く、見た中ではスリムサイズでも最低35㎝はあるので無理。そうなるとキッチンには置けるスペースが無く、リビングダイニング横の長女の部屋か、私メの“男の隠れ家”兼物置部屋しかありません。
長女はせいぜい年に一回しか帰国しませんが、そうかといって彼女の部屋を勝手に使うのも申し訳ないので、結局物置部屋に置くことにして、探した場所は北側の通路よりの畳半畳分程の少し引っ込んだスペースで、和箪笥の前。箪笥の引き出しを開けるスペースを確保するには側面の壁まで最低40cmは必要なので、そうすると残りのスペースは壁まで38㎝。ですので、幅が35~36㎝のスリム型であれば設置可能。通路側の窓は床面からの高さが70㎝。ですので、余り背の高いタイプですと窓を塞いでしまい、タダでさえ北側で暗く、更に既に窓の1/3は和箪笥で塞いでいるので、余計室内に光が入らなくなってしまいます。
そこで、思い立ったその日に“善は急げ!”とばかり(或いは気が変わらぬ内に?)、市内の家電量販店2店舗と量販には置いていないニトリの計3店舗を回って見てみることにしました。ヤマダ、Ks‘、ニトリと一度に三軒回った中で、一番品揃えが多かったのがケーズデンキでした。
冷凍庫といっても種類も結構豊富で、家庭用の前面開閉の扉タイプ(上開きタイプもあり)で、一番容量が小さなモノは60ℓから大きなモノでは200ℓ位まで。価格も店頭で2万円~8万円と結構幅がありました。
メーカーもパナソニック、三菱といった大手家電メーカーから、他の国内メーカーではアイリスオーヤマ、そして日本メーカーの白物家電部門を買収したアクアやハイアールといった中国メーカー。他には、店頭にはありませんでしたが(ニトリでは冷凍庫は店頭には置いておらず、カタログさえもありませんでした。聞くと「1モデルしかないので、ネットで確認してください」とのこと)、通販で購入可能な、国内の第二勢力ともいえる山善やニトリといったファブレスメーカーや、聞いたことも無い中国ブランドなどなど。

今回はセカンド冷凍庫なので、そう大きなサイズは必要ありませんし、何しろ設置スペースが限られていて、候補になるのは幅35㎝位のスリムタイプしかありません。そこで調べてみた結果、アイリスオーヤマの80ℓ、山善の70ℓのスリムタイプで35.6㎝。ニトリは1モデルのみの60ℓですが、残念ながら幅が48㎝。価格はアイリスオーヤマが店頭で税別5万円弱(消費税10%ですが、あんしんパスポートで5%値引きあり)、山善が通販で4万円強、ニトリも同2万5千円弱。
意外だったのは、アイリスオーヤマは大手家電をリタイアした技術者を採用し、機能を絞った製品展開で低価格をウリにしているという印象でしたが、店頭で見るそれは、パナや三菱と比べても同価格で決して安くありません。容量は候補モデルの中では80ℓと一番大きかったのですが、高さが997mmなので、窓が30㎝潰れてしまいます。
山善は同じ幅で高さは867mmと、容量も70ℓと10ℓ少なくはなりますが、その分高さも13㎝低くなります。
ニトリは容量も60ℓと一番小さいのに、幅は48㎝と広過ぎますし、何よりも自動霜取り機能が付いておらず、大昔の冷蔵庫の霜取りの大変さを考えると、価格は安いのですが主婦目線からは論外とのこと。
因みにスリムタイプの冷凍庫ですが、実際設置する際には、山善は横2㎝で背後5㎝、アイリスオーヤマは横3㎝で背後5㎝のスペースを確保する必要があります。従って幅35.6㎝ではあっても、実際の設置には山善が幅40㎝、アイリスオーヤマは幅42㎝のスペースが最低必要ということになります。
そこで奥さまの結論は、山善の小型スリム冷凍庫の中の70ℓの自動霜取り機能付きの、YF-SFU70というモデルのブラックタイプでした。ケーズデンキでも店頭には無かったので、ネット通販サイトから購入。但し宅配は玄関先までなので、設置は自分自身で行う必要があります。
 冷凍の宅配弁当14食セットが届く同じ日、午前中指定で冷凍庫を届けて貰って、荷解きをしてトリセツに従って設置し稼働させ、その後届いた冷凍弁当を無事収納することが出来ました。
それにしても、いくらコストが安いにしても、どうしてこういう家電製品は緩衝材に発泡スチロールを未だに使い続けているのだろうと毎回思います。他の、或いは小型家電などの様に、段ボールや紙素材でのモールド成型材を使えないのだろうかといつも感じてしまいます。この発泡スチロールをプラごみとして廃棄するのには、そのままでは大き過ぎて廃棄出来ないので、プラごみ用の袋に入る位に(或いは指定する長さの範囲内に)切断する必要があるのですが、その際に細かく割れた発泡スチロールの粒が静電気で手から離れなくて、捨てるのに本当に難儀します。これがもし道端や街角に捨てられて、戸外で粒状にまで細かく分解してしまうと、それこそ最終的に海洋汚染にまで繋がるのではないかと心配になります。何年か前のバカな環境大臣がレジ袋を有料化しましたが、分解しにくいポリ袋よりも、むしろ発泡スチロールを各業界で使用禁止にした方が、個人の環境意識向上(も確かに大事なので、その啓発活動自体は否定しませんが)に訴えるポリ袋よりも余程環境保護には効果があるのではないか!?・・・と思います。是非環境問題として、家電メーカーや事務機器など発泡スチロールを梱包用に使用している業界は真剣に向き合って貰いたい!・・・と心底感じています。
 閑話休題・・・。
さて、購入して初めて分かったのですが、この山善のモデルの残念だった点は、冷蔵庫などと違って、冷凍庫のドアを開けても庫内に明かりが点かないこと。従って、夜は室内の明かりを点けないと中が見えず、中の冷凍食品を探して取り出すことが出来ません。省エネのためかどうか分かりませんが、扉を開けた時くらい点灯させても良いのに・・・と感じた次第(但し大型冷蔵庫も、野菜室や冷凍室は、引き出しても個々に明かりは点きませんが)。
早速奥さまは冷蔵庫の冷凍室からも移した冷凍食品でセカンド冷凍庫を一杯にして、冷蔵庫の冷凍室に余裕を持たせ、これからは例えば冷凍保存がおススメのキノコ類や可能な野菜類、そして何より孫たちの大好きなブルーベリーやトウモロコシなどを来年の旬の時期などに買って、孫たちのために冷凍保存しておくのだそうです。
  「フーン、ナルホド。宅配弁当のためじゃなかったんだ・・・」

 以前にも書いたと思いますが、以前住んでいた沢村は城山山系に遮られているので、北アルプスの峰々を見ることは出来ませんでした。
松本に生まれて60年、終活で渚のマンションに引っ越して、人生で初めて常念を始めとする松本平からの北アの峰々を朝に夕に眺めることが出来る様になり、季節ごとに、或いは日々、そして一日の中でも朝昼夕と刻々と変わりゆく北アルプスの様子を都度眺めては、信州松本に生まれ、そして信州松本に暮らす喜びを感じています。

 春夏秋冬、季節が移り行く北アルプスの情景は、それぞれの季節ごとにまたそれぞれの美しさがあります。
残雪の映える春、夕映えを背景にして黒い屏風の様に聳える峰々の夏、秋晴れの真っ青な空を背景にくっきりと映える北アの峰々、そして雪化粧の白き峰々を赤く染める真冬のモルゲンロート・・・。

 その四季折々の中で、夕映えが美しいのはやはり夏でしょう。
黒い屏風の様な北アルプスの峰と、その背後に拡がるバラ色の夕焼け。その赤と黒の対比が、刻一刻とその色と表情を少しずつ変えながら、二度と同じ夕景の無い唯一無二の、まさに“一期一会”とも云える景観です。
今年も、5月を過ぎると残雪が消えて、山麓にも木々が芽吹き、それまでの遠目で黒っぽかった山肌に青味が加わった夏山の装いになると、キレイな夕焼けが見られる様になります。
そして夏至をピークに太陽が高くなるに従って、日の出と日の入りの地点が段々北上していくのに伴い、松本平からは“西山”と呼ばれる北アルプスに沈む夕日が、冬は乗鞍岳よりも南の鉢盛山近くまで下がっていたのが、段々と北上して常念岳辺りまで上がって行きます。それに伴い、沈む夕日の真っ赤に染まるエリアも夏が近づくに従って、乗鞍から常念の方へと少しずつ移っていき、そしてそこをピークに、また冬至に向けて少しずつ南下していくのです(この途中、松本平では里山辺の薄川に架かる金華橋付近で、槍ヶ岳に沈む夕日“ダイヤモンド槍”を見ることが出来ます)。
今年も、7月から秋口の10月に掛けて、何度か美しい夕焼けを見ることが出来ました。


 そこで今回は、今年マンションのベランダから撮り貯めた写真の中から、名付けて“北アの夕焼け八景”。一つとして同じ情景の無い、松本平から望む常念岳を中心とする北アルプスの夕映えをご覧ください。
そして最後の写真は、10月24日に撮影した秋晴れの北アルプスですが、森林限界以下から麓までの山肌は、冒頭の新緑で青味がかっていた5月の頃と比べると、何となく秋の色付いた紅っぽい色が混ざっている様な気がするのですが・・・。
(掲載した写真は、最初の5月8日の残雪の北アルプスを筆頭にして、順番に7月18日、21日、23日、24日。段を変えて同じ7月24日、続いて9月6日、10月8日の「天使の梯子」(Angel's ladder)、10月12日。いずれもマンションの我が家のベランダから見た北アルプスの夕景です)

【追記】

そして、美ヶ原も頂上部分は少し白かった11月3日。2000m辺りまで雪が降りてきている様でした。ただ、この日北アルプスの上の方は一日中雲が掛かっていて、里にも少し俄か雨が降ったのですが、明けて4日の朝。雲が取れた北アルプスは、乗鞍やそして常念も真っ白く雪化粧をしていました。いよいよ山は冬の装いです。

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