カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 この日、昼過ぎから「あがたの森」で開催されるイベントに参加する予定があったので、その前に久しぶりに松本駅のアルプス口にある「谷椿」に、昼にのみ提供されているラーメンを食べに立ち寄りました。
 現在は松本駅の西側も再開発ですっかり整備され、東西自由通路がある新しい駅舎になって西口も「アルプス口」に変わりましたが、シンガポールから帰任後、西口に月決めの駐車場を借りて諏訪まで電車で通勤していた当時は、松本の正面玄関である東口(現在の「お城口」)に比べると、西口は片や如何にも田舎風の木造駅舎で、裏口だった西口と呼ばれた頃から、この「谷椿」だけは今も昭和然とした佇まいの当時のままで、時が停まった様に何も変わっていません。
そんな昭和レトロな店内同様に、ラーメンも昔懐かしい“これぞ、ザ・中華そば”とでも云うべき、あっさりした鶏ガラベースの醤油スープに、チャーシューが一枚とメンマにナルトと刻みネギ、そしてモチモチした多加水の中細のちぢれ麺という王道派の醤油ラーメンです。洒落た“無化調”などとは一切無縁。しかもレンゲも付いて来ないので、スープは丼から直接啜らなくてはいけませんが、これでイイ!と思わず唸りたくなります。

今風のラーメンは、家系や二郎系、或いは進化系といったジャンル分けから、スープも“ばりこて”とか、煮干しだ、鯛だ、甘エビだ、はたまた貝だ・・・などと、最近は色々目新しさを競い合っているようですが、自分は例え古臭いと言われても、これぞ“中華そば”と云われる様な飽くまで鶏ガラベースの醤油ラーメンが断然好み。
だからこそ、時代に取り残された様な昭和然とした店内で、これまた“絶滅危惧種”の様な懐かしい醤油ラーメンを食べる、そんな 至福の“一杯の醤油ラーメン”をしみじみと味わうのです。
このラーメン、色んな工夫を凝らす今時のラーメンに比べると、むしろ進化しないことが逆にそんなラーメンを或る意味小馬鹿にしているかの様な、シンプル過ぎるラーメンかもしれません。そんな昔ながらのこのラーメンは、時代に取り残されて昨今の物価高の中でも値上げするのを忘れたかの様で、一杯450円也。大盛りでも600円です(数年前と比べると、それでも50円アップにはなっているのですが・・・)。
 この「谷椿」は、本来はホルモン中心の焼き肉屋さん。
夜に来ると、カウンターやテーブルに置かれた古びたガスコンロに載ったジンギスカン鍋は、火を点けると長年使い込まれて沁み込んでいる脂が自然と滲み出て来て、そしてどんと載せられた肉やホルモンの焼ける煙で換気扇の換気が追い付かず、店内はいつももうもうとした煙が充満しています。
そんな焼き肉屋さんらしく、昼の名物は世間の牛丼とは一線を画する“牛めし”(500円)です。夜の焼肉に使った端切れの牛肉がブツ切りにカットされ、タマネギと一緒にすき焼き風に甘辛く煮込まれていて、ご飯の上にゴロゴロと載っています。メニューには書かれていないのですが、常連さんの多くはそのハーフサイズの“半牛”(250円)とラーメンをセットでオーダー。〆て700円也。更に毎日ランチを食べに来られる方には、600円の日替わり定食もあります。
 個人的には、「谷椿」での昼は専らラーメン一択。
昔はチャーシューメンがあったのですが、このところのお昼はご主人の姿が無くおばぁちゃんのお一人で切り盛りされているためか、今はラーメンの並みと大のみ。
店内はL字型のカウンター席が10席程とテーブル席が2つだけ。最初にほうじ茶とサービスでおばぁちゃん自家製の漬物が、ランチや丼だけでなくラーメンにも出してくれます。いつもは白菜が主ですが、この日は珍しくキュウリの浅漬けでした。
ラーメン丼に並々と盛られた、あっさりとした鶏ガラのスープ。先ずはスープを一口といきたいところですが、レンゲが無いので先に少し麺を食べてからにします。
中細の縮れ麺は個人的にはもう少し固ゆでが好みですなのですが、今では珍しい多加水麺で非常にモチモチしています。自家製の豚チャーシューが柔らかくて美味。出来れば、以前メニューにあったチャーシューメンで食べたいくらいです(大を頼むと、確かチャーシューが二枚になる筈です)。
スープはあっさりとした鶏ガラベースの醤油味で少し生姜が効いていて、テーブル胡椒を掛けるとまたピリッと締まる感じがします。
 時代に取り残された様な、この「谷椿」のラーメン。シンプルで全く派手さも無くて、今風のSNS映えも全くしませんが、どこか懐かしくてまた食べたくなる、そんな昭和風の醤油ラーメンです。これでイイ!否、これがイイ!!
 スープも全部しっかり飲み干して、「ご馳走さまでした!」。
飲み干した後のラーメンの丼の刻まれた「谷椿」の店名と、そして一桁「3」の若い数字の局番が、何とも店の昭和の歴史を感じさせてくれました。

 長野県の伊那谷、箕輪町にある“もみじ湖”が、最近紅葉スポットとして秋の紅葉シーズンになると県内外から観光客が殺到し、最盛期にはマイカー規制をする程の人気ぶりという報道がされ、以前から知ってはいたのですが、そんな混雑の中行くのもどうかと思い、今までは一度も行ったこともありませんでした。

            (もみじ湖と箕輪ダム遠景)
 この“もみじ湖”というのは、諏訪湖から伊那谷を流れ下る天竜川水系の沢川に建設された、箕輪ダムのダム湖の別名です。
なぜ“もみじ湖”と呼ばれる様になったのかについて、その経緯をまとめた紹介記事があったので抜粋します。
『平成4年(1992年)、箕輪ダムは一級河川・天竜川水系沢川に建設された。それまで、沢川は何度となく水害をもたらしていたこと、また、当時高速道路ができたことによって大きく発展すると見込まれたことから、防災への備えと水を安定して供給できるように造られた。
けれども箕輪ダムの建設にあたって、その地域に住んでいた人々は移住をしなければならなかった。自分たちの故郷が湖底に沈むことになったとき、この地域で苗木屋を行っていた人が「これから何年も先に人が訪れる名所となるように」という思いを込めて10800本のもみじを町に寄付したという。もみじは町内の人たちが10年かけて植林。その後も世話を続けることによって、30年以上も経った今、全国的にもみじの名所として知られるようになったのである。』
そして、国内旅行情報サイト「じゃらんnet」の「全国のおすすめ紅葉スポットランキング 」で、2020年に全国1位に選ばれて全国的に注目を集め、以来2024年まで5年連続第1位に選ばれ、その間の2023年には5万人近くの人が紅葉を見に訪れるなど、30年前に「これから何年も先に人が訪れる名所となるように」との住民の方が願いを込めて植えられた約1万本のもみじが、実際に30年を経て日本の紅葉を代表する名所になったのです。
 まだまだ有名になるずっと前、お義母さんが儀弟に連れられて、その“もみじ湖”の紅葉を見に行ったことがあり、秋になると今でもその時の紅葉の見事さを思い出して口にするのだとか。儀弟は、地元の土木建設会社の役員を長年やっているので、土木工事で箕輪ダムに行ったことがあって、まだ観光客などが殺到する前に、その美しさを両親に見せに連れて行ってくれたのだそうです。
たまたま、先日家内がお義母さんを原村の日帰り温泉に連れて行った時に居合わせた方が松本在住で、朝6時半に松本から“もみじ湖”の紅葉を見に行った帰りに足を延ばして温泉に立ち寄ったとかで、もみじ湖は混んではいたがまだ十分車が停められたことと、色付きが例年より1週間から10日程遅れているそうですが、評判通り紅葉が見事だったことを聞かされて、どうしても「見に行きたい!!」という、奥さまの強い要望にお応えすることにしました。
            (もみじ湖と田無橋遠景)
 行ったのは11月7日金曜日の平日。先にワンコたちの散歩と食事を済ませ、6時半には間に合わず結局7時に家を出ました。箕輪ダムへの道は、途中すれ違いがやっとな位の狭い個所もあるそうなので、軽のハスラーで行くことにしました。
松本から箕輪へのルートは、通常は中央道を伊北ICまで行くのですが、事前のグーグル検索でも、またナビも中央道の岡谷JCTがリニューアル工事で渋滞することから、渋滞を避けるべく手前の塩尻ICで長野道を降り、国道153号線で善知鳥峠(分水嶺です)を越えて行くルートになりました。上伊那郡の辰野町から県道諏訪箕輪線で箕輪ダムへ向かいます。途中、道の狭い個所では係員の方が居て交通量を見ながら通行規制を行ったり、道路工事に良くある臨時の信号機が何ヶ所かに置かれていて、1分半間隔で一方通行にして車両規制を行ったりしていて、道が狭くすれ違い出来ずに車同士がスタックするのを避けていました。
箕輪ダムのダム湖を過ぎると、竹の尾広場と末広下広場に数十台ずつの普通車と末広下には大型の観光バスも停められる駐車場があって、係員の方が3名ずつおられて交通整理をされていて、車をまだ上に行くように指示されていました。その末広下駐車場から町道に入って、“もみじのトンネル”を抜けて更に坂を登った所に末広広場の駐車場があって、こちらは200台駐車可能とのことで車を誘導して順に停めさせていて、我々が到着した8時10分頃はまだまだ余裕がありました。松本からはナビ通りの1時間10分で到着。岡谷JCTの工事が終われば、1時間掛からずに行けるかもしれません。それにしても、この日は平日ですが次々に車がやって来て、驚いたことにその半分以上が県外車です。
駐車場で戴いた「2025年もみじ湖紅葉祭り」パンフに沿って、末広駐車場から先ず散策コースを歩き、下って県道に合流して、マルシェが開催される竹の尾広場と親水公園辺りまで行ってからまた県道を戻り、末広下駐車場まで来て、そこから末広駐車場への町道に入り、最後に「もみじのトンネル」を登って末広駐車場に戻ることにしました。
以下、当日撮った写真をそのルートの順番でご覧ください。少々枚数が多いですが、出来るだけ雰囲気が分かる様に、写真を縮小せずにそのまま掲載することにします。
            (散策コースにて)
            (竹の尾橋から)
            (新田神社にて)
          (県道への合流地点辺りの大きなモミジの木)
            (末広下駐車場)
            (駐車場奥の大きなモミジの木)
            (駐車場横の「もみじのトンネル」)
            (「もみじのトンネル」入り口付近から)
           (「もみじのトンネル」出口付近から下を望む)
 初めて“もみじ湖”を訪れた感想としては、我々が行った翌日から、週末のみ駐車場を有料の事前予約制にして、「紅葉祭り」週末のマイカー規制が行われるのですが、紅葉前の青モミジもあって、まだ少し紅葉のピークには早かった感じでした。でも「もみじのトンネル」では、真っ赤に紅葉したモミジと黄色く黄葉したモミジ、そして緑の青モミジがグラデーションの様に混ざり合い、それはそれで見応えがありました。
ただ、“日本一”というイメージに些か期待感が強過ぎたのか、もっと凄いのかと想像していました。個人的には、京都の東福寺や永観堂などの東山界隈や、叡電のモミジのトンネルなどの方が見応えがある気がします(但し、この“もみじ湖”は未だ知られていないのか、幸いインバウンドらしき騒々しい一団は皆無でしたので、紅葉を愛でながらゆっくり散策出来ましたが・・・)。
でも、ダムで沈んだ人たちが、自分たちの住んでいた集落を未来の紅葉の名所になるように1万本のモミジを植えたという逸話を知ると、目の前のモミジの紅葉がより一層感慨深く感じられる気がします。
そして、こんなに観光客が訪れるのであれば、平日の今日でさえ10人程の係員の方々が交通整理されていて、その人件費は箕輪町が(或いは町の観光協会が)負担しているのでしょうから、駐車場も含め入場無料なのは何とも勿体無い!!!
少なくとも交通整理する係員の人件費と“もみじ湖”の維持管理費用分を賄う位、ダムで沈んだ人たちのこのモミジに託した想いを知れば、訪れた人たちから平日も入場料か駐車料金を徴収しても決して“バチは当たらない”と感じました。

 先日、「源智の井戸」の清掃ボランティアに参加いただいている方のコーディネートで、松本市の上下水道局に伺う機会があり、毎日私たちがお世話になっている松本市の上水道と下水道について状況をレクチャーいただき、併せて松本の上水道の水源の一つである「島内水源地」と下水道の「宮渕浄水センター」を見学させて頂くことが出来ました。
その両方の現場も含めて上下水道局で説明をお聞きする中で、今回私が一番に感じたことは、専門知識の高い、そして志ある職員の方々の存在と、そして誠に失礼ながら(昔よりも遥かに改善されてきたとはいえ)窓口で感じる“お役所意識”が鼻に付く様な“公務員”ばかりではないことでした。今回それを知って、何だか嬉しく、そして“任せて安心”という意味で非常に頼もしく感じた次第です。
そして、状況面で知り得たことの一番重要な点は、上水道よりも下水道の方に、設備投資と維持管理に関してより多額の資金(下水道使用料+国や県からの公的補助金)が掛かっているという現実でした(因みに、職員の方々の一番の悩みと課題は、下水道事業に関わる技術者の減少と、それに伴う専門の技術者確保と技術の後継者育成とのことでした)。
松本市では市内の小学4年生の社会見学の一環として、宮淵浄化センターの下水処理場を見学して貰って、その状況を子供ながらに認識して貰うことと、そして何より家に帰って台所を預かるお母さん方に、家庭の台所での洗剤や油の使用に関して、多分一番効果的であろう子供さんの口から直接注意喚起して貰うことを目的に、毎年実施しているとのことでした。
 当日、先ずは上下水道局で、専門職員の方から松本市の上水道と下水道の歴史と現状についてレクチャーを受けました。
湧水に恵まれた松本は、江戸時代から木管などを使った簡易水道が城下町へ導水されていましたが、有圧送水・濾過上水・常時給水という近代上水道の歴史は、我が国では明治20年の横浜に始まり、ここ松本は二度の大火に依る防火上の観点からもその必要性が高まって、大正12年から給水がスタート。最初の水道網は市街地の中心部から始まり、私の生まれた岡田の神沢地区も大正15年には他に先駆けて水道が敷かれるなど、徐々に周辺の農村部にまで拡大して、令和5年には創設から100周年を迎えたのだそうです。
松本の上水の水源地は旧松本市が7つ、平成の合併に伴い四賀、梓川、奈川地区を含めると、市内には全部で39ヶ所の水源地と17の浄水場があり、美ヶ原の麓の三城から乗鞍地域まで広域に亘っています。
メインの水源は松本市、塩尻市、山形村に上水を共有する県の奈良井ダムの松塩水道用水で、塩尻の本山にある浄水場を経由して、松本市には協定上一日63000㎥の水道水が供給されています。これが松本市の水道水の80%、旧松本市で云うと90%の水量を賄っていて、残りを旧市内で云うと、島内と源池の水源地の湧水をブレンドして旧市内に配水されているのだそうです。
続いて、下水道の説明を受けました。松本市の下水道は昭和34年に宮渕浄化センター、昭和63年に両島浄化センターが供用開始され、その後の広域合併により旧安曇村の上高地浄化センターを始めとする各エリアの浄化センターを含め、5ヶ所の浄化センターでカバーされており、普及率は97%とのことでした。
そして上下水道両方に関係する喫緊の課題は、埼玉県の道路陥没事故に見られる様に、松本市も同様に配水管や下水道の本管の老朽化とその取り換えなどの改善事業です。これは上下水道に留まらず、高速道や橋脚なども含め、我が国のインフラ全体が今抱えている問題でもありましょう。

   (登録文化財の手前の丸い屋根が集水井、奥の建物が旧喞筒室)
 レクチャー終了後、現場を見せて頂くことになり、職員の方に案内頂いて、島内の第一水源地と宮渕の浄化センターを見学させて頂きました。
この島内第1水源地は、大正12年に設置された松本市の近代水道の創設当初の施設で未だに現役でもありますが、集水井や会所、旧喞筒室などの建物などが国の登録有形文化財に指定されています。そうした古い施設だけではなく最新の自家発電設備もあって、万が一の事態にも備えています。こうした普段はなかなか見られない(中に入れない)施設であり、源智の井戸をきっかけに松本の湧水に多少なりとも関わる者として、今回一番関心のある施設でした。

   (旧喞筒室の外観と、移設保存されている初期の配水管)
島内には二つの水源地があり、この第1水源地は能力27500㎥/日の湧水量に対し、取水量は7497㎥/日とのこと。これは、県の奈良井ダムの上水が契約上松本市に63000㎥/日が毎日供給されて来るので使い切らないといけないために優先され、その差を市内の水源で埋めているためなのだそうです。因みに説明に依ると、この島内水源地の水は、大町や安曇野の湧水と同じ北アルプスからの伏流水で、糸魚川静岡構造線の断層が、島内のすぐ目の前に聳える城山山系にあり、すぐ横を流れる奈良井川の地下には固い岩盤層があって、この層に遮断された伏流水がこの島内地区で豊富な湧水として地上に湧き出しているのだそうです。市内に在る源池の水源地は美ヶ原などの筑摩山系からの伏流水の湧水ですが、ここは北アルプスの水。松本の上水道には、主な奈良井川の水に、北アルプスと筑摩山系の二つの湧水がブレンドされていることを初めて知りました。因みに、この「島内第1水源地」の湧水が非加熱除菌され、松本のおいしい水道水をPRし水道水の利用を促進するため、市の主催行事、会議、イベント、観光宣伝、コンベンション用として提供されていた「信州松本の水」で、「モンドセレクション2014」のビール・飲料水・ソフトドリンク部門で金賞を受賞しています。
 (旧喞筒室内部の現役のポンプと、加圧されて奈良井川を渡り、当時は城山の配水池へ、現在は蟻ヶ崎の配水池に向かう送水管)
ウォーキングで歩く城山には配水地があって、どうしてこんな所にといつも不思議に思っていたのですが、ここ島内水源地から見ると、城山はホンの目と鼻の先。この島内水源地(おそらく標高は580m程)からの送水管が奈良井川を渡って、すぐそこの断層の崖の上の標高650mの城山まで一気にポンプアップして、そこから南側には緩やかに傾斜している市街地に向けて自然に流れ下って行くのは、100年前の大正時代に作られた上水設備として、地形を活かした自然の理であることが良く分かりました。
 続いて訪れた宮渕浄化センター。奈良井川沿いにJR大糸線を挟んで、73,000㎡という敷地に82,200㎥/日の処理能力を持つ二系統の浄化センターが並んでいます。両島にも60,000㎡の敷地に32,850㎥/日を処理可能な浄化センターがあり、この二つの施設で旧松本市全域の下水処理をカバーしています。
ここに集められた下水は、最初沈殿池で水に溶けない汚れを沈めて取り除き、次に反応槽のタンクに送られて微生物によって汚れが食べられ、最終沈殿池でも更に汚れが食べられて集まった微生物も沈められ、見違える程透明でキレイになった水が更に塩素消毒されて、最終的に奈良井川に放流されます。見学の途中で沈殿池の水をすくって、大型のメスシリンダーに入れて見せてくれましたが、数分もすると汚れと微生物が沈んで、澄んだ水と汚れとのキレイな二層にクッキリと分かれたのを見ることが出来ました。
     (奈良井川への放流口)
また、沈殿した汚れは濃縮され汚泥となって、更に脱水されて「脱水ケーキ」と呼ばれるリサイクルされるセメント原料になり、ダンプカーで定期的に処分先のセメント工場に運ばれて行きます。またこの過程で発生する消化ガスは燃料として自家発電用に供され、電気として施設内で使用され、またその排熱は汚泥消化槽の加温用にも用いられているとのことでした。
私たち市民の知らない所で、コストダウンのために様々な工夫がされていることが分かりました。
こうした施設が傾斜を利用して広大な半地下に巨大な空間として拡がっているのです。上水道の設備に比べ、その巨大さに圧倒されました。
自然の恵みである水を取水し、その見た目もキレイな水を更に浄化して生活用水として使い、その結果汚れた水を全て回収して消毒し、最終的に問題の無いレベルにまで浄化させて、また自然界に戻す。
そして地表面の敷地は、下水の浄化センターという施設への周辺地域や周囲の目を和らげる目的もあるのか、一面のラベンダー畑を始め、きちんと手入れがされた様々な植栽が季節を彩っていました。そんな努力さえも伺えた浄化センターでした。
 今回の上下水道の施設見学を通じて感じたこと。
それは、世界中196ヶ国の中で、僅か9ヶ国しかないという水道水を蛇口からそのまま飲める国、日本。世界の平均降水量の1.6倍という、四季と水に恵まれた日本列島。そして、その中でも市街地に豊富に湧き出る湧水に恵まれた街である松本。
そんな清き水に恵まれた地である信州松本に暮らす自分たちに、その水の有難さと大切さを改めて実感としても感じさせて貰えた、そんな有意義な今回の訪問でした。

  “昭和は遠くなりにけり”・・・。
今や昭和だけではなくて、最早平成さえも遠くに感じるのかもしれませんが、そんな現代の我が松本駅で“古き良き昭和”を感じさせてくれるモノが二つあります。

一つは、JR松本駅の正面に掛かる古い木製の看板。新駅舎建築と共に屋上に大きな看板が付けられたため、一旦外されたのですが、北アルプスから下山して来てこの看板に触れ、初めて登山での無事を確認し合うという昔ながらの“儀式”を望む登山客からの強い要望などもあって、また再度駅舎に掛けられたと言います。
そしてもう一つが、松本駅に電車が到着した時に掛かる、あの「まつもとぉ~、まつもとぉ~」という自動放送のアナウンスです。
そして、40年もの間愛され親しまれて来たこの“名物”アナウンスが、今日の11月16日の最終列車の到着を以って終了し、明日からは新しい音声アナウンスに切り替わるという発表があり、ローカルTVなどで報道されてちょっとした話題になりました。
この「まつもとぉ~、まつもとぉ~」と語尾を延ばす独特のアナウンスの声の持ち主は、アニメ「アルプスの少女ハイジ」のナレーションなどを担当された、今も現役のベテラン声優、沢田敏子さん。
沢田さんは40年ほど前の1985年に、当時の国鉄の駅で使用するアナウンスを依頼されたのですが、その中で上野駅と松本駅用には特別な注文が入ったのだそうです。因みに、沢田さんが選ばれた理由は、甲高いソプラノではなく、沢田さんの声の周波数が機械にも載り易い落ち着いたアルトの声域の持ち主だったからとか。
沢田さんに依ると、収録したのは国鉄が駅の自動放送の本格導入を計画した時期。声の吹き込みの依頼を受け、担当者から「切れの良い発音で」など数多くの指示があり、北海道から九州まで収録した幾つもの駅の中で、東北や信越などの玄関口として一大ターミナルだった上野駅と、松本駅だけがなぜか「別枠扱い」とされ、「上野は郷愁を、松本は旅情を感じるように・・・」と注文されたのだそうです(余談ですが、そのため“鉄ヲタ”の間では「上野オバサン」と呼ばれて有名な存在だったのが、上野駅の音声アナウンスが終了してしまったため、今度は「松本オバサン」と呼ばれる様になったとか)。
それにしても、東京の一大ターミナルだった上野駅と並んで、一地方駅である松本駅がなぜ別格だったのか・・・?
その理由は、当時長野県では冬季五輪の招致話があり、国鉄がいち早く自動放送を導入したからだった様です。

 「松本は今までと他とは違う雰囲気を出して欲しいって言われて。松本はすごく空気が澄んでいて、アルプスの少女ハイジの様に山の澄んだ空気とそこからイメージが膨らんで、“やまびこ”みたいな読み方にしましょうかねと、試行錯誤しながら」何度も録音し直して、漸くOKが出たのだそうです。
そして、現在このような語尾を伸ばすアナウンスが聞けるのは、全国の駅の中でも松本駅くらいなものだとか。
 学生時代に生まれて初めて4年間松本を離れ、そして就職して会社に入り、今度は7年間海外赴任をして、その間に帰省や出張帰国で松本へ帰って来る度に、終着の松本駅に降り立って、この「まつもとぉ~、まつもとぉ~」という松本駅ホームのアナウンスを聞くと、「あぁ~、松本へ帰って来たなぁ」という実感が湧いてきたものでした。
そんな“名物”アナウンスも、機器の老朽化で、自動放送設備の更新が必要になったのですが、新旧放送機器のメーカーが異なりシステムが違うため、40年も前の古い音声データを新しい機器に引継ぐことが技術的に不可能とのことから、JRサイドも止む無くこのアナウンスの変更を決めざるを得なかったとのこと。
というのも、駅の自動放送は単純に「まつもとぉ~、まつもとぉ~」だけではなく、システムとしても技術的に複雑で、松本駅に到着した列車により、その後の放送が全て異なるからです。その到着した列車(松本駅は、特急あずさの終着ターミナルでもあり、また特急しなの途中下車駅でもあり、更に毎回特急とは限らず、普通列車も中央東線、中央西線、篠ノ井線、大糸線とそれぞれあります)毎に異なる内容が、単語、文節毎に事前に録音されている音声データの中から、その都度自動的に選ばれて他の決まりきった文節と組み合わされ、結果として一つの文章になって行くのです。それは、例えば・・・、
『松本~松本~・終着・松本です
お忘れ物の無いよう・もう一度お手回り品をお確かめください
本日は・特急・あずさ・○○(号数)号を・ご利用いただきまして・ありがとうございました
○○方面は・○番線から・○時○分発・普通列車・○○行きをご利用ください
アルピコ交通・上高地線は・7番線の・新島々・行きをご利用ください』
と、都度選ばれた単語と単語の間のつながりに少し間があって、不自然に感じられるのはそのためなのです。
 先月末、そのニュースが流れて、これまで松本に来訪したことが無かったという声の主である沢田さんご本人が、11月1日に地元の鉄道ファンの方々に招かれて初めて松本に来られ、松本駅で40年前のご自身の声を聞かれ、地元TVの取材クルーのリクエストに応えて、40年振りに「まつもとぉ~、まつもとぉ~」というアナウンスを、お年を召されてトーンこそ少し下がっていましたが、現役声優として変わらぬ張りのある“生声”で披露されていました。

 この名物アナウンスは、或る意味松本にとっても“宝”の筈。
良く有名な歌謡曲や歌の発祥の地などに行くと、歌詞を彫った石碑があり、そこのボタンを押すとその歌が短く流れたりすることがあります。
出来れば、そんな簡単な装置で松本駅のどこか、例えば冒頭の古い松本駅の表札の近くにでも(駅の正式なアナウンスの邪魔にならぬよう)、“古き良き”昭和の松本の“記憶遺産”として残して頂くことは出来ないのでしょうか?
或いは、JRとしては併存させるのは日常の業務上無理でしょうから、松本市が支援して(もしくは市民から募集してのクラウドファンディングでも良いから)、例えばJRではない、地元のアルピコ交通の上高地線専用の松本駅の7番線ホームで、ワンマンカーのアルピコの電車の松本駅到着時だけ、機関士さんが手動でその車内や7番線ホームだけで“現役のアナウンス”として流すことは出来ないでしょうか?
 「まつもとぉ~、まつもとぉ~」。
40年もの間、松本市民に、観光客に、そして登山者に愛され親しまれてきたこの名アナウンスが、今日11月16日の最終列車の到着を以って終了し、明日からは新しい音声アナウンスに切り替わります。

【追記】
同じ様に感じる松本市民の方々が多い様で、市やJRにも「何とか残して欲しい」という声がたくさん届いているそうで、幾つか地元紙に記事として掲載されました。
しかし、実際には技術的なことだけでなく権利関係なども絡み、そう簡単ではないようです。
技術的なことは分かりませんが、ただ今回残して欲しいのは「まつもとぉ~、まつもとぉ~」という冒頭部分だけですし、予算面で急な捻出が難しければ、それこそ場合によってはクラウドファンディングで市民に呼び掛けても良いだろうし、何とか松本市民の願いが届けば良いと願っています。

 リンゴ園脇に父が植えた二本のひらたね(平核)という渋柿があって、秋になると祖母や母がコタツで柿の皮を剥いて、風通しが良くて雨が当たらぬ母屋の車庫の軒先にたくさんの柿を干していました。

               (母屋の車庫の軒先で)
そしてやがて柿に白い粉が吹いてくると、コタツに座って夜なべ作業で柿を一つずつ何度も何度も揉んでは柔らかくしていたものでした。
祖母や母が作れなくなった後も、毎年結婚以来ずっと一緒に手伝って来た家内が、戸建てに居た頃はベランダの物干しに吊るして、毎年100個近くの干し柿を作っていました。
10月末から11月に掛けて、我が家だけではなく、特に農家ではこうしたたくさんの吊るされた“柿すだれ”が見られるのが、この晩秋の時期の“里”の風物詩でもありました。
柿の木が二本もあると、“なり年”に依る多少の差はあっても、毎年たくさん柿が採れたので、横浜に暮らす母方の叔母に送ったり、希望されるご近所さんにあげたりもして、それでもまだたくさん木に残ったまま完熟した柿は、今度は冬の間の鳥たちの大事なエサになっていました。
              (戸建ての時のベランダで)
 終活のため戸建てや母屋も畑も処分して、マンションに移って四年。当然柿の木はもうありませんし、またマンションでは干す場所も無いことから、我が家では秋の“柿すだれ”は無くなくなっていました。またマンション周辺のエリアを見ても、ワンコの散歩中にこの渚地区でも本棟造りの旧家などでは時折見掛けることはあっても、以前の農村エリアとは異なり、街中で“柿すだれ”を見掛けることも殆どありません。柿すだれはやはり“里の秋”の風物詩なのでしょうか。
 先日、松本一本ネギが欲しくなって、秋が収穫時期ですので、地物野菜の産直マーケットにネギを買いに行ってみました。すると、奥さまは何を思ったか、お目当てのネギだけではなく、収穫したばかりで鮮度の良い大きな地物の白菜を三つ、そして10個以上袋に詰められていた渋柿の大振りのひらたね(平核)を二袋購入。柿は勿論干し柿に、そして白菜も天日で干して、貯蔵して冬の間に鍋物等に使うのだとか。更に立派な大根も二本買って、こちらはスライサーを使って、きしめんの様に薄くスライスして、干し網に敷いて自家製の切り干し大根にするとのこと。
干し網は、戸建てに居た頃は薪ストーブの燃えた後の灰で作った焼き芋を切って自家製の干し芋を作っていましたし、マンションに移ってからは時々生のキクラゲをたくさん買っては天日干しにして、体に良い栄養素が多く含まれるという乾燥キクラゲを作って、次女の所にも持って行って料理に使っています。
干し柿は、南側のベランダの洗濯物の物干しでは一日中日当たりが良過ぎるので、日差しを避けるべく別の西側のベランダに布団干しを持って行って、物干し竿を通してそこに吊るすのだとか。
そう云えば、切り干し大根や干したかんぴょうは、毎年祖父母が夜なべで大根とユウガオを薄く剥いては、何日も天日で干して作っていました。昔の農家では出来るだけ自給自足で、特に何も採れない冬場の間の食材作りを自家製で作るのが当たり前でした。
子供の頃の一大イベントだった小学校の運動会や地区対抗の区民運動会では、お昼休みのお弁当にはかんぴょうの太巻きのお寿司がお稲荷さんと一緒に必ず入っていたものです。
祖父母が亡くなってからは、かんぴょうも切り干し大根も作ることはなくなっていましたので、自家製の切り干し大根は、我が家にとってはそれこそ半世紀ぶりでの復活なのかもしれません。
 もしかしたら、年寄りの暇に任せて・・・なのかもしれませんが、久し振りの“秋の風物詩”である柿すだれも、そして切り干し大根も、もしもそのおかげで復活出来たのであれば、それはそれで“年寄りの暇”も田舎の伝統を守るには良いことなのかもしれません。
その結果、初めて挑戦したマンションのベランでの干し柿や干した保存用の白菜作りも何とか上手くいきそうですので、気を良くした奥さまはもう一度産直に買い出しに行って、白菜を合わせて6玉、干し柿を全部で60個、切り干し大根はナント5本で作ることになりました。

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