カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
先日、税務署での修正手続きへ行って来ました。
久し振りだったので、ウォーキングがてら歩いて、松本駅から伊勢町、大名町を通って、松本城を抜けて・・・。
平日の月曜日でしたが、外国人の方も含め観光客の方も結構おられます。

『 やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに 』
ではありませんが、早春、梅よりも先に僅かに「青めいてきた柳」の新芽を見ると、何となく春の訪れが近いことを感じます。

この日はもう3月の中旬でしたので、お堀端の柳も芽吹いていましたし、紅白の梅の中にはもう満開に近い木もありました。柳越し、梅林越しに眺めると、天守閣も何となく春めいているように感じられます。


(下の絵は、春の伊那谷下条村を描いたという、原田泰治画「梅の咲く頃」)

そして税務署からの帰路、開運堂の横を通ったら桜餅の販売が既に始まっていました。販売期間は実際に松本で桜が咲いている4月中旬までとのことですが、桜餅の幟を見たら何だか気分はもう桜の季節になりました。
松本の“春本番”も間も無くです。
今日は春分の日。“暑さ寒さも彼岸まで”・・・春のお彼岸を迎え、春の遅い信州松本にもそこかしこに春の雰囲気が感じられる様になりました。



(まだ梅の花が咲くには早い梢に 白い梅の花の様に白雲が掛かっている)
しかし“春告草”というと、上に記した和歌からも分かるように古来我が国では梅の花になるのだそうですが、個人的には“春色”というと何だか黄色をイメージしてしまいます。
調べてみると、春に黄色い花が多い理由は、冬眠明けのハエやアブなどの昆虫に、殺風景な早春の景色の中で黄色を強調し、受粉の手助け(虫媒花)をしてもらうためなのだそうです。黄色は春になって飛び始めたハエやアブなどの昆虫が敏感に反応する色であり、効率的に子孫を残すためのそれらの植物にとっての子孫を拡げ生存するための知恵なのです。
また寒さの残る景色(茶色やグレー)の中で黄色は目立ち、虫たちに花の場所をアピールし易いとも云われています(視認性)。

そうした春を代表する黄色い花の一つにタンポポがあります。それこそ季節になると、リンゴ園がタンポポで黄色の絨毯の様に染まります。
大分昔ですが、2009年にタンポポについてブログに書いたことがあった(第78話)ので、その部分のみ抜粋します。
『上述の女性ハーブ研究家の方が、昔(日本でハーブがブームになる遥か前)「食用タンポポ」を海外から取り寄せて植えて楽しみにしていたら、春生えてきたのは“そんじょそこら”のどこにでもある普通の西洋タンポポだったのだそうです。タンポポは仏語でピサンリ。英語ではダンディリオン(dandelion)。そのノコギリのような葉から「ライオンの歯」を意味する仏語に由来とか・・・。
西洋タンポポって、ヨーロッパでは古くからの食用ハーブだってご存知ですか?
作庭に際して熟読したある女性ハーブ研究家(注記)の方の記述に寄れば、早春のパリの青空市場に大量に積まれ、パリっ子にとっては待ち望んだ「春告げ」野菜?なのだそうです(生のままサラダで食べて、毎日どんより曇った暗い冬が去って明るい春が来たことを実感するのだとか)我家のリンゴ園にもいくらでもあるので、以前、本に記載されていたお薦めレシピ(確か、生の葉を固ゆで卵の黄身をほぐしたものと絡ませ、細かく切ったベーコンをオリーブオイルでカリカリになるまで炒めてタンポポの葉にかけるだけ)に沿って試してみましたが、以降、家族からのリクエストは無し・・・。
【注記】 広田セイ子女史(セイは偏が「青」の旧字体に右側の「つくり」が「見」)。わが国のハーブ研究のパイオニアだそうです。女史の著作『香りの花束・・・ハーブと暮らし』(84年初版)の文庫版(92年講談社刊)のから引用。この本は、カラー写真入りのハーブのリスト、栽培方法やレシピなどもあってハーブガーデン作庭の際に大変重宝しました。 』
NHKの朝ドラ。最近の中では「虎と翼」や「あんぱん」などの評判になった作品は勿論、ただそれまでの習慣で惰性的にただ放送を流していて視る気もしなかった「おむすび」を含め、終了後の「アサイチ」の朝ドラ受けまでしっかりと視るのが殆ど習慣化していたのですが、今回の「ばけばけ」については、当初予告編で主人公であるヒロインの演技が大袈裟で鼻に付く気がして、最初は正直余り期待をしていませんでした。
ところが放送が始まってみると、視始めた当初は明治初期の山陰地方の島根県らしからぬ現代的な会話の言葉遣いに違和感を感じつつも、その新鮮さにも驚き、且つ大阪局制作らしいボケと突っ込み的なコメディタッチの会話にも惹かれ、またそれを成り立たせるヒロインを始めとする俳優陣の皆さんのコメディエンヌ的な自然な演技の旨さにも正直驚き、いつの間にか引き込まれる様に見入っていました。
随分と楽しませて貰ったそんな「ばけばけ」も、今月一杯で終了です。
この「ばけばけ」は小泉八雲を巡る物語なので、舞台は宍道湖の蜆で有名な松江。松本藩から入封した松江藩の藩祖ともいえる松平直政公(蕎麦職人を信州松本から連れて行ったのが、やがて日本三大蕎麦となる出雲そばの元祖)以外、松本とは何の縁もゆかりもない無い物語・・・の筈でした。
ところがひょんなことから、他にも松本との関係があることが分かったのです。
この本庄太一郎は、明治から大正時代に掛けて活躍した松江出身の教育者で、小泉八雲の知人錦織友一のモデルである西田千太郎と共に文検に合格し、東京高等師範の教授や台湾での中学校長を歴任した人物です。その主な経歴は(ネット検索から)、
• 出身:島根県松江市(雑賀町)の旧松江藩士
• 教育者としての活躍:京都府尋常中学校長、東京高等師範学校教授、台湾
総督府国語学校長および中学校長を歴任
• 松本中学校長:大正3年(1914年)に長野県松本中学校(旧制)の校長として
赴任。しかし、排斥運動により退職
• その後:帰郷し、大正6年(1917年)の衆議院議員選挙に立候補(次点)、
その後神戸市教育課長を務めた
そこで調べてみると、長野県松本中学校(現・松本深志高校)の歴代校長は以下の通り、(敬称略)<松本中学校> (1)小林有也 (2)本庄太一郎 (3)高橋清一・・・で、確かに第二代校長に本庄太一郎の名前がありました。
そしてそれ以上に気になるのは、「排斥運動により退職」との記載です。

松本深志高校のアイデンティティーは「自治」にあるのですが、この「自治」を唱えたのが初代校長の小林有也先生であり、実に30年に亘り松本中学の初代校長を務め、今の深志高校に至る学校の礎を創った人物そのものです。自治の由来について、深志の生徒手帳にはこう書かれています。
『本校の前身旧制松本中学校では、明治23 年頃から生徒の自治が故小林有也先生の教育理念として唱えられ、実現された。以来その校風は、伝統的に個人の自主性を重んじ、生徒自らの自治の場を認めている』
この「自治」は、例えば校歌の二番に、
『 時の流れは強うして この世の旅は長けれど
自治を生命の若人は 強き「力」に生くるかな
山河秀でし此の郷に 礎固し我が母校 』
と謳われ、
また新入生が最初に習う応援歌が「自治を叫びて」であり、その中にも
『 自治を叫びて百年 五色の大旗翻し
一千健児の熱血燃えて 城下に轟く鬨の声 』
と謳われています(なお、長女の時の歌詞は「百年(いっぴゃくねん)」だったそうですが、我々の頃は「九十年」でした・・・)。
小林有也先生の唱えられた「自治」に“危機”が訪れたのが、小林先生が亡くなられた後の二代校長として赴任した本庄太一郎に依ってでした。
それを紹介した文章から抜粋します。
『転機は、1914(大正3)年、小林有也が在職中に(校長在任30 年)亡くなった後に訪れる。すなわち「自治という言葉は小林校長が亡くなってから事後的に新しい意味を持つ言葉として使われ始めた」 のである。なぜか。
後任の本庄太一郎校長は、小林とは対照的に、明文化したルールに生徒を従わせることで学校秩序を維持する“べからず主義”であった。小林の時代は校長との対話的関係を前提として、生徒たちが自ら秩序を創り出すことが重視されていたが、それが失われて初めて、生徒たちは自治という言葉を意識するようになった。』
また本庄太一郎の生涯を解説した別の記事の中には、
『規律を重んじる太一郎は、統一主義に基づいて生徒たちを管理する方針でした。これに基づき政党政治を否定する言動を取っていきます。
この「中心へ集約する」姿勢は、学校の自治的空気や、生徒側の反発と衝突しやすい。松本での批判点とも重なり、自治志向を本庄が否定した可能性が述べられています。生徒たちが反発した結果、校長排斥運動が勃発しました。
新聞のインタビューには「生徒の総ストライキをくった」と記載。結局、太一郎は退職へ追い込まれます。』
とも記載されていました。

しかし、松本に赴任してくる前には、明治26年4月~明治32年(1899)6月までは京都府尋常中学校の校長、明治35年(1902)頃には東京高等師範学校教授に就任し、明治40年(1907)には、台湾において、台湾総督府国語学校長と台湾総督府中学校長となっていますので、当時の我が国の教育界において名を成した人物と云えるのは間違いありません。
従って、本庄太一郎は当時松本城二ノ丸に在った校舎で、生まれ育った故郷松江藩の藩祖松平直政公が松江に移る前に藩主を務めていた松本城の天守閣を毎日仰ぎ見ては、恐らく同じ白黒の城である松江城を想い、故郷を偲びながら、松本中学校長として勤めていたのではないでしょうか。
(因みに、上の写真は本庄氏も校長時代に毎日眺めていたであろう、当時の松本中学があったエリア辺りから望む松本城の大天守と北アの峰々の夕景です)
それにしても、「ばけばけ」の放送お陰で、モデルとされる登場人物の一人が松江だけではなく松本とも縁があり、しかもそれが我が母校の校長先生だったと(地元や母校の歴史の中でどう評価されているかはともかく)今回の「ばけばけ」をきっかけに初めて知ることが出来ました。
横浜の次女の所に“家政婦”に行っていた奥さまが、2月末の三連休明けに戻られて来るので、JR松本駅に迎えに行きました。
すると、改札を出てお城口とアルプス口を東西に繋ぐ自由通路に、大きなゴジラ像が置かれていて、観光客の方々がスマホで写真を撮っていました。

松本出身の山崎貴監督による映画「ゴジラ-1.0」が2024年に米国アカデミー賞の視覚効果賞を受賞した快挙を祝って、松本出身の山崎貴監督への敬意を込めて、庄内地区の有志の方々が段ボールやベニヤ板、新聞紙で作った粘土を使って作製したとのこと。


庄内地区の有志の皆さんは「地域の子供達と高校生、大人が主に廃材を利用して協同製作することによって、環境問題の意識を高め、地域の世代間の絆を深める」ことを目的に、このゴジラ像の制作事業を申請し採択されて、補助金交付を受けたものです。

これまでの何作もの映画の中でゴジラが破壊してきた有名な建物は、国会議事堂や東京タワーなど首都圏だけに留まらず、大阪城や名古屋城も壊しているのですが、これをきっかけに、もしかすると山崎監督が「ゴジラ-2.0」(?)のまたメガホンを取って、今度は松本城を壊すのかも・・・などと、松本に現れたゴジラを見ながら想像してしまいました。
何の“前触れ”もなく、2月になって日本経済新聞の1面と最終頁(紙面構成に依って日々異なりますが、大体30面前後)が突然カラー印刷になりました。

その時点でも長野県(中信版?)の紙面全てがモノクロでは無く、例えば中の(広告主が費用負担するであろう)企業広告や、土曜日の別刷りのNIKKEI PLUSや日曜日の中刷り頁の「NIKKEI THE STYLE」などは、ずっと以前からカラー印刷でしたので、長野県で(印刷されて)配布される日経新聞はカラー印刷が出来ないということでは無かった筈です。
日経に限らず全国紙の新聞は、各地の新聞の専売所からエリアの各新聞販売店にトラックなどで配送するのが大変な作業ですので、配布エリアに依って、本社(印刷所がある地点)から遠くなればなる程、早く印刷して送らないと朝の“新聞配達員”の方の配達(折り込み広告を中に挟むなどの作業をした上で)に間に合わなくなります。
そのため、その印刷所からの配送時間に合わせて遠くなればなるほど早く印刷して配送する必要があり、そのため分かり易い例で言えば、遠くなればなるほど、例えばプロ野球のナイター(ナイトゲーム)の結果が途中で終わってしまっていて勝ち負けの結果が分からないということになります。

それは長野県(少なくとも中信版)で配布されている日経新聞の方が後刷りの版でその記事が掲載されていたらしく、長野県の中信地区で配布される日経新聞は首都圏で配布されるものと同じ締め切りで印刷されている“一番新しい”版だったのです。
そしてその理由は、日経新聞が印刷を当時は塩尻市に在った信濃毎日新聞の印刷センター(松本印刷センターが今年新設されて移転)に印刷が委託されており、通信衛星等に依り送られてくる首都圏と同じ紙面の最終版での印刷が行われていたからでした(因みに読売新聞や報知新聞などもそこに委託印刷されている由)。
今回の一面と最終面文化欄のカラー印刷への変更で、これまでの記事の新しさ(少なくともプロ野球のナイトゲームは、子供たちの受験のために取っていた朝日新聞では途中で終わっていて結果は分からなくても、例えどんなに遅く終わっても日経では結果が確認出来た)も含め、都区内と同じカラー刷りでの最新版がここ信州松本でも読める様になりました。何より一番嬉しいのは、文化欄の絵画がモノクロから多色刷りに変わったので、色使い、その色の陰影や濃淡などに込められた画家の意図や狙いなどの解説記事の内容が実際の映像通りに見ることが出来る様になったことでしょうか。これからはそのコラムを見る楽しみが倍増しました。



