カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
  “猛暑”と云われ、35℃を超える気温も当たり前の様に感じた今年の日本列島。長期予報でも10月も暑いと予想されていたのですが、秋分の日辺りからここ信州松本もめっきり涼しくなって、その名の通り真っ赤な彼岸花を黄色く色付いた田んぼの畦道に今年もちゃんと見掛けるようになりました。昔からの“暑さ寒さも彼岸まで”という格言も猛暑の今年はどうかと思いましたが、そんな今年もさすがという感じで、季節はちゃんと巡ってしっかりと秋めいてきました。
“秋の行楽シーズン”ではありますが、必ずしも行楽地に行かずとも、身近でも秋の気配を感じられる様になりました。そんな街角で、そして里山で、見つけた身近な“小さな秋”です。

春は枝垂桜で彩られる井戸は、秋にはピンク色の萩の花が井戸端を飾ります(9月16日撮影)。

新米の価格高騰もあって、茶碗に付いた米粒に「一年間しっかりと手を掛けなきゃお米は採れねえだで、一粒だって無駄にしちゃいけんヨ!」と良く叱られた祖母の口癖ではありませんが、減反減反でまるで悪者の様に言われてきた田んぼの稲穂に、本当に何十年振りかで暖かな視線が注がれた今年の実りの秋だったのではないでしょうか。


最近は松本でも時々金木犀を見掛けますが、子供の頃は松本で金木犀を見たことはありませんでした。ですので、人生で初めて金木犀というものを認識したのは、トイレの芳香剤の匂いだったのです。
高校を卒業して、初めて信州を離れ京都の大学に進学し、キャンパス内の部室棟に行く通路の途中に大きな金木犀があって、秋になって“あの芳香剤の香り”を嗅いで、初めて臭覚ではなく視覚でも金木犀を認識したのでした(9月30日撮影)。


柿の葉の色付きは結構面白くて、赤い葉や黄色い葉もあり、そして緑色が蛇の目の斑点の様に残った葉っぱが多くて、一枚として同じ色や模様の無い柿の木の紅葉と黄葉です(10月8日撮影)。

いよいよ秋も深まり、冬の足音が少ずつ近づいて来ているのかもしれません。
(ワンコの散歩コースの赤く色付いた蔦の葉です。10月19日撮影)

(10月29日撮影)
 9月末、奥さまのリクエストにお応えして、今年も新栗のモンブランを食べに秋の小布施に行ってみることにしました。
 行先は小布施の栗菓子店の一番の老舗、桜井甘精堂の洋菓子産門である「栗の木テラス」です。
行先は小布施の栗菓子店の一番の老舗、桜井甘精堂の洋菓子産門である「栗の木テラス」です。
 栗で知られる小布施。
室町時代に始まると云われる小布施の栗の歴史は、当時この地方の領主だった荻野常倫が、故郷の丹波から栗を取り寄せて植えたのが始まりと伝えられています。小布施の土壌が栗の栽培に適していたため、江戸時代には既に栗林が拡がっていて、小布施栗は品質が良く美味という評判を取り、毎年秋に将軍家への献上品となってその名を天下に広めたといわれています。そのため、俳人小林一茶が「拾われぬ 栗の見事よ 大きさよ」と詠んだ様に、秋に将軍家へ献上されるまでは、庶民は落ちている栗を拾うことさえ許されなかったのだとか・・・。
 そして、この栗を用いて初めて菓子を作ったのが桜井甘精堂の初祖、桜井幾右衛門。桜井甘精堂のH/Pからお借りすると、
『栗を粉にひいて作りあげたのが「栗落雁」。文化5年(1808)のことでした。画期的な「栗落雁」の創製によって、二百年にわたる伝統を誇る栗菓子づくりがスタートしたのです。
江戸で名声を得た小林一茶が、故郷・信州に帰り、小布施で盛んに句会を開き始めた文化五年。この地の桜井幾右衛門は、その年、初めて栗菓子「栗落雁」を創った。これが弊堂の始まりであり、小布施栗菓子の始まりでした。
そして北斎が名画「富嶽三十六景」を世に出し、江戸で活躍していた文政二年(1819年)に、弊堂の初祖・幾右衛門の弟・桜井武右衛門は、他に類を見ない栗だけの「純 栗ようかん」を創製した。
また島崎藤村が小諸で教鞭を取り、小説家としても「千曲川のスケッチ」を書き始めた明治二十五年(1892年)には、五代桜井佐七は、栗と栗あんだけの「純 栗かの子」を創製した。』
この様に、小布施の栗菓子の歴史は桜井甘精堂の歴史と言っても過言ではないでしょう。そして、その桜井甘精堂の洋菓子部門が「栗の木テラス」なのです。

私たちは、この「朱雀」は凭れてしまい(一人一個は多過ぎて、多分二人で一個でも充分でした)、それ以降は桜井甘精堂の小振りのモンブランに変更。
さすがにコロナ禍は無理でしたが、ほぼ毎年の様に新栗の時期になると秋の小布施への小旅行を楽しむのがささやかな私たちの恒例となりました。
10月3日オープンの「イオンモール須坂」が長野東須坂ICのすぐ横に出来上がっていて、隣にはルートインホテルも建っていました。この「イオンモール須坂」は松本店の1.3倍の広さで、県内最大級とのこと。これまでイオンモール松本でも結構目立っていた長野ナンバーの車がこちらに来るようになれば、松本店は今までよりも多少は空くのでしょうか。そうなれば地元民としては有難いことです。
この日は未だオープン前でIC付近に渋滞は無く、ナビの指示はここで高速を降りて須坂市内を走るルートだったので、途中須坂の産直に寄って果物と野菜を購入してから小布施に向かいました。


ですので一巡目は無理かと思ったのですが、先に来て店舗の前で待っている筈の家内が居ません。すると店の中から出て来て、ナント待たずに座れたとのことでビックリ。それぞれ新栗のモンブラン(600円)と、家内はアールグレイの紅茶(650円)と私はトラジャのコーヒー(700円)をオーダー。こちらの紅茶とコーヒーもそれぞれポットで供され、ちゃんと冷めぬ様にポットカバーも掛けられていて、量も優に3杯分近くあるので非常に良心的。また必ず入店した順番で注文を取り、その順番でサーブしてくれます。
その後次々にお客さんが来られて、すぐに5組程が順番待ちになりましたので、たまたまこの日の我々は単にグッドタイミングだった様で、新栗モンブランの人気も相変わらずの様です。


決して大きくはないケーキですが、寄る年波か或いは辛党故か、全部食べ切れず(無理すれば食べられますが、そこまでして食べる気になれず)、半分食べたところで奥さまへ。すると、食べ終わった奥さま曰く、
「もうお腹一杯だから昼食は要らない!今日のランチは抜くからネ!!」
「えっ、ウソ!?」
お昼には小布施でお蕎麦でも食べて帰ろうと思っていたのですが、自ら墓穴を掘ったとはいえ、当てが外れてしまいました。
桜井甘精堂の駐車場は、2千円以上で2時間無料。今回は順番待ちで並ぶことも無かったため、食べ終わってもまだ1時間半近く余裕があったことから、せっかく来たので小布施の街を少し散策してみることにしました。
小布施は、江戸時代に豪商髙井鴻山が庇護した晩年の葛飾北斎が小布施に滞在していたこともあって、栗と北斎での町おこしで人気の観光地。
また、長野県内で一番面積の小さな自治体(逆に人口密度は一番高い)ということもあり、街も小さくて歩いて回れるコンパクトさもあってか、取り分け女性グループに人気です。
個人的には、小布施では中島千波館が気に入っているのですが、今回の企画展には余り興味が湧かずパス。北斎館も岩松院も見たことがあるので、特に他に行く所も無し。そこでオープンガーデンを見ながら、栗の小径を少し歩いてから帰ることにしました。
朱雀の小布施堂は相変わらずの大混雑。北斎館に相対する「傘風楼」は小布施堂のイタリアンとカフェで、ここにも朱雀風のモンブランがあります。どちらも枡一市村酒造が手掛けていて、他にも酒蔵を活かした和食店や日本酒のカウンターバー、更には宿泊施設もあるなど、なかなかの商売上手。因みに、髙井鴻山は市村家の12代当主(因みに高井姓はその善行に依り代官から賜ったという、今も上高井郡と下高井郡と名を残す、この一帯の地域名)。



 9月下旬、コユキとクルミをお世話いただいた保護犬団体の里親会が埼玉県のドッグランを貸し切りにして行われ、コユキとクルミを連れて日帰りで参加して来ました。
コユキを世話してくださった西東京にお住いのボランティア(仮ママ)さんのお宅に、昨年の11月末にクルミを引き取りに伺って以降初めての里親会ですので、すっかり我が家に馴染んで暮らしているクルミの様子を仮ママさんに報告し、そして実際の元気な姿をお見せするのが一番の目的でした。

クルミは元繁殖犬ですが、以前もご紹介した様に、劣悪な環境から不要犬として救い出された推定6歳のシーズーです。仮ママさんが引き取った時には、カットもされたことが無いのか、伸びた毛が絡まって体中が毛玉の様になっていたため、止む無くバリカンで刈りあげたのだそうです。しかも左の後ろ脚が骨折したまま放っておかれたのか、固まってしまい曲げることが出来ず、足を引きずって歩くしかない状態で、動物病院で診て貰ってももう手術は無理とのことでした。
また、ブリーダーから十分に食事も与えられなかったのか、シーズーの標準体重は4~6kgですが、保護された時には痩せこけていて2kg台だったのです。そして人が怖いのか、仮ママさんのお宅でも食べる時以外はクレートに籠ったままの臆病なワンコでした。
本来シーズーは大人しいので、通常だとすぐに引き取り手が決まる様な人気の犬種だそうですが、クルミは脚が悪いこともあるため、なかなか引き取り手が見つからないだろうとのことから、私たちはナナが虹の橋を渡った時はもう今年で推定14歳になるコユキで最後にしようと家内とはお互い話をしていたのですが、里親宅の家庭訪問も兼ねて、コユキをわざわざ松本まで連れて来ていただいた時に、我が家にシーズーのナナが先住犬で居たこともあって仮ママさんからクルミを勧められ、昨年11月上旬に行われた前回の里親会の時にクルミにも会って、結局我が家の最後のワンコとして引き取ることを決断したのでした(第1963話&1977話参照)。

松本へ来てからも、掛かり付けの動物病院でレントゲンを撮って貰ったのですが、複雑骨折でいったいどうなっているのか専門家でも良く分からないとのこと。しかし、不衛生な環境下に居たための肌荒れ以外、検査結果はすこぶる健康で、他に悪い所は見当たらないとのことでした。仮ママさんが「劣悪な環境でも生き延びて来たワンコですので、存外強い子かもしれませんヨ!」と仰っていた通りだったのかもしれません。
クルミは食欲の塊の様な子で、今では4.8kgとシーズーの標準体重になりました。荒れていた肌も、毎月のトリミングの際の薬浴で、すっかりキレイになりました。不自由な足を気にせず家の中を走り回ったり、推定6歳とまだ若いこともあってオモチャを咥えて遊んだりと、我が家ではヤンチャぶりを発揮しています。

横浜の次女の家に行く時に通る八王子からの圏央道は、東名に合流する蛯名JCT付近が慢性的に渋滞しているのですが、八王子JCTから埼玉方面への圏央道は混雑も無くスムーズで、予定より早く着きそうだったので、手前の狭山PAで少し休憩して時間調整。開始時刻の10分前に無事到着しました。
いつもの里親会の会場「ゆりはなドッグラン」は、ウッドチップが敷き詰められた面積700坪という広いドッグランで、この日は保護団体で貸し切りにして里親会が開催されます。
関東一円から集まったワンコたちが優に50匹以上はいたでしょうか。柴などの日本犬やまた雑種の子も居て、この日来ているワンコたちは全て保護犬なのです。中には視力が無い子もいますが、どの子も安住の地を見つけ、里親さんから本当に大切に扱われていることが分かります。
コユキも声帯を切られた元繁殖犬で、不要犬として捨てられて保健所に保護されたワンコですし、クルミも同様。他のワンコたちもきっとそれぞれ色んな事情を抱えたワンコたちでしょう。そうした事情故か、保護犬は犬種に関係無く、皆大人しいのが特徴とか。
この日もラブラドールやハスキーなどの大型犬から、チワワやヨーキーの様な小型犬まで何十匹もいて、どのワンコもドッグラン内ではリードも付けられていませんが、ケンカをしている様なワンコは一匹も居ませんでした。
仮ママさんもクルミをみて、
「あらっ、すっかり見違えちゃって!」
「ねっ、ほらあのクルミちゃんヨ!」
と、その見違える程の変わり様にビックリされ、またとても喜んで、保護された時のクルミを知っているらしい他のボランティアさんを呼んでくださいました。
1ヶ月ちょっととはいえ、生まれて以来初めて優しくして貰った仮ママさんのことを、以前のコユキもそうでしたが、クルミも全く覚えていない様子。すると、他の仮ママさんの方が、
「それでイイんですヨ!覚えていないというのは、それだけ里親さんのお宅に馴染み、そしてなついている証拠なんですから・・・」
と嬉しそうに仰っておられたのが、とても印象的でした。

ただ、クルミも最初は物珍し気に少し歩いていたのですが、園内に敷き詰められているウッドチップは凸凹していて、左後ろ脚が曲がらないクルミは踏ん張れないので、他のワンコと違ってクルミには歩き辛いのかもしれません。
そのため、お昼時間に仮ママさんにその旨ご挨拶してから、一足お先に失礼させていただくことにしました。

高速道での走行はずっとACCを使用し、且つ長野県内に入るまでは100㎞制限で、しかも関越道は3車線だったので走り易かったとはいえ、些か疲れた狭山への日帰り往復でした。
 以前ご紹介した様に、一緒に「源智の井戸」の清掃ボランティア“源智の井戸を守り隊”に参加頂いている方から、これまで「鯛萬の井戸」の清掃を続けて来た地元町会の有志三人での活動が、やはりメンバーの皆さんの高齢化に伴って継続するのが段々困難になって来ており、片や「源智の井戸」が同様に困難になった地元町会での維持管理を、行政と連携して活動のエリアを拡げ、井戸利用者などまで広くボランティアを募って清掃活動が始まったと知り、その「源智の井戸」のノウハウを「鯛萬の井戸」の今後の活動の参考にするために参加していると伺ったことから、逆に個人的には「鯛萬の井戸」の状況を参考にすべく、初めて現地を訪ねてみることにしました。

そこで私たちは、松本市が整備してきた公共井戸に焦点を絞り、どうすれば水場を「憩いの場」にすることができるのか、その政策的なヒントを提示することを目指した。
そのために、私たちは公共井戸のなかでも際立った存在感を放っていた「源智(げんち)の井戸」、「槻井泉(つきいずみ)神社の湧水」、「鯛萬(たいまん)の井戸」の3つの井戸に焦点をあてて調査を行うことにしたのである。
夏の5日間の調査の結果、大きな課題が見つかったのは「源智の井戸」である。存続の岐路に立っているといっても過言ではない状況下にあり、その政策的対応の方向性を示すことにした。
その一方で、「槻井泉神社の湧水」と「鯛萬の井戸」は、地域の「憩いの場」として機能しており、松本市の目指す成功事例と位置づけた。そこで、なぜ「憩いの場」になっているのかを明らかにすることにした。(以下略)』


そんな“優等生” だった筈の「鯛萬の井戸」の現状が心配になり、「源智の井戸」に関わる者として決してヒトゴトではないことから、“三現主義”ではありませんが、「鯛萬の井戸」を初めて実際に見に行くことにしたものです。

松本城下では、お城やその周辺の武家地、そして善光寺街道筋である町人の街である当時「親町」と呼ばれた3町(本町・中町・東町)を「表」とすれば、「枝町」としての現在のこのエリアの上横田町と下横田町を、親町の「表」に対して「裏」と捉えることが出来ます。。
このエリアは、その江戸時代には多くの茶屋等が軒を連ね、明治に入っても藩財政の窮乏を補うため、この東町と横町に限り売女渡世免許が認められ、明治10年には遊郭設置の場所としてこの横田耕地が選ばれるなどして、昭和34年の売春禁止法が施行されるまで栄え、また芸者を抱える料理営業店も集積していました。そして、明治期以降養蚕業を中心に栄えた“商都”松本の盛り場として、その後も平成初期まで賑やかな状況が続いたエリアでもありました。
そんなエリアに在った松本の老舗の割烹料亭が「鯛萬」であり、その「鯛萬」が大正11年に掘って使用していた井戸が料亭移転後も地元で大切に守られ、平成15年に市の「街なみ環境整備事業」により周辺が井戸公園として整備されました。その後、地元の有志3名の方が井戸の清掃を毎週続けられて維持管理されています。
当時のレポートに依ると、「どうして外部の掃除ボランティアに頼んで、掃除する人数を増やさないのか?」という問い掛けに対し、『外部ボランティアは普段から井⼾の近くにいることが難しく、利⽤者が井⼾を利⽤する様⼦を⽇常的に⾒ることができないので、現管理者の価値観を完全に理解することが難しい』とのことで、その時点では地元有志だけでの維持管理を標榜していた様なのです。
確かにその通りで、以前私も書いたのですが、「源智の井戸」の清掃ボランティア発足にあたって、個人的に会議の中で力説しお願いしたのが、
『少子高齢化とドーナツ化現象で市の中心街の人口が減っており、人手の無くなってしまった地元町会は清掃活動そのものからは“卒業”しても、その代わりに、日頃の井戸の様子は地元に住んでいないと把握できないため、町会長はじめ地元の方々に出来るだけお願いして、日頃気の付いたことを市の担当課等へその都度連絡いただく』ということでした。
そして、そのことをキチンと取り決めとして議事録に残し、地元町会と確認させていただいた様に、そうした地元の方々に依る日頃の見守りが絶対に必要不可欠なのです。
しかし地元に拘るが余り、それによって担い手が減り後継者が集まらず、もし大切な井戸が寂れてしまってはそれこそ本末転倒であり、外部の手を借りながら、如何に地元がしっかりと目配りや気配りをしていくかが今後への鍵だと思うのです。


塩屋小路からは車で入ることも出来そうですが、「鯛萬小路」を歩いて行った方が風情があります。
もし時間があれば、近くに松本市内で今も唯一残る酒蔵、善哉酒造の仕込み水にも使われている名水「女鳥羽の泉」もあるので、そこまで足を延ばしてみるのも良いかもしれません。

先述のレポートの中で、「鯛萬の井戸」が市民の“憩いの場”であるのに対し、「源智の井戸」は「殺伐とした」単なる“水汲み場”になっているとの指摘は、市の中心街に在り、人通りが多い高砂通は城下町特有の狭い一方通行のため、井戸の脇に遠慮してギリギリに一台しか車を停める場所しかない「源智の井戸」と、片や路地の奥の広々とした公園の中に佇み、井戸を目当てに来る人しかいない「鯛萬の井戸」との、その置かれた環境の違いが大きいのだと個人的には感じました。
「鯛萬の井戸」は、御影石の石造りの水槽に囲まれた井戸の縁の真ん中からこんこんと水が湧き出していて、二段になったその水槽の周りもまた御影石の石畳で覆われています。「源智の井戸」の木製の井桁と比べると、遥かに磨いて藻を落とし易く感じます。

東屋の梁には何本もの柄杓や、その柄杓で水をすくって口の細いペットボトルに入れる時用のジョウゴがやはり幾つも吊り下げられていて、水を汲みに来る利用者の便宜を図っています。
お水を頂いてみると、雑味の無いとても柔らかな水でした。ただ、10年来使わせて貰っている「源智の井戸」の水に比べると、両者の硬度の違いではなく、「源智の井戸」の水は甘い気がするのです。飽くまで私個人の嗜好ではありますが、“甘露”と呼んでも良い程に甘く感じる「源智の井戸」の水の方が個人的には美味しく感じます。

もしかすると、公園が市の管理であれば、定期的に業者に依る草刈り等がされているのかもしれず、今回はその直前で、雑草が伸び放題の時期の井戸にたまたま来てしまっただけなのかもしれません。
しかし、後日「源智の井戸」清掃ボランティアに参加いただいている方にお聞きしてみると、公園の管理も含め全て地元町会に委ねられているとのことで、市の公園緑地課が草刈りをすることは無いのだそうです。

「源智の井戸」清掃ボランティア全体として市内の他の井戸と連携し、清掃のお手伝いするのはスタートしたばかりで些か時期尚早ではありますが、私個人としてなら別に構わないので、井戸清掃ではなく出来ることからお手伝い出来ればと思った次第です。
 草間彌生の作品展示で知られる松本市美術館で、7月12日~9月23日まで行われていた『ロイヤルコペンハーゲンと北欧デザインの煌めき』展。
シンガポール時代に、奥さまが藍色の小花模様の「ブルーフルーテッド」と呼ばれるロイヤルコペンが好きで、大物から小物までのテーブルウェアのセットを、コーヒーと紅茶のカップ&ソーサのセットに始まり、スープ皿や、プレート、ティーポット、そしてシュガーポットやミルクピッチャーの小物に至るまで殆ど集めていた(私メの酒代とタバコ代に対抗してとの仰せ)こともあり、彼女のリクエストで見に行くことにしました。この展示は、前年には横須賀などで、また松本の後は群馬の県立美術館でも行われる予定の巡回展の様でした。



我々が見に行ったのは9月中旬の三連休だったのですが、会期の終盤だったせいか、企画展はそれ程混んではいませんでしたが、展示内容からでしょうか、来られていたのはさすがに殆ど女性の方々ばかりでした。
今回の企画展は、趣旨に依ると、
『冬の長い北欧では、家で過ごす時間を大切にし、生活の中に優れたデザインを取り入れてきました。本展では、デンマークとスウェーデンに焦点をあて、19世紀末から20世紀の陶磁器、銀器、ガラス器を中心に北欧デザインの魅力に迫ります。』
展示の中心は、デンマークの王立磁器製作所をその起源とすることから、ロイヤルという称号を冠するロイヤルコペンハーゲン。そして、銀製品で知られる同国のジョージジャンセン。
そして、スウェーデンからは、ノーベル賞授賞式の晩餐会で使用される食器で知られる、北欧最古の陶窯というロールストランドと、同じくスウェーデンのスモーランド地方で古くから盛んだったという、ガラス工芸作品が併せて展示されていました。
因みに、ロールストランドは1726年にスウェーデン王室御用達の釜として創業した、ヨーロッパで2番目に古い歴史を持つスウェーデンの陶器メーカーで、今年も受賞された日本人お二人が参加されるノーベル賞授賞式後の晩餐会で使用される食器は、決まってそのロールストランドの「ノーベル」なのだそうです。


(ロイヤルコペン ブルーフルーテッド1785年)(同 水草魚図花瓶1894)





(同 花文花器1920)


(ジョージジャンセン ソースポットとプレート、レードル)
(同 カトラリー 谷間の百合/ローズ)


(ロイヤルコペン 仲良し犬置物1900-03)(同 眠り猫置物1902-28、1958)


個人的には、ロイヤルコペンと聞くと、ブルーフルーテッドと呼ばれるコバルトブルーの小さな花模様と、後は奥さまも集めていましたが、クリスマスシーズンのイヤープレートくらいしか知りませんが、他にも花が大きなブルーフラワーや、、柿右衛門様式に代表される日本の陶磁器の様な色絵の花鳥などを描いた作品、またリヤドロの様な動物や人間の置物もありました。
他には同じデンマークの陶器メーカーというビングオーグレンダール、そこ出身だという銀製品のジョージジャンセン、またスウェーデンのロールストランドやガラス製品も展示されていました。
企画展の後、せっかくなので常設展の草間彌生の作品なども見学。ここは企画展よりもむしろ混んでおり、鏡の部屋などは20秒ずつの入れ替えでの鑑賞で行列が出来ていて、観光で松本に来られた方々なのか、さすがは“世界の草間彌生”を実感させられました。





