カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
小さい頃から毎日眺めて暮らしてきた、筑摩山地の美ヶ原。日本百名山の一つでもあります。しかし、個人的には(松本市民としては?)深田久弥よりも、信州ゆかりの“山の詩人”尾崎喜八の方にむしろ馴染があります。
先ずは、以前もご紹介した、その尾崎喜八作『高原詩抄』に収められた「松本の春の朝」第6編(昭和17年刊行)です。(松本からの美ヶ原遠景)
だが入山辺行きの一番はまだ出ない。
若い女車掌が車内を掃いたり、
そうかと思えば運転手が、
広場で新聞を立読みしながら、
体操のような事をやってみたり。
夜明けに一雨あったらしく、
空気は気持ちよく湿っている。
山にかこまれた静かな町と清らかな田園、
岩燕が囀(さえず)り、れんげそうの咲く朝を
そこらじゅうから春まだ寒い雪の尖峰が顔を出す。
日本のグリンデンヴァルト、信州松本。
凛とした美しい女車掌が運転台の錫(すず)の筒へ、
紫と珊瑚いろ、
きりたてのヒヤシンスを活けて去る。 』

北アルプスは日帰り登山はキツイのいで、ワンコもいて山小屋泊の難しい我々は、毎年の様に、しかも多い時は年2回美ヶ原へ登って来ました。
美ヶ原へは、毎回入山辺地区の三城にある「三城いこいの広場」の無料駐車場に車を停め、尾崎喜八も登った百曲りコースから美ヶ原を目指します。


その美ヶ原へは、松本市の観光統計で昨年1年間に訪れた人はおよそ40万人とか。しかし、もし登山ではなく車で美ヶ原へ行く観光客が大半だとすると、美ヶ原へ行く殆どの観光客は茅野から白樺湖や蓼科からのビーナスラインか、上田(旧武石村)からの和田峠方面へのルートでのアクセスとなります。しかし、ビーナスラインや上田からのルートでは長和村の美ヶ原高原美術館と山本小屋までで、松本から美須々湖経由での美ヶ原自然保護センターまでの道路とは繋がっていません。また松本市街から扉峠までの林道よもぎこば線でも扉峠からはビーナスライン経由で美ヶ原方面へ行けますが、急坂で九十九折が連続するため、ビーナスラインの様な快適なドライブを楽しめる道路ではありません。
従って2034mの美ヶ原山頂の王ヶ頭に建っている人気のホテルへは、自家用車でのアクセスが出来ず、自然保護センターの駐車場に車を置いて歩いて行くか迎えに来て貰うしかありません。ただホテルの建物や各TV局の電波塔が林立している王ヶ頭よりも、むしろ松本側の2008mの王ヶ鼻の方が遥かに展望は優れます。
また冬期間はビーナスラインと美鈴湖から自然保護センター間の林道は、冬季通行止めになるため、美ヶ原への車のアクセスは制限されてしまいます。
そんな状況もあって、松本市では美ヶ原へのロープウェイ建設が関係者の間で検討されています。それを伝える昨年度のマスコミの報道から引用します(因みに、マスコミでは報道上「ロープウェー」と表記するのが原則とのこと)。『さらなる誘客へ、課題として指摘されてきたのが特に冬季通行止めとなる期間の「アクセス性」です。そこで今回、可能性が検討されることになったのが「観光ロープウェーの建設」です。
市は新年度の当初予算案に、ロープウェー建設の可能性を研究するため専門業者への調査委託費としておよそ1700万円を計上。現地調査や課題の整理、地元へのヒアリングなどのほか、事業化する場合のルートの候補やおおよその事業費の算定などを行ってもらうとしています。
県自然保護連盟会長は「ロープウェー建設はその貴重な自然と景観を著しく破壊するものであり許されません。強く計画の撤回を求めます」としていて、建設に反対している市民団体は10日会見を開き、美ヶ原高原は、自然公園法で開発が厳しく制限される「第1種特別地域」であり、最も景観が美しい場所の一つだと指摘しました。』
そして、ここで市はロープウェイ建設に関して、広く市民等(市民以外でも回答可能)からWebアンケートを募ることになったとのこと。
(美ヶ原 王ヶ頭直下の花畑のハクサンフウロとマツムシソウ)


自然保護、環境破壊反対を旗頭に自然保護団体はロープウェイ建設に反対していますが、特に王ヶ頭周辺には、2000m級の山では極めて珍しい高山植物が生えているのが確認されているのだそうです。
茅野市から蓼科を経由して霧ヶ峰を通り、上田市側の美ヶ原までを結ぶビーナスラインは、1960年代前半から工事が開始され、当初の計画では王ヶ頭を経由して松本市まで結ぶ計画でした。
しかし、霧ヶ峰線・八島線開通後の大量の観光客や車の入り込み、当時の建設工法や投棄ごみの増大により、予想以上に環境破壊が進んでいるとして、1970年に着工し始めた美ヶ原線への反対運動が起こり、当時の環境庁長官が1971年に現地を視察して、「この地域(美ヶ原高原)一帯は、1950年から60年に入植されて生まれた人工林地帯ないしは牧草地であり、車道計画そのものを中止する必要はなく、一部地域にある原始林ないし天然林を保護しうるような計画に変更しさえすれば良いのではないか」という結論を出したため、長野県はこれをふまえて再検討した結果、「扉峠~美ヶ原台上の一部ルート変更」と「美ヶ原台地上の美ヶ原(高原美術館)~王ヶ頭の車道計画の中止」と計画を変更した上で開通したのでした。


『生態系と景観の分断:
・八ヶ岳中信高原国定公園の霧ヶ峰や美ヶ原高原の広大な草原・湿原をビーナスラインが切り裂く形となり、野生動物の生息域や植物群落が直接的に分断された
2002年(平成14年)に全線無料化されたことで通行量が急増:
• 観光客が指定された遊歩道や木道から外れて草原に立ち入ることで、植生が踏み荒らされ、地面が露出する「裸地化(らちか)」が各所で発生した
• 外来種の侵入・拡大: 車のタイヤや観光客の靴底に付着して、本来の生態系に存在しない外来植物の種子が標高の高い高原へと持ち込まれ、固有の植物群落を脅かしている
• 騒音と大気汚染: 自動車や二輪車(バイク)の集中による排気ガス、および夜間・早朝の走行騒音により、「本来の山の静寂が破壊されている」との指摘がある
周辺環境の変化と二次的被害:
• 気候変動の影響に加え、観光開発による排水環境の変化などが重なり、霧ヶ峰周辺では「湿地の乾燥化」や「草地の森林化」といった、もともとの景観(維持されてきた草原生態系)が失われる現象が進んでいます。


• 近年、ビーナスライン沿線全域でシカによる植物の食害(ニッコウキスゲなどの高山植物の食い荒らし)が深刻な課題となっており、道路がシカの移動経路や侵入を容易にしている側面も指摘されている 』
との指摘もされています。
では、その後の建設工法の技術革新等をふまえ、現在通じていないビーナスラインを再度慎重に研究検討して、松本側から王ヶ頭を経由してアクセス出来るようにビーナスラインを全線繋げれば良いのでしょうか?
前々から「一度食べに行ってみたい!」と思っていたおそば屋さんがありました。それは、木曽谷への入り口(注記)となる、塩尻市本山地区に在る「本山そばの里」というおそば屋さんです。
現在は麺として食されることが多いそばですが、古くは粒のままお粥にしたり、粉を挽いてお湯で捏ねて粘りを出したそばがきや、その捏ねて団子状にして焼いたそば焼きなどの方法で食べられていました。
麺としての蕎麦の発祥に関しては諸説あるものの、ここは冠たる“信州そば”の長野県ですので、地元長野県の県職員に皆さんに依る『しあわせ信州~長野県魅力発信ブログ~』中の解説記事から引用します。
『奈良時代に全国に山岳修験道を広めたとされる役小角(えんのおづぬ=役の行者)が修行中、信濃国の伊那谷を訪れた際、住民からのもてなしのお礼に携行していたそばの実とその栽培方法を伝えたのが、信州におけるそば栽培の始まりとの説が残っています。
そば粉で生地を練って薄く均等に延(の)し、包丁で麺の形に切る「そば切り」は、長野県木曽周辺で誕生し、全国へ広がったとされる説が有力です。
長野県大桑村にある木曽三大寺のひとつ「定勝寺」の改修記録である『定勝寺文書』には、安土桃山時代の天正2年(1574年)に「振舞ソハキリ 金永」との記述があり、これがそば切りに関する日本最古の記録とされています。
また、松尾芭蕉の門下生だった森川許六による1706年発刊の『風俗文選』には、「そば切りといっぱ、もと信濃国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」という記述が残されており、木曽路の宿場町・本山宿からそば切りが広がったといわれています。本山宿には殿様が泊まることも多く、「ハレものにそばをふるまった」との記録もあります。』
この「本山宿」というのが、中山道69次の江戸日本橋から32番目の宿場町として栄えた塩尻市の本山地区であり、当時この本山宿には10数軒の旅籠があり、多くの旅人にそばを提供していたそうです。しかし鉄道の発達と共に街道の宿場は廃れ、江戸時代の旅籠は一軒も無くなってしまいました。
そこで、「本山宿のそばにまつわる歴史や文化を絶やしてしまうわけにはいかない」と地元の有志の皆さんが集まり、地域の各家庭に伝わるそば打ちの技術や味を後世へ伝えるとともに、地域振興にもつなげるべく、1991年に「本山手打ちそば振興会」を発足させ、1994年には「そば切り発祥の地本山そばの里企業組合」を創設して、この「本山そばの里」が開店。原料も地元産にこだわり、近隣の畑で栽培される「信濃一号」という品種を自家製粉し、そのそば粉だけを使用しているのだそうです。
従って、江戸時代から続く様な老舗のそば屋さんではありませんが、信州に暮らすそば好きとしては、敬意を払って発祥の地のそばをやはり一度は食べておくべきかと思った次第です。








外に出ると、結構広い駐車場には10台くらい停まっていて、中には県外車も数台ありました。
NYから奥さまが戻ったら、子供の頃の信州の田舎を感じさせてくれる様なこの店に、今度は新そばを食べにまた連れて来てあげようと思います。
【注記】
「すべて山の中である」とされる木曽路は、実際は本山宿の次の中山道33番目の贄川宿(にえかわ)が木曽11宿の北端とされ、本山宿と贄川宿の間に在る桜沢に「是より南 木曽路」の石碑が立っている。
この石碑は、「是より北 木曽路」という、旧中山道の落合宿(現岐阜県中津川市)と馬籠宿(長野県から2005年に岐阜県へ越県編入)の間にある石碑と対をなしている。
現在合唱が衰退している理由は必ずしも少子高齢化やコロナ禍だけではなく、他にも色々考えられるのではないかと思います。
例えば、昔から長野県は合唱が盛んな地域だったのですが、それが地元の松本のケースでいうと、初期の頃のサイトウキネン音楽祭での松本市内の小中学校の吹奏楽バンドの子供たちによる吹奏楽パレードでは、最後に松本城で行われる合同演奏で“あの世界のマエストロ”オザワさんの指揮で演奏が“出来る”ということが、それこそ子供たちの一生の思い出として、小中学校での吹奏楽人気を大いに盛り上げ、その結果小さな頃からピアノや才能教育でバイオリンに親しんだ子供も多い“楽都”松本の小中学校で、もし音楽系クラブに入るのなら「合唱よりも吹奏楽を!」という傾向になった様な気がします。
事実、嘗てはNコンの全国大会でも上位に入る長野県の小中学校もあったのですが、今では関東甲信越大会止まり。全国への出場校は小中校とも東京都の学校が殆ど独占しています(しかも全国大会でも金賞の常連で、その結果最近では特に小学校では毎年の様に+1校の増枠が関東甲信越ブロックに割り当てられているのにも関わらず・・・です)。
片や吹奏楽では、全国コンクールで金賞を取る中信地区の中学校や高校も(指導者次第ではありますが、その先生が異動するとその学校が)現れてきています。
また全国的に見てみると、TVの影響も無視できません。
例えば、日本テレビの「笑ってこらえて」の中で「吹奏楽の旅」として、全日本吹奏楽コンクールへの挑戦する高校の吹奏楽部の練習模様が密着取材されて、“感動的な”ドキュメンタリー風に放送されていることも、“吹奏楽の甲子園”として人気に拍車を掛けた(その反動として、音楽愛好家である生徒たちの合唱への興味関心が結果的に薄れ、合唱部への入部が減った)様に感じています。
そして合唱事体でいうと、世の中に“アカペラブーム”を巻き起こしたと云われる、フジTVの“ハモネプ”と呼ばれる「青春アカペラ甲子園 全国ハモネプリーグ」の影響です。
事実、嘗て100名を超えていた大学の混声合唱団が現在は20名足らずとなっているのに対し、片や同じ大学のハモネプのサークルの団員は今や優に100名を超えているのだとか・・・。上手くいけばTVにも出て有名になれるかもしれないし、派手で今風の“カッコ良さげ”で何となく体育会系風の合唱団の様に厳しくは無さそうなのも、そうした人気の理由なのでしょうか?
私も昔TVで見たことがありますが、確かに中には感心する程上手いグループもありましたが、少人数故に個々人に掛かるウェイトが高く、また生演奏収録のためかメンバーのピッチが揃わず“ハモっていない”グループも多く、そんな合唱を聞かされると“虫ずが走る”様で気持ちが悪くてしょうがない。最後には我慢出来ずにスイッチを切ってしまいました(以来一度も見ていません)。
それとは別に、Mrs. GREEN APPLEの「僕のこと」が後に学校の合唱コンクールやコーラス部(埼玉栄高校や神奈川県立湘南高等学校など)によって合唱バージョン(混声4部合唱など)に編曲されて、カバー・演奏されています。たまたまYouTubeでそれを見つけて「イイ曲だなぁ・・・」と思い、そこから更にYouTubeで「僕のこと」を歌っている「ミリオン再生合唱団」というグループの演奏に行きつきました。
このグループはYouTubeやTikTokなどのSNS・音楽プラットフォームでミリオン再生(100万回再生以上)を達成した、歌の上手いクリエイターやアーティストたち20人によって結成されているというグループ。そしてこのグループが歌っている動画から、フジTVの「オールスター合唱バトル」というスペシャル番組を知り、昨年の年末に放送された第7回をTVで初めて視聴しました。(以下、各々の紹介記事から写真を拝借しました)

正直、このミリオン再生合唱団を聴いたら、それまでなかなか良いと思ってYouTubeで何度か聞いていた、東京音楽大学(国内外の音楽コンクールの結果からも明らかですが、最近とみに評価を上げている音楽大学です)の、声楽、弦楽器、打楽器、ピアノ、作曲の各専攻の学生有志によって結成されている、歌と弦楽オーケストラによる楽団「J-POP CLASSIC CLUB TOKYO」も全く色褪せてしまいました。
そして何より「オールスター合唱バトル」をTVで視聴して感心したこと。それは番組内でも紹介されていた、裏方スタッフである合唱編曲者の方に依る、単なる4部ではない、何重にも和声が積み重ねられているコーラス部分の編曲が素晴らしいし、ミリオン再生合唱団に限らずですが、この合唱バトルに参加される素人では無い人たちが、皆かなりの時間を費やして練習を重ねて来たことが一目(耳?)瞭然で分かるのです。
そして最初の「僕のこと」を切っ掛けに、他の「愛をこめて花束を」や「浪漫飛行」などのミリオン再生合唱団の歌う楽曲もYouTubeで聴くことが出来ましたが、やはり生収録の「合唱バトル」では気になったハーモニーの多少の乱れも、さすがにYouTube用に録音し直されたバージョンでは完璧と言って良いレベルの仕上がりになっていました。
片や「合唱バトル」でその正反対で酷かったのは「オペラ合唱団」でした。一人一人は海外の有名歌劇場に所属する様な超一流の売れっ子ではないにしても、当然全員が音大声楽科の出身のプロのオペラ歌手でしょうから、一人一人の声が素晴らしいのは当然なのですが、これが合唱となると一人一人の単なる“目立ちたがり”の様な自己主張が強過ぎてハーモニーになっていないので、合唱としては酷過ぎるのです(ピッチではなく、各員の声質がハーモニーとして同調していないで、時にお互いの張り合う声が邪魔し合っている)。
むしろ歌の上手い芸人の人たちや元々地声の良い演歌歌手の皆さんの合唱の方が、“ハモろう”としてお互いの声をしっかりと意識し合っていて、合唱のハーモニーとしては余程素晴らしかったと思います。
採点結果は世の中の合唱コンクールと違って、“ハモネプ”同様に飽くまで民間放送のバラエティー番組ですからどうでも良いし、むしろ採点などしなくても良いくらいに感じました。

今回そのミリオン再生合唱団の発声方法である地声でのパワーコーラスに興味を持ち調べてみると、明治以降日本の学校教育で推進されてきたであろう西洋化の中での学校音楽でいうと、学習指導要領及びその解説から平成23年には「頭声発声」(軽く頭に抜ける声)の言葉が消えたのだそうです。
地声での合唱と聞いて思い出したのは、最近ではあまり耳にしませんが、1970年代から80年代に良く聞いた「芸能山城組」です。
このグループはWikipediaに依ると『民族音楽を主題にした楽曲を発表している日本のアーティストグループ』という説明でしたが、発声のベースが地声でした。そしてその歌声は、シンガポール赴任時代に毎年旅行で行ったインドネシアのバリ島のケチャ(ケチャックダンス)を連想させました。
また、京都のお寺、例えば我が家の菩提寺の総本山である智恩院には京都に行く度にお詣りしており、御影堂での朝の法話にも参加したことがありますが、いつぞやは檀家さんの法要がちょうど営まれていて、そうした際の何十人ものお坊さんの読経を聞いていると、勿論お経にはメロディーがある訳では無いのですが、抑揚がある経文をそれぞれのお坊さんの低かったり少し高い地声が混ざり合うと、時に倍音が聞えて来る瞬間があり、ケチャもそうですが男声合唱を聞いている様な不思議な感覚になります(ですので、世間では退屈だという評判の葬儀の儀式も、仏式なら最低3人のお坊さんが読経されるので決して嫌いであありません)。
果たして、地声発声でのパワーコーラスが小中学校の音楽教育に導入され得るのか、はたまたされているのか、そして進展するのかは素人である私には分かりませんし、パワーコーラスであれ頭声発声であれ、何よりも声が良い人たちがお互いをしっかりと聞き合えば良いハーモニーが出来るのだろうと思います。
しかし聴いていて感じたのは、少なくともYouTubeで聴くミリオン再生合唱団の合唱は決して地声で“がなりたてる”だけではなく、ハモるべきところはしっかりとハモっている。例えば弱音(PP)部分は普通の合唱同様にハモり合っていてとても美しい。ですので、個人的には今まで聞いたことのある地声だけ(?)のゴスペルコーラスとは何だか違う気がするのです。
私自身がパワーコーラスそのものを理解していないのですが、ただこの僅か20名たらずのミリオン再生合唱団の合唱を聞いて感じたのは、ハモネプよりも余程合唱としても素晴らしいし、個々人の歌唱も生きているし、何よりハモることの楽しさが聞いている方にまで伝わってくる気がして、大袈裟ではありますが、何だか衰退しているという近年の合唱界への一筋の光明を見つけた様な気さえしたのでありました。
合唱界に多くの試練を与えたコロナ禍。私もそんな影響を松本で聴いた演奏会で実感していました。
それは、コロナ禍が明けた3年前に松本で行われた早慶グリークラブの演奏会でした。その時のブログ記事(第1757話)から抜粋します。
それは2年前の2024年の12月に行われた東京混声合唱団(以下「東混」)の松本公演(第1959話)でした。同じく抜粋すると、
『今回の演奏会を「松本公演」と銘打ってある通り、この日の東混は全部で26名とほぼフルメンバーでの来演(コンマスのソプラノ松崎さんは所用か、姿が見えませんでしたが・・・)。さすがは全員が藝大声楽科を始めとする音大出のメンバーで、オペラのソリストも務められる様なプロの声楽家の皆さんですので、26名の声量はその人数の倍、否三倍以上のアマチュア合唱団のそれに匹敵します。しかし何と言っても一番の魅力は、その声量の豊かさではなく、むしろ最弱音のppp(ピアニッシシモ)です。響きの良いこの音文ホールの天井から、まさにハーモニーが静かに降り注いで来るかの如き美しさ。全員が絶対音感をお持ちの筈のプロの方々ですのでむしろ当たり前なのですが、学生時代に合唱をやっていた身からすると、途中からピアノが入って来ても全くピッチがずれていないのに何度も感動してしまいました。』『続いての第二部が「東京混声合唱団が送るシアターピース」として、東混の1973年の委嘱作である柴田南雄の「追分節考」。まさに東混の十八番とも言って良い難曲で、一人一人がプロの声楽家である東混だからこそ歌える曲であり、殆どのアマチュア合唱団では演奏困難です(決して自分たちだけの自己満足ではなく、聴衆にチケット代金を払って聴いて貰える水準として演奏するのは・・・)。
(中略)今回初めて生での演奏を聴くことが出来ました。会場の通路を馬子に扮した男声陣が練り歩くかの様に歌うので、恐らく聴衆一人一人の席で聴く歌声の強弱が違うであろうこの曲の、会場で聴く生演奏の面白さと共にプロの合唱団の凄さを改めて実感した次第。』

しかし、アマチュアの合唱団がプロの合唱団を凌駕する程の輝きを放っていた時代が間違いなくあったのです。そしてその一役を担っていたのが、大学の男声合唱団、グリークラブでした。そして大学を卒業した合唱愛好家が、社会人のアマチュア合唱団としてしのぎを削っていた頃がアマチュア合唱の全盛期であり、その頃製作されていたLPレコードが、そうした我が国のトップレベルのマチュア合唱団が演奏する「現代合唱曲シリーズ」だったのです。
勿論、全員が音大の声楽科卒のプロの合唱団とアマチュア合唱団では、一人一人の技量、特に声量は段違いです。でもそれを例えば東混は20数人ですが、全盛期のアマチュア合唱団は100名近い団員が全員でそれをカバーしていましたし、以前知り合いのマエストロが云われた、決して人数だけではなくマチュアだからこその強みとして、以前もご紹介した様に、
『「演奏会に向けた練習時間が長く取れ、全員が真摯に集中した時のアマオケの演奏は、ややもするとビジネスライクで無味乾燥的になりかねないプロオケの演奏を、時として凌ぐ」のです。(数年前に「えっ、アマオケを振られるんですか?」と怪訝/不遜な態度の私に、尊敬するマエストロが諭すように穏やかに言われた言葉を思い出し、猛省しながら噛み締めていました)』
もあるとは思います。
しかし、嘗て我が国の男声合唱界の頂点に君臨していた、当時の東西4大学のグリークラブ全盛期を実体験として知る者にとってのこの二つの演奏会は、現在のアマチュア合唱団が例え“練習時間が長く取れ、全員が真摯に集中”しても演奏レベルはこの程度なのかと、残念ながら現在のアマチュア合唱界の凋落ぶりを、残酷な程に殊更印象付けられたモノでしかなかったのです。
7月中旬、大学時代のサークル(混声合唱団)の同期と後輩のメンバーが同期会を兼ねて松本へやって来てくれました。
私が不義理で京都などでの同期会へは一切行かないので、学生時代にサークルの夏合宿を毎年栂池で実施していたこともあり、彼らが久し振りに信州への旅行を兼ねてやって来てくれました。それに合わせて松本在住の先輩後輩も夜の飲み会と昼のランチにも合流してくれたので、久し振りの“松本OB会”も併せて実施することが出来ました。
さて、その際に聞いてびっくりしたこと。それは、コロナ禍も手伝っての大学の合唱界への“逆風”でした。
我々の所属していた混声合唱団は現在団員が20名ほど。そして、全日本合唱コンクールで優勝(金賞受賞)したこともある男声合唱団はナント解散してしまったとのこと。憧れのグリークラブだっただけに、ショックで信じられませんでした。しかし、ミサや礼拝などで聖歌隊として定期的に奉唱するミッション系大学の合唱団を除くと、関西の有力大学の男声のグリークラブや混声合唱団は今どこも皆同じ様な状況なのだそうです。
そんな現状とは対照的に我々の学生時代を過ごした1970年代後半は、アマチュア合唱の全盛期と言っても決して過言では無かったと思います。




私の頃の学生時代、各大学の合唱団は混声も同声も皆100人近い団員を有していました。それが次第に減少し、そして決定的にダメージを与えたのがコロナ禍だったと言います。
集団で密になること、口を開けて大きな声で歌うこと・・・。合唱練習での当然の営みが、「密を避ける」、「飛沫感染を防ぐ」というコロナの感染対策に逆行し、中にはコロナそのものの感染源として疑われたケースもあったそうです。
そんな中で合唱を続けるために、プロからアマチュアの合唱団まで、合唱界では実に様々な努力がなされていました。
コロナ禍の当時の合唱界では、練習や演奏会の大幅な自粛、マスク着用の義務化、ソーシャルディスタンスの確保など、多大なる制限と向き合うために、全日本合唱連盟などが示した指針やガイドラインに基づき、前後左右の十分な間隔(前後約2m・左右約1m)の確保や、飛沫防止用マスク・フェイスシールドの着用が行われ、学校や合唱団ではオンラインでのリモート合唱(動画の組み合わせ)の導入など、昔合唱に携わったことがある人間からすると(あんなフェイスガードを付けたら、歌いながらの息継ぎはぞ苦しかろうと)正視するのがつら過ぎる様な、涙ぐましい努力がされていたことを思い出します。
因みに、そんなコロナ禍当時の状況を、例えばプロの合唱団である東京混声や東京藝大の声楽科の皆さんなどのリモート合唱を、当時配信されたYouTubeで今でも視ることができます。
そんな最近の合唱界について、全くのど素人ながら最近感じていたことも含めて、少し考えてみたいと思います。



