カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 12月7日まで松本市美術館で開かれていた企画展「戦後80年 石井柏亭 “えがくよろこび”-信州から美術の未来をみつめた画家」。
個人的には子供の頃、多分地元の八十二銀行のカレンダーに使われていた石井柏亭の「松本城」の絵が印象的で今でも忘れられず、画伯の企画展が開かれると知り前売り券を購入してありました。

 石井柏亭は祖父と父が画家で弟が彫刻家という東京の芸術一家に生まれ、自身は二科会や一水会の創設に関わるなど中央画壇の重鎮として活躍していましたが、東京大空襲で自宅とアトリエが全焼したのを機に、戦時中に松本市の浅間温泉(当時は本郷村)に疎開してアトリエを構え、終戦後もそのまま留まって信州美術会の設立にも尽力し、現在も続く「県展」を創設するなど、戦後の信州美術界の再興と発展にも大きな足跡を残した画家です。
今回は、そんな石井柏亭画伯の信州に縁の作品を中心に、松本市美術館が収蔵する作品のみならず、長野県立美術館をはじめとする県内の美術館から東京国立近代美術館など県外の美術館や個人蔵に至るまで、幼年期の作品をも含め画伯の初期から晩年までの作品100点余りを展示した、松本市美術館が企画する初の石井柏亭だけの絵画展で、謂わば石井柏亭の大回顧展ともいえる絵画展でした(そして、今回の企画展でありがたかったのは、その展示作品の殆どが地方の美術館では珍しく、フラッシュ無しでの写真撮影がOKだったこと。松本市美術館側の配慮に大いに感謝したいと思います。あとは、都会に比べて遅れているクラシック演奏会でのアンコール時の写真撮影だけでしょうか・・・)。

 会場に入って最初に目にするのが、私自身が一番記憶に残る“あの”「松本城」でした。松本市美術館蔵の謂わば松本にとっての“お宝”でもありましょう。松本城の“昭和の大修理”が1950年(昭和25年)に始まり、困難を乗り越えて5年後に竣工。本作はその竣工直前の夏頃の作品と云われます。そして画伯の好意に依りこの絵の絵葉書が制作されて、解体修理に携わった工事関係者や協力者に贈られたのだとか。
 この後の展示は画伯の生涯を年代に沿って四つの章に分けて展示されていて、前半の第1章「困難を乗り越えて」では幼少期から20代まで。そして第2章「東奔西走の日々」では、画伯の30代から60代の頃に制作した作品が展開されていました。
後半の第3章は「信州と柏亭」と題され、疎開後から晩年の活動を取り上げた内容。東京大空襲の戦禍を逃れて松本市の浅間温泉へ疎開し、アトリエを設けて制作を続け、亡くなるまでの約13年間で1000点を超える作品を残しました。
最後の第4章「松本をえがく」では、終戦の1年後、松本に腰を据えることを決意して、美術が都市部に偏っている状況を打破するために、画伯自身が取り組んだ様子が紹介されていて、個人的には作品もですが、むしろそれ以上にその記された文章や短歌に詠まれた画伯の想いに大いに惹かれました。
 先ず若い頃からの作品に始まる展示で目に付いたのは、「騎馬随身図」(1890年 個人蔵)という日本画で、この作品は僅か8歳の時の作品。いくら祖父や父が日本画家だったとはいえ、その天賦の才能に驚かされます。
水彩画「とり入れのあと」(1901年 松本市美術館蔵)は若くしてその父を亡くし、一家の大黒柱として働きながら画作に励んでいた19歳頃の水彩画で、松本市美術館に残る柏亭作品の中でも一番古い作品だそうです。
続いて水彩画の「」舟に居る人」(1912年 千葉県立美術館蔵)と、構図、題名ともにマネの「草上の昼食」に着想を得たものとされる、柏亭22歳の初期の代表作の一つ油彩画「草上の小憩」(1904年 東京国立近代美術館蔵)。

また木版画も手掛けていた頃の柏亭の作品「木場」(1914年 長野県立美術館蔵)と、その後支援を得て何度か渡欧外遊した中の28歳の時の作品「サン・ミッシェル橋」(1923年 東京国立近代美術館蔵)。

そして本展における最大級サイズという作品「画室」(1930年 京都国立近代美術館)。この作品は第17回二科展への出品作で、この作品の中には“画中画”として画伯が第15回二科展に出品した「果樹園の午後」(1928年 福島県立美術館蔵)が描かれていて、この「画室」は80年以上もの間個人蔵となっていた作品でその後京都国立近代美術館の所蔵となり、今回が所蔵後の初めての貸し出しで、中に描かれている「果樹園の午後」と共に二つの作品が並べられて見られる貴重な機会になったのだそうです。
 後半は疎開後に迎えた終戦後もそのまま松本に留まり、腰を据え描いた信州縁の作品が並びます。
その中で印象的だった作品が「山河在」(1945年 松本市美術館蔵)。これは、形勢が不利になった戦時中に政府の国民の士気高揚に使われたスローガン「国破れて山河なし」に反発して描いたという作品で、そこから犀川となる奈良井川と梓川の松本市島内の合流地点から見た信州の山河を描き、戦後最初の「日展」へ出展された作品です。
杜甫「春望」の一節「国破れて山河在り 城春にして草木深し」をモチーフに、敗戦後描いた作品と共に、
 「やぶれたる 国ではあれど 山河のすがたうつくし 心なぐさむ」
と画伯が詠まれた短歌も一緒に添えられていました。
「画室小集」(1949年 長野県立美術館蔵)は、画家達が集うサロン的な情景を描いた作品ですが、画面にはサントリー角瓶と分かるボトルが描かれています。また背後には風景画がこれも“画中画”として描かれています。その作品は浅間温泉のアトリエ付近から松本平を見た「麦秋」(1949年 長野県立美術館蔵)。
その「画室小集」に似た作品が「中信酒客」(1953年 松本市美術館蔵)。
こちらは、中信美術展の会場にいた地元の作家たちが、絵画展に偶然訪れた柏亭にビールをご馳走になろうと画策して市内のレストラン「鯛萬」に連れ出し、柏亭は5日間「鯛萬」に通って彼らをモデルにこの作品「中信酒客」を描いたのだとか。そして、その間のビール代は画伯が快く支払ったのだそうです。隣はやはりアトリエ付近から見た風景の「浅間眺望」(1945年 浅間温泉菊之湯旅館蔵)。
最後の「松本をえがく」の章では、松本の情景などを描いた作品を主体に展示されていました。
松本に腰を据えてから何度も描いた別の「松本城」(1945年 松本市美術館蔵)と「槍ヶ岳」(1946年 個人蔵)。そして依頼されて描いたという珍しい屏風絵「菜園果樹」(1946・49年 松本市美術館蔵)や女鳥羽川(1947年 松本市美術館蔵)など。
展示フロアには絵画作品だけでなく、「終戦一年後の信州」と題して、新聞社に送られたという画伯の決意を示した文章が展示されていて、曰く
「(前略)
幸いに空襲被害の殆どなかった此県は日本有数の地方文化中心にならうとして居る。
 東京へは要件のある時だけ行くことにして、私は此地に腰を据える覚悟をして居る。美術の大都市偏在の弊を聊(いささ)か破ることが出来るならば幸であると思って居る。
 日本アルプスの関門にあたる松本市の如きは観光都市としての施設の改善も考へなければなるまい。先づ第一に終戦中の誤った指導に基づく家屋の迷彩を剥いで、以前の誇りであった白壁の美しさを取戻さなければならず、市の文化懇談会でさう云う意見を述べもしたが、其実現の一日も早からむことを希望して居る。」
  (「女鳥羽川」1947年、松本市美術館蔵と同じ場所から見た現在の写真)
 敗戦後間もない80年も前に、現在の地方文化の創生にも繋がる画伯の先見性であり、こうした強い志を持つ石井柏亭の元には必然的に信州に疎開していた他の芸術家や地元の画家たちが自然と集まり、やがて信州の美術界の中心となっていったのです。
それはきっと石井柏亭が中央画壇の重鎮だったという実績と名声によってではなく、中央から離れたこの信州の僻地から気概を以って中央画壇に立ち向かおうとする画伯自身の強い志が、齢60を超えて尚、その煮えたぎる様な熱い想いが皆を巻き込む核となっていったのでありましょう。
そんな石井柏亭画伯の熱き想いが80年の時を越えて感じられた、非常に印象深い絵画展でした。

 孫たちが横浜に帰る最終日。
蕎麦好きの婿殿のために、山形村のそば処「木鶏」で新蕎麦を食べてから松本発の午後のあずさに乗るようにと、事前に予約をして伺いました。
勿論儀弟のそば処「丸周」にも何度も行ったことはあるのですが、営業中に子供たちが騒ぐと、やはり周囲のお客様には気兼ねをして申し訳なく、親戚だと尚更余計に気を使ってしまいます。

その点、「木鶏」は一部屋ですが、蕎麦屋さんには珍しくわざわざ個室が設けられていて、「自分たちも昔外食した時に苦労したので、小さい子供さん連れでも安心して食べて頂ける様に」と、その個室には福島県出身の店主ご夫妻のお子さんたちが小さい頃使った木のおもちゃと絵本も置かれているので、この個室が予約出来た時は安心して蕎麦が食べられます(但し、予約は開店直後の確か三組のみで、以降の予約は無し)。今回もスケジュール(と婿殿の新そばが食べたいという希望)が分かった時点で、早めに個室を予約してありました。
 注文は、しゃもつけを婿殿と家内が(彼女曰く、軍鶏よりも高価な鴨を使う「丸周」の鴨つけの方がやはり味は美味しいとのこと)。娘は珍しく和風キーマカレーそば、私がもりで、量の違いで姫盛り、大盛り、鬼盛りとあるのですが、私と婿殿は大盛りにしました。
この日の玄蕎麦は地元産の新そばので、ソバの種類に依り田舎蕎麦は打てないとのことでした。
コシもあって喉超しも良く美味しかったのですが、最近の蕎麦は秋の新そばであっても、何処で食べても何故かあまり香りが感じられない気がします。また。木鶏の蕎麦の量は大盛りだと240だったか250gで少々足りない気がして、鬼盛りが300gとのことだったのでそちらの方が満足出来るかもしれません(次回は鬼盛りにしたいと思います)。
 店内のテーブル席では小さい子が泣いたりしていましたが、きっと親御さんは気が気ではないでしょう。松本の蕎麦屋の中には「小さい子はお断り」という店もありますが(もしそんな“格式の高い”店だったら、いっそのことドレスコードまで設定すればイイ)、それを見て小さい子を持つ親御さんたちが一体どんな気持ちでいるか、店側は考えたことがあるのでしょうか(やがて子供が成長した後でも、その店に行こうとは決して思いますまい!事実、例えどんな有名店であっても、孫がいない時でもジジババは食べに行こうとは思いません)。
 昔は“子供は地域の宝”として当たり前の様に、集落全体で、近所の大人たちで、そして皆で子育てをしたもの。その子供たちがやがて自分たちが年寄りになった時には大人になって、その年寄りのいる社会を支えてくれる様になるのです。ですので、遊ぶ子供たちに「ウルサイ!」と怒鳴って排除するのではなく(ましてや子供の遊び場を奪うのでもなく)、せめてこの国の未来を担う子供たちには優しい大人(年寄り)でありたいと思います。でないと、“姨捨山”ではありませんが、大人になった子供たちから「汚い!」と排除される年寄りになりかねませんから・・・。

 二泊三日で松本に来てくれた次女一家。せっかくなので、一日は婿殿が好きな蕎麦を食べに行くことに。逆に云えば、和洋中のどれを取っても横浜の名店に適う筈も無く、唯一太刀打ち出来るのはやはり信州蕎麦と信州らしい郷土料理でしょうか。
ただ困るのは、殆どの蕎麦屋さんが昼のみの営業で、しかもその日に朝打ったそばが終われば、例え営業時間内でもそこで営業終了という店が多く、夜も営業する店はそう多くありません。メニューがもりとかけのいずれかの二択のみ・・・というような、或る意味潔い蕎麦専門店ともなれば尚更です。
そこで夕食に蕎麦も食べようとすると、蕎麦だけでは物足りませんし、蕎麦専門店はどのみち夜は殆ど営業していないので、結果選ぶのは我が家では中町の郷土料理の店「草菴」になります。
こちらは、〆に食べる蕎麦以外に、馬刺しや川魚、また季節によって山菜やキノコなどの信州らしい郷土料理もメニューにあるので、以前から我が家では県外のお客さんをもてなすのに重宝しているお店です。

 そこで今回も小さな孫たちが騒いでも良い様にと、事前にいつもお願いしている畳の個室での料理を予約して、松本市中町の“季節の郷土料理の蔵”「草菴」に伺いました。
今回も季節の懐石コース料理を、事前に「7,150円コース(税込) / 9品」を次のコース内容で予約してあり、
  ・先付 / 2品
  ・前菜 / 季節の前菜盛合せ
  ・お椀
  ・お造り / 旬魚のお造り
  ・焼物肉
  ・焼物魚
  ・蕎麦
  ・デザート
この内、値段は当然アップするのですが、婿殿と娘の好物でもあるので、信州らしくお造りを馬刺しに、また〆の蕎麦をお椀からざる蕎麦に今回も変更して貰ってありますので、コースとしては概ね8000円位になったでしょうか。
二年前でしたか、後継者問題で経営が困難になる前にと、今後も従業員の雇用を守るべく地元銀行の仲介で「草菴」が王滝グループの傘下に入ったことで、昔の如何にも信州らしかった“素朴さ”が多少失われて、料理がより洗練されて“一般受け“する様にオシャレな内容になったのは、経営的にはプラスなのかもしれませんが個人的にはチョッピリ残念な気がしていました。
そんな草菴の今回の懐石コース料理です(説明頂いた内容を忘れてしまい、ウラ覚えで恐縮です)。
   
          (先附二品。梅肉和えとワカサギの天婦羅)
  ( 季節の前菜盛合せ。いちょう切りのレモンの下がキノコのおろし和え)
        (お椀とお造りの馬刺し。一枚食べた後の写真です)
  (焼き物の肉と魚。肉は信州牛、魚はカマスとマコモ、焼いた蕎麦団子)
          (〆のざる蕎麦とデザートのシャーベット)
 最後、支払いの時に店長さんと少しお話をしました。経営が替わっても、春の山菜と秋のキノコ採りは、以前と変わらずに店長さん含めスタッフが今年もちゃんと山に行って採って来ているとのこで、安心しました。
ただこの秋のキノコは、シーズン最初の頃は一時マツタケも含め今年は豊作との報道もされたのですが、その後松本平では雨が殆ど降らなかったため、今回前菜の盛り合わせの中には量はチョピリでしたが、しっかりとおろし和えで出されていたそのリコボウ(ハナイグチの松本地方での呼び名。諏訪ではジコボウとも)を始め、クリタケ、アミタケといった定番の雑キノコも殆ど山では見られなかったのだそうです。
それでも、経営が変わった後もちゃんと山に行かれていることを知って、個人的には安心した次第。
  「以前と変わってませんから、大丈夫です。またお待ちしています!」
  「ごちそうさまでした。ハイ、また来まーす!」

 孫たちが「バァバとジィジのおうちにまた行きたい!」(最近何かで「じぃじが 建てた家でも ばぁばんち」という様な川柳を見た気がしますが、我が家も順番はこの通りだそうです)とのことで、11月の最後の三連休に一家全員で、松本に二泊三日で来てくれました。
 二泊三日といっても、初日は横浜からの移動で、三日目は松本から横浜へ帰るので、フルに自由なのは中一日だけ。
当初は、我々が事前に予行演習もしながら、婿殿が仕事の都合でお盆に行けなかった白馬岩岳マウンテンリゾートに行って、「マウンテンハーバー」で眼前に拡がる白馬三山の絶景(上手くいけば三段紅葉)を見たいという希望だったのですが、チェックしたところ岩岳の(グリーンシーズンの)営業は11月中旬で終了(期間を置いて12月からスキーシーズンの営業開始)とのこと。確かに考えてみれば、早ければ10月末。遅くも11月に入れば上高地やこの北アでは三段紅葉が見られる時期ですし、11月末の三連休には信州は里の紅葉でさえもう見頃を過ぎているかもしれません。
そこで紅葉は諦めて、孫たちを連れて行った先は、昨年の3月にも行った駒ヶ根に在る養命酒の運営する「くらすわの森」でした。
養命酒の工場に隣接する森の中に作られた「くらすわの森」のベストシーズンは、おそらくせせらぎに沿って遊歩道を歩きながらの森林浴が楽しめる夏だと思うのですが、この晩秋、初冬の時期に他に孫たちを連れて行ける様な施設や場所は、この信州では残念ながら他に思い当たりませんでした。

 今回も一台で移動すべく、三列シートのアルファードを一日レンタル。二度目なので勝手も分かり、スムーズに運転し到着です。「くらすわの森」は駒ケ根ICではなく、駒ケ根SAのスマートICからだと僅か数分というのも有難い。
この日は三連休の中日ということもありますが結構混んでいて、平日だった前回は停められた第一駐車場は既に満車で、結局第三駐車場に駐車しました。しかも中京方面を中心に県外車も多く、結構な集客力だと感心しきり。
婿殿は初めてなので、先ずは雑木林の中のフォレストリングをぐるっと一周回ってみることにしました。


11時を過ぎていたので、先にランチを食べることにしましたが、前回のビュッフェのレストランはパスし、個人的にはランチプレートのあるカフェでと思ったのですが、今回娘たちが選んだのはミートデリのイートインでした。
     (以上の写真は「くらすわの森」紹介頁からお借りしました)
こちらは養命酒の手掛ける自社ブランドの信州十四豚(これでジューシーポークと読ませるのだとか)の自家製ソーセージやハムを販売し、その場でも食べられる場所。長~いソーセージを自家製のバンズで挟んだホットドッグセットなどを注文。少し塩味を効かせたソーセージはプリプリ、皮もパリパリでとても美味しかったです(ただ、男性陣にはチト“おしょうびん”だったので、ミートデリの戸外のキッチンカーでのグリルドソーセージも、味見を兼ねて追加で注文しました。因みに外のテラス席ではワンコもOKです)。

その後、養命酒の工場に隣接する敷地13万㎡という広大な森の中の遊歩道を歩いて、前回3月に来た時は降雪の翌日だったためぬかるんでいるからと諦めた滑り台「丘の上のスライダー」と、遊歩道の先に在る「森のライブラリー」へも行ってみました。
20mちょっとのローラースライダーの滑り台では、最初は怖がっていた下の孫も母親と一緒に滑るなどして慣れると、孫たちも喜んで「もう一回、もう一回!」と何度も一人で滑っていました。
そこで、その間に独りで木道の遊歩道を歩いて、「森のライブラリー」へ行ってみました。童話の世界に在る様な、森の中に佇む特徴的な二階建ての木製の建物で、子供用の絵本なども含め蔵書は1000冊とか。中も木がふんだんに使われていて、ウッディーで気持ちの良い空間です。園の森を眺めて座る様になっていて、一人ずつ読書用のLEDライトが付いています。ただ、ここまで来られる人は多くなく、地元の高校生たちでしょうか、この辺りにはフリーの学習スペースが余り無いのか、ここで(無料で)何人もが勉強をしていたのはご愛敬でした。冬はともかく夏は森林浴で木の香りを嗅ぎながらですので、学習効果もさぞ高まるだろうと思います。
 滑り台に戻り、遊歩道を歩いてまた皆でフォレストリングへ行って、マルシェとショップでお土産などを購入。
そして最後にインフォメーションの建物の屋上が展望台になっているので、上ってみました。
背後の駒ヶ岳(木曽駒。伊那谷では単に駒ヶ岳か、東の甲斐駒に対し西駒とも呼んでいます)と、そして正面に拡がる“南アルプスの女王”仙丈を始めとする南アルプス(標高第2位の北岳、奥穂と並んで3位の間ノ岳も)の絶景を眺めてから帰ることにしました。
 帰る途中少し足を延ばして、最近オープンしたばかりの話題のスポット、「諏訪湖テラス」に行ってみることにしました。ここは予定より一年遅れて開通した諏訪湖SAのスマートICから出てすぐの場所。諏訪湖畔に建てられた、地元岡谷の有名お菓子屋さんが手掛ける施設です。
オープンして間もない話題の施設ということで、県外車も含め観光客の車がひっきり無しに訪れます。係員が2名いて誘導しているのですが、たまたま我々は運良く駐車出来ましたが、駐車台数はそう多くは無いので常に満車状態。偶然駐車スペースが空いたタイミングでなければ、せっかく来ても駐車出来ずに諦める車が殆どでした。
我々もせっかくなので中に入ったのですが、ショップとカフェがあって、屋上部分には展望テラスと諏訪湖らしく足湯もあるのですが、如何せん狭過ぎ。展望テラスも足湯もせいぜい10人も集まれば一杯で、座る余地もありません。岩岳マウンテンリゾートなどの白馬エリアや志賀高原の横手山や竜王など、各地にこうした展望テラスがオープンして人気を集めていますが、そうした最近人気の施設と比べると規模が小さ過ぎて、ここは観光施設としては微妙・・・。作ったのが“町のお菓子屋”さんでは資金力の問題か、いずれにしてもショボ過ぎます(どうせなら共同展開する地元の仲間を集めて倍位の規模にした方が、現在のお菓子とカフェだけの店舗より集客的にも選択肢が増えて効果的だったのでは?)。些か前宣伝がオーバーだったのか、評判倒れの感は否めません。少なくともまた来たいという気には残念乍らなれませんでした。むしろ諏訪湖を眺めるのなら、道を挟んだ諏訪湖畔へ行った方がよっぽどゆったりと湖畔の景観を楽しむことが出来るでしょう(その前に良く考えてみれば、高速をわざわざ降りずとも、諏訪湖SAの方が高台からの展望も良いので遥かにマシでした)。
     (こちらの写真も「諏訪湖テラス」の紹介頁からお借りしました)
 それにしてもここのスマートICは、諏訪湖SAが高台にあるため止むを得ないのでしょうが、湖畔までの標高差数十メートルを下るのに山をくり抜いたトンネルが新設されるなど、大工事。
確かにこのスマートICの開通により、岡谷側からの諏訪湖畔へのアクセス(岡谷ICからだと岡谷の市街地を抜ける必要があり、諏訪湖へは遠い)と、諏訪湖の西側に在る観光施設(諏訪ガラスの里や原田泰治美術館など)へのアクセスは格段に便利になりますので、宿泊施設などが林立する東側に比べ、観光開発という意味においては(嘗て地元でも“半日村”などと揶揄されて)遅れている湖畔西側(通称“西街道”)の開発には(もし新たに開発する意欲があるのであれば)効果があるかもしれません。しかし、茅野市側の蓼科高原や白樺湖、霧ヶ峰へのビーナスラインへは現行の諏訪ICからの方が早いので、あまり効果は期待出来ません。大混雑する年一回(新作花火を入れれば二回)の諏訪湖の花火大会の時は、諏訪湖の西側から高速へ乗るのには確かに便利になるかもしれません。しかし、これまでの事業費は総額97億円だそうですが、ここまでして地元自治体も負担してスマートICを設ける必要があったのでしょうか(まぁ、合併効果という意味でその結果の是非は別として、「平成の大合併」では各自治体が自己主張ばかりで、県内で唯一合併が無かった諏訪広域ですので、今回のスマートICで岡谷市と諏訪市が連携したのであれば決して悪いことではありませんが・・・)。
そうであれば、もう諦めにも近いJR中央線の上諏訪~下諏訪エリアの複線化と、諏訪湖側にも改札口を設けるなどしての、このエリアで一番みすぼらしく感じる上諏訪駅の改築と駅周辺の活性化に資金を投じた方が良いのではないかと、諏訪に本社がある会社にお世話になり且つ数年間とはいえ諏訪の社宅にも暮らした身からすると、生粋の“諏訪人”からすれば要らぬお節介と言われるかもしれませんが、個人的には真剣にそう思うのです。
ましてや、例えそれが“棚ぼた”であれ、二年後の朝ドラ「巡るスワン」の舞台として願っても無いチャンスが“降って来た”のですから、だからこそ余計それを諏訪の地域活性化への起爆剤にして、少なくとも一過性に終わらぬ様にと・・・。

 先日、高校卒業50周年の記念式典とパーティーがあり、友人と待ち合わせて参加して来ました。我々が卒業したのは昭和50年、1975年になります。

 その前に希望者の校内ツアーがあり、我々が高校生だった頃の建物は、現在国の有形登録文化財に指定されている、安田講堂を模した第一棟と講堂しか今は残っていないのですが、長女の高校時代の文化祭と、その当時の教頭先生に頼まれて高校の評議員を務めた時以来で、久し振りに校内に入ってみることにしました。
屋上に立派な天文台を備えた第二棟の校舎など25年前に新築された建物群には立派な体育館もあり、当時バレー部の練習で低い天井の梁に当たらぬ様にトスをしていた東・西体育館や汚い部室(今がキレイかは不明)、そして高校生活最後の文化祭に向けて音楽部で毎日合唱の練習をした音楽室の姿は、今では記憶の中にしか残っていませんでした。
因みに、昭和初期の旧制中学時代にこの深志ヶ丘に移転するまでは松本城の二の丸に校舎と本丸には校庭があり、当時の生徒たちは休み時間にふざけて天守閣の屋根で逆立ちをしたりお堀で泳いだりしたとも伝わります。市川量造を始めとする市民の努力により維新後の廃城を免れたものの、当時荒廃していた松本城の修理を訴えて修理保存会を立ち上げ、その実行に導いたのは初代校長であった小林有也先生でした。そして高校の正面玄関の横に立つ先生の胸像が、「世の悪風に染むことなかれ」と、来年で創立150年を迎える今も生徒たちをしっかりと見守ってくれています。
そのツアーの中で、懐かしい講堂と一年生の時には晩年のクロが居て頭を撫でた一棟の中を歩き、それこそ高校時代以来だった一棟の屋上にも上ってみました。
ここは、入学して間もなく、放課後新入生全員が屋上に集められて、応援団に依る応援練習が行われた、高校入学して初めての“行事”のそれこそ鮮烈な思い出の場所なのです。
卒業30周年の時はまだ会社勤めだったので、何か都合がつかずに参加出来ませんでした。ですので、今回会う同期の友人の多くは、それこそ半世紀ぶりに顔を合わせた友人で、風貌こそお互いに変わってはいても、他人事でなく自分も昨日何を食べたかの献立は思い出せなくても、お互い名前を確認し合うと一瞬にして時空を超えて、「お前、そういえばあの時にさぁ・・・」と50年前のことは不思議と覚えているのです。

 そして、この校舎の屋上に立って松本の市街地を眺めて思い出すのは、飲兵衛のバイブル「居酒屋百名山」などで私淑する高校の大先輩でもある太田和彦氏が、「ニッポン居酒屋放浪記 立志編」の中の「松本の塩イカに望郷つのり」の文中で曰く・・・、
『母校深志高校へ行ってみることにした。
下駄ばきで高台の坂を登り通学した三年間は忘れ難い青春だ。バンカラで自由な校風は、山奥の中学の洟タレ小僧だった自分を大きく成長させた。(中略)
屋上へ上った。眼下には松本平が一望できる。今日はよく晴れて乗鞍岳や遠く南アルプスも見える。あの先が東京だ。いつかはこの町を出るんだと、自分の将来を考えながらここに立っていた日々を思い出した。(後略)』
『青春時代を過ごした信州松本は、充実した三年間だったが、上京してからは信州的なものがすっかり嫌になった。井の中の蛙が大海に出たのだろう。そして三十年、今松本の酒場を訪ねてきた。冷やかしてやれという気分で歩きまわるうち、いつしかそれは消えていった。
私の好きな古い町並みや建物は松本によく残っていた。知らない地方都市に
へ行かなくても足元に在ったのだ。三十年の歳月が故郷を見る目を温かくさせているのかもしれない。誰でも若い時は自分の故郷は恥ずかしいものだ。脱皮してみてそれが判る。故郷に反撥してその気風を疎んだのは、昔の自分がそこに在ったからだ。松本はいい町だと今は自信をもって言える。(後略)』
と、正しく太田和彦氏が書いたのと半世紀前は私自身も同じ心境だったのです。

 しかし、私が太田和彦氏とその後の置かれた立場が少々違うのは、それは私自身が本ブログの2009年の第40話「ふるさとは・・・」の中で書いたのですが・・・、
『 犀星が、青年期に「美しき川は流れたり。そのほとりに我は住みぬ」と誇らしげに謳いながら、後年「ふるさとは遠きにありて思うもの・・・(中略)帰るところにあるまじや」と(反語的であれ)自分自身に対し、突き放さざるを得なかった「ふるさと」。
 誰しも、高校生の頃は、山に囲まれた「何も無い(と思えた)ふるさと」から、山の向こうにあるであろう可能性という「無限に拡がる世界(都会)」へ憧れて、希望を胸に故郷を後にして都会へ出て行く・・・のではないでしょうか。
私も、自身の決断(幼い頃から、今は亡き祖母から事ある度に「お前は帰って来るだでな!」と「帰るべき」を深層心理にまで埋め込まれた結果)とはいえ、“都会”から故郷である“田舎”の松本に帰ってきて暫くは、何か仕事などで面白くないことがあったり、一方で都会の華やかさの中で活き活きとしている友人を見るにつけ、とかく他責で自身の不満を「家」を含めた故郷「松本」のせいにしていたような気がします。
 そんな折(四半世紀以上も前)、ふとしたことで手にとったエッセイ(筆者は失念。そんな有名な方ではなく、その本も全国の特徴ある地方都市を紹介する紀行文だったような)の中で「信州松本」が取り上げられていて、「(松本城に代表される)歴史や文化があり、北アルプスの峰々に抱かれたこんな街で、○○銀行や△△社に就職し、休日に「まるも」で珈琲を飲みながら(山を仰ぎ見て)暮らせる松本の人たちは幸せだ。」という趣旨だったように記憶しています(おそらく市内を散策した後、「まるも」で珈琲を飲みながらその原稿を書いているのではと思われるような文章でした)。
そして、今もその時の心象風景が鮮やかに甦ってくるのは、本当に冗談のようですが、まさに自分自身がその△△社に勤務(もし長野県にUターンするとしたら、県か市の公務員か、民間だと当時はその2社くらいしか実際に新卒採用はありませんでした)し、クラシック音楽の流れる、まさしくその「まるも」で休日に一人コーヒーを飲みながら、その本を偶然手にしていたのです。
ですので、「そうか・・・、そうなんだよなぁ!」と甚く自身に合点が行き、(それまでは故郷「松本」のせいにして逃げていた)その時の自分の心にその“納得”が深く静かに染み込んでいったのを、まるで昨日のことのように覚えています。
 娘達は、上は昨年東京で就職しましたし、下も東京の大学に進学し、卒業後はおそらく彼女も戻っては来ないでしょう。
私とは違って、子供の頃から海外でも暮らした彼等ですので、この狭い松本に縛られる必要もないと思います。
しかし、若い頃は「何も無い」と感ずる故郷ですが、それは都会に「今あるもの」の方が遥かに魅力的だから。でも、故郷に昔から「あった」ものがいつか見えてきた時に、帰るところがあることの幸せを、やがて(彼女等も)感ずる時がきっと来ると思います。後年(定年後でいいので)帰る故郷があり、それが(彼女等にとっては)この松本だった幸せを噛み締める日が。そして、その時は間違いなくもう居ないであろう親たちの暮らした痕跡を、この街でデジャヴュのようになぞる時が・・・。
そしてその時まで、彼女等にとってのふるさとは「遠きにありて思うもの」であってイイのだと思うのです。』
という、私自身の“松本”への懺悔の気持ちだったのだろうと思います。
 「あぁ、人様に誇れるような大きなことは何も無かったけど、そうは言っても色んな事があったなぁ・・・」
そんな想いが、一棟の校舎の屋上から嘗て自分も青春の頃に見た大好きな松本の街と山々を眺めながら、まさに半世紀・・・同じ様に歳月を重ねた友人たちの懐かしい横顔と共に、50年に亘る時間が走馬灯の様に頭の中を駆け巡ったのでありました。

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