カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

古代『科野』を想う(J)(B)
 最近、祥伝社から「信濃が語る古代氏族と天皇」という興味深い新書が発刊されました。早速購入したのですが、それを読む前に(誠に僭越ながら)以前書き留めておいた“自説”を展開させていただきたいと思います。
と言うのも、これまで松本、諏訪、富士見、上田と県内の事業所に異動をした中で、その地で見聞きし触れた地域の歴史。その中で、とりわけ興味をそそられたのが古代「科野」でした。
それをふまえた上で、その専門家の書いた本をじっくり読んでみたいと思います。果たして、この素人考えが軽く否定されるのか、或いはこれまで全く気が付かなかった新説や何か証拠が提示されるのか、信州人にとっては大いに興味があるところです。

 さて、これまで各地で得た知識から、勝手に想像する「古代科野国」(713年に編纂された「風土記」で初めて「科野」に代わって「信濃」という名称が登場)。
先ず、諏訪には諏訪大社があり、縄文時代からの土着信仰であるミシャグジと融合した出雲の神、建御名方命(上社の祭神タケミナカタノミコト。因みに下社は、妃神である八坂刀売命を祀る)。彼は大国主命の次男(母神は、古代も宝であった翡翠を産出する姫川に名を残すように、越の国のヒスイを司る奴奈川姫)で、出雲の国譲りに反対して古代ヤマト王朝に敗れて州羽(諏訪)の地に逃れ、この地から出ないことを条件に許されます。茅野には、その名も御社宮司(ミシャグウジ)社という祠があり、富士見には御射山(ミサヤマ)神社が鎮座しています。また、出雲のヤマタノオロチ伝説も、当時の最先端技術であったタタラ製鉄との関連が指摘されますが、諏訪の土着のモレヤ(洩矢)神はタケミナカタ(何故か武器は藤蔓)と戦う際に鉄製の武器を使ったと言う通り(何故か鉄の方が負けますが)、諏訪の蓼科高原には戦前まで鉄鉱山(諏訪鉄山)がありました。なお、タケミナカタを祀る上社の御神体は、本宮後方に聳える守屋山ともされます。またモレヤ神(御頭祭などの神事も)は、ユダヤとの関連(モリヤ山)も指摘されますが、それを言い出すと訳が分らなくなるので、ミステリー的で面白いのですが、ここではオミット(ま、いずれにしろ、ユダヤはともかく、日本列島だけを見ても、縄文時代も然りですが、現代の我々が想像する以上に、時間の尺度こそ違え、古代にも往来や交流が有り得たということでしょうね)。
その後の律令制が確立していく中で、諏訪の地は、一旦信濃国から諏訪国として独立し、その後僅か10年足らずで再度併合されますが、これは今でも“信州人”以外で諏訪地方だけが“諏訪人”とも称し称されるように、特異で独立心旺盛(嘗て諏訪人が5人いれば、3人は中小企業の社長と云われた)なことを見ても、当初、ヤマト政権に対するスワの民(出雲族)の抵抗が根底にあったのかもしれません(或いは、親出雲に対するヤマトの遠慮/配慮もあったのかもしれません)。
松本は、古代「束間」(ツカマ。後の筑摩)と呼ばれていて、束間の湯(今の美ヶ原温泉或いは浅間温泉とも)に天武天皇の行宮が置かれ、郊外の丘陵地中山地区(古墳群も存在)には朝廷の御料牧場(勅旨牧)である「埴原の牧」があり、全国32ヶ所の半分16ヶ所もあったという信濃の御料牧場を統括する役所である牧監庁が置かれていました。また。上田(小県の郡)から移された信濃国の国府と総社が置かれていたという事実(国府のあった場所は未だ特定されていませんが、惣社という地名が筑摩と浅間の中間辺りに残ります)。
松本以前に国府と国分寺(尼寺も)置かれた上田(小県の郡)は、ヤマト政権を支えた多氏が阿蘇から一族を率いて入植した古代科野でも早くから開けた場所でもあり、古安曽や古須波という地名が残っていたり、一方で科野国屈指の古社とされる国家創建の神が祭られる生島足島神社(ご神体は大地そのもの)があったり、そこには諏訪に至る前にタケミナカタが立ち寄ったという言い伝えがある通り、諏訪族の痕跡も認められます。
ただ、どちらかと言うと古代ヤマトを支えた多氏の一族でもある国造(クニノミヤツコ)他田(オサダ)氏(注記1)の痕跡も上田にはあり(上田市下之郷には40基を数えるという下之郷古墳群があり、その一つが「いにしえの丘公園」の他田塚古墳)、上社の諏訪氏と覇権を争った下社の金刺氏も他田一族であり、親ヤマトの地でしょうか。
そして安曇平(臼井吉見の小説の題名で、初めて「安曇野」という呼び名が定着)は、ヤマトを支えた渡来人の海洋族で、奴国を本拠とした安曇族の拠点(穂高神社)。海洋族であれば、船を操って、信濃川からその支流である犀川を遡り、現在の安曇まで来ることも容易かったでありましょう。また波田町は、その後渡来(応神天皇の代とされる)した技術者集団である秦(ハタ)氏(平安京造営のスポンサーで、太秦にその名を残す。全国で治水や殖産のための技術指導を行ったとされる)との関連も伺えます。

 考古学的には、青森の三内丸山遺跡同様、当時は温暖だった八ヶ岳山麓一帯は縄文王国と呼ばれるように、井戸尻や尖石などの縄文時代の大遺跡群が幾つも発見されており、また近くの和田峠から霧ケ峰一帯は、その“王国”を成立させた、日本でも有数の黒曜石の産地でした(注記2)。
また古墳時代前期の前方後方墳は、東日本最古級とされる古墳(弘法山古墳)が松本にあり、一方後期の古代ヤマトとの関連が強いとされる前方後円墳は善光寺平の更埴(東日本最大級と言われる森将軍塚古墳で、科野国に大和政権から最初に任命された国造である建五百建命の墓ではないかとの説があるとのこと)や南部の飯田地方に点在しています。

 こうして幾つかの事実や伝承を並べると、元々諏訪を中心に古代ヤマトに敗れた出雲族の親王国が(おそらく、古代の“表日本”だった出雲から海岸沿いに越の国を経て、信濃川の水運で往来可能な)古代科野にあったのが、それと対峙すべく、おそらく同様にヤマト発祥の地である北九州から日本海沿いに信濃川を遡り、善光寺平を経て小県郡にヤマト政権の一族が派遣されて拠点を作り、また監視役として安曇にも拠点が置かれて、その後ヤマト政権の支配が進む中で、諏訪により近い松本(束間)に信濃における大和朝廷の拠点が移されたのではないでしょうか。
そして、律令国家の成熟とともに信濃は大和政権下で東国支配(古代官道である東山道の碓氷峠から東は坂東と呼ばれた)の前線としての重要性を次第に増し、しかも天武天皇崩御により幻に終わりますが、天武天皇は都を遠く離れた束間に移すための調査まで行わせたと云います。

 みすずかる古代信濃は、大いなるロマンを感じさせてくれます。

【注記1】
万葉集の有名な防人歌(4401)である、
『唐衣 袖に取りつき泣く子らを 置きてそ来ぬや 母(おも)なしにして』
の作者として名を残す他田舎人大嶋(オサダノトネリオオシマ)も他田氏。
信濃国小県(チイサガタ)から防人として九州に(一兵卒ではなく、隊長等の上官として)派遣された国造舎人(地方の役人)とされる。
【注記2】
小県郡長和町(旧和田村と長門町が合併)の星糞峠には、縄文時代の黒曜石採掘跡が200基ほど発見されて国の指定遺跡(黒曜石原産地遺跡)になっており、今でも黒曜石の破片が一帯に散らばっているとのこと。その欠片を星屑の様に「星糞」(字面はともかく、何だかロマンチックですね)と呼んだことに由来。日本で唯一という明治大学黒曜石研究センター(現地の遺跡発掘も担当)や黒曜石体験ミュージアムが在る。
因みに、青森県の三内丸山遺跡で発掘された石器の中に、成分分析の結果、(姫川流域で産出される翡翠と同様に)和田峠一帯で採掘された黒曜石が含まれていることが判明し、縄文の人々の(仮に、直接的ではなく、近くの村と村との物々交換が集積された結果にせよ)広範囲な交流(交易)の一端が明らかになった。