カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 落語「時そば」の中に、噺家によっては、
 「俺ぁ、自慢じゃねぇが、そばっ食いなんだヨォ。 わざわざ、ナガサカまで、食いに行こうってんだ、本当だぜぇ。」
と、「ながさか」に行くことが蕎麦通の代名詞であるという件を入れることがあります。
その「ながさか」・・・私メは、てっきり長坂(山梨県)だと思い、
 「そんな昔(江戸時代)から長坂は蕎麦で有名だったの?」とか、
 「そんな昔から蕎麦好きはわざわざ長坂までソバを食べにいっていたのか?」
もしくは、
 「まさか、さり気無く現代の長坂翁を蕎麦好きの代表として話の中に盛り込んだのか・・・?」
・・・などと勝手に色々考えていました。

 ところが、実際は“とんでもハップン!”で、全くの勘違い・・・でした。
「時そば」に出て来るその「ながさか」は、長坂ではなく永坂で、
『麻布永坂下にある、麻布十番の永坂更科と言う蕎麦屋の老舗。旨いが量が少なく高いと評判? 大田蜀山人も狂歌の中でその様に言っている。一文かすり取るような男に、ちょくちょく行けるような店ではなかった。 都内に有名と言われる蕎麦屋が何軒か有るが、同じように高い。その上量が少なく、ザルだと一箸入れるともう下のスノコが見えて、女性でも二枚(二人前)食べないと腹一杯にならない程である。当時は主食と言うより、お八つ代わりに食べられていたようだ。』
とのこと。
更にWikipediaに依れば、その由来は、
『1789年(寛政元年) - 信州出身の八代目堀井清右衛門(現・「更科堀井」初代布屋太兵衛)は、「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業した。堀井家は、信州高遠の保科松平家の御用布屋で、信州特産の晒布を背負って保科家の江戸屋敷に出入していた。初代は堀井清助(布屋太兵衛)といい、江戸では麻布1番通り竹屋町にあった保科家屋敷内の長屋に滞在を許されていた。堀井清助は、1693年(元禄6年)の秋ここで世を去った。八代目堀井清右衛門のとき、領主保科兵部少輔から、そば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂町の三田稲荷(高稲荷)下に「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」の看板を掲げた。』
とのこと。永坂というのは、更科、藪、砂場の江戸三大蕎麦の一つだったのです。
 因みに、名君と云われた初代会津藩主保科正之公は、家光とは異母兄弟で、信州高遠藩に預けられたことから、会津にも高遠から蕎麦職人を連れて行き、それが会津名物の高遠蕎麦になった由。同様に、松江の「出雲蕎麦」は信州松本から松江に移動した松平直正公が松本から蕎麦職人を連れて行ったことに依りますし、出石蕎麦は上田藩主の仙石氏が同じ様に上田から蕎麦職人を連れていったことに拠るのだそうで、各地に信州縁の蕎麦処が誕生しています。

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