カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 コロナ禍により、色々なイベントの中止が余儀なくされています。
スポーツ大会に限らず、例えば合唱や吹奏楽のコンクールなどの文化的行事も“密”を避けられないとのことから開催が中止されています。
個人的に一番心を痛めたのは、殆どの子供たちが一生続ける訳ではない中で、もしかすると競技人生の集大成となったであろうインターハイに始まる高校生たちの大会中止でした。

 それは、前述の合唱や吹奏楽、はたまた書道といったサークル活動の全国大会も同様ですが、スポーツに関して言えば新学期前の春の新人戦、夏のインターハイ、そして最後となる国体というスケジュールになります。インターハイが無くなっても、国体、或いは競技によっては、例えばサッカーの様に新春やバレーの“春高”など、秋以降に行われる大会もあり、まだ“全国への道”が閉ざされた訳ではありませんが、多くの高校生アスリート諸君が目指していたであろうインターハイが無くなったのは、彼等にとって大きな挫折であったろうと推測します。
というのも、我々もそうでしたが、受験を控えた3年生にとってインターハイが引退となる最後の大会だったからです。従って、地区予選、県大会と続くトーナメントで負ければそれで終わり。自身にとってのスポーツ人生の終了を意味します。
全員がトップアスリートとして競技を続けられる訳ではなく、殆どの選手諸君が高校生でその競技人生を終える中で、それがコロナ禍により、捲土重来を期してまた来年ではなく、そのケジメの機会をある意味永遠に奪われたのです。
そうした中で、世論に押されるように、高校野球は全国で都道府県大会が行われ、また中止になった選抜大会出場チームは1試合だけとはいえ、高校野球の聖地“甲子園”で試合をすることが許されました。
高校野球は高体連ではなく、高野連という別組織に属しています。しかし、組織が違うからと言って、同じ高校生スポーツが異なる扱いになって良いのでしょうか。
長野県大会では、2年ぶりに佐久長聖高校が優勝しました。甲子園の無い特別な夏の大会だったこともありますが、例年県内で最多の選手数を抱える佐久長聖は3年生部員が52名とか。今年は特別な大会だったとはいえ、藤原監督は今年の県大会は3年生だけで臨むことを決断し、しかも決勝までに52名全員を試合に出場させたのだそうです。強豪校の佐久長聖故、大学などでまだ競技を続ける選手もいるでしょうが(例えば、長聖出身で東北福祉大の元山飛優選手は学生野球の日本代表ショートで、同じく代表で4番を務めた二塁手の松本第一出身の中央大牧秀悟選手と共に、今年のドラフト上位候補です)、中には高校で野球人選を終える子もいるであろう3年生諸君にとっては、例え甲子園は無くとも“大いなる区切り”になっただろうと思います。

 以前朝日新聞現編集委員をされていた西村欣也さんの書かれた記事(『記者有論』)で、2002年にミスターこと長嶋茂雄さんと一緒に夏の甲子園大会決勝を観戦した時の長嶋さんの言葉(第333話参照)。それは、
『このトーナメントではね、優勝チーム以外の全ての球児にただ一度ずつの敗戦が配られるんです。甲子園の決勝でも、地方大会の一回戦でも、ただ一度の敗戦が、野球の神様から配られているんです。壮大なトーナメントの、大きな意義がそこにあると思うんです。つまずくことで得るものが、若者にはきっとある。』
今年は、夏の甲子園大会が中止となったので、各都道府県大会の優勝校47校以外にただ一度の敗戦が配られたことになります。46校は本来あるべき敗戦を知らずに終えたことにはなるかもしれません。しかし、少なくともその他の高校生諸君には、平等に“つまづき”の機会は与えられた。野球をやっている高校生諸君だけが、競技人生に区切りをつける機会を与えてもらったからです。

 しかし・・・、高校野球だけが“特別”か・・・?

 私は、中学から高校までバレーボールをしていました。例え一流アスリートではなくとも、スポーツをやっていた人間の一人として、スポーツ、団体競技の意義は多少は理解しているつもりです。
バレーボールは“春高”が無観客で行われると報道されていますが、大学や実業団でも競技を続けるような選手はともかく、一般の人間は最終学年の3月まで続ける訳もなく、通常は長くても国体まで。また、おそらく進学校はインターハイで3年生は引退するので、実質最後の試合をせずに引退を余儀なくされた子供たちが多かろうと思います。
そうした中で行われた高校野球の夏の県大会や甲子園の交流試合。人気や歴史、また大人たちの世界の思惑はともかく、同じ高校生たちが一生懸命頑張っている色々なスポーツの中で、果たして高校野球だけが特別なのでしょうか?
そんな気持ちもあって、少なくとも甲子園の交流試合は一試合もTV観戦をしませんでした。

 競技によっては、柔道やレスリングの様にある意味“密”状態で接触しなければ成立しえないものもありますが、例えば相手とは“ソーシャルディスタンス”?で距離を保って対面する、テニスやバドミントンの様な競技もあります。
コロナ禍でただでさえ授業時間が足りない中で、お盆も過ぎた今となっては、“時、既に遅し”ではありますが、野球が出来たのであれば、他の競技もせめて県やブロックレベルであっても開催出来なかったかどうか、組織としての一律横並びではなく、競技団体毎に対応が例え異なったとしても、子供たちの競技人生に一つの“区切り”をつけさせてあげられる工夫が何かあっても良かったのではないか・・・そう思えてなりません。

 甲子園の高校野球だけが特別でなくて良い。全ての競技に“甲子園”がある筈です。

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