カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 京都観光での最終日。この日は清水寺へ向かいます。
清水寺は謂わずと知れた京都観光のメッカ。さすがに、これまでの場所と違い季節は無関係の様で、円山公園を抜けて八坂の塔から清水の二年坂、産寧坂と歩を進めると、外国からの観光客を中心に修学旅行なのか制服を着た学生さんなど、狭い道は人でごった返していました。
しかも多くの女性や若いカップルの皆さんは(日本の)着物を着て、盛んにポーズを作って写真撮影をされています。しかし、着ている着物が今まで良く見た色褪せた浴衣の様に原色がくすんで安っぽくて派手な、“大人の”(≒要するにシニアの)日本人からすると如何にも“チープな着物”でないのは良いとしても、妙に白っぽくて、夏ならともかくこの真冬にスケスケの薄手のレースの様な生地の着物を着ている子たちがたくさんいるのです(特に外国の方は着物の種類など分からないでしょうから、そんな着物を選ばせる貸衣装店の神経を疑います。貸す方も借りる方も、“安かろう悪かろう”でお互いが納得していれば、それはそれで良いのかもしれませんが・・・)。
ただ、レースの様な、夏なら涼しそうな着物を着て得意満面、嬉しそうに四条河原町などを歩く若い女性たちを見ていると何だか可哀想で、この冬空に見ているこちらの方がむしろ寒くないのだろうかと心配してしまいます。
ですので、八坂から四条通を祇園方面に歩いていて、時折その季節に相応しい柄で(見るからに違いが明かな)本当に品の良い着物を召された芸事の稽古に行かれる芸子さんか、或いは商家の女将さんか、 そうした“ホンモノ”の着物を見て何となく「こうでなきゃ・・・」と小さく溜息をつきながら、行き交う人知れずに合点して自然と頷いてしまう自分がいます。

 さて、清水の三年坂を「産寧坂」とも記すのは、一説には清水寺の塔頭寺院の「子安塔」に安産信仰があり、“産(生み)寧(やすき)坂”と呼ばれたからと云われるのだそうです。また、秀吉の正室「ねね」が近くに住居を構え、無事に元気な子どもが生まれることを願ってこの坂を上がり清水寺にお参りしていたということから、安産を願う文字を当て嵌めて「産寧坂(さんねんざか)」と呼ばれるようになり、その下の坂を「二年坂(二寧坂)」、さらにその下にある坂を「一年坂(一念坂)」と呼ぶようになったとも伝えられているのだそうです。その北政所「ねね」の菩提寺でもある「高台寺」もすぐ近くです。
この産寧坂を歩いていると「清水三年坂美術館」という看板が目に入ります。この「清水三年坂美術館」は2000年に開館した私立美術館で、幕末・明治の金工、七宝、蒔絵、薩摩焼を常設展示する日本で初めての美術館。
何度かTVの「鑑定団」でもこの美術館の所蔵する“超絶技巧”の作品が参考として取り上げてられたことがあってその名を知り、いつか一度行ってみたいと思っていました。
この「清水三年坂美術館」は私設の美術館ですが、現在館長を務める村田理如氏(まさゆき。ご尊父は村田製作所創業者の故村田昭 氏)がNY 出張の折に、現地のアンティークショップで見た繊細で美しい作りの日本の「印籠」に目を奪われたことをきっかけに、私費で収集した江戸の幕末から明治期に掛けての我が国の“超絶技巧”の優れた工芸技術の作品のコレクションを日本の人たちに見てもらいたいという熱意で開設した私立美術館なのだそうです。
今回は残念ながら時間が取れませんでしたが、次回は必ず(多分一人だろうなぁ・・・?)見に来たいと思います。
 家内は、今回清水寺の境内にある「地主神社」へ娘たちためにお参りをしたかったそうですが、残念ながら改築工事中で神社には参拝出来ず、神社の階段下から遠目にお参りをさせていただきました。
地主神社は清水寺の境内故、清水寺への拝観料払わないと参拝出来ないのですが、だったら受付で「地主神社は改装中で参拝出来ません」と書いておけばイイのに・・・と思わなくも無いのですが・・・。
以前、清水寺も拝観料への課税問題で京都市とケンカした、或る意味本来の宗教とは対極の筈の“俗世の生臭い”事件でしたので、年末の「今年の世相を表す漢字」報道などに惑わされず、飽くまで清水さんは“観光で生きる寺”なんだと思えばイイ・・・個人的にこのお寺さんに対してはどうしてもそんな思いが拭えないのです。
因みに、清水寺の宗派は余り耳慣れない「北法相宗」で、本来は開創以来、平安遷都以前からの古い宗派である奈良仏教の法相宗を宗旨とし、中世・近世において、清水寺は法相宗大本山の奈良興福寺の末寺だったのが、つい最近の1965年に先述の“世相の漢字”で有名だった、時の大西良慶住職が北法相宗を立宗して法相宗から独立し、清水寺は北法相宗の本山になったのだそうです。
その「北法相宗」・・・我が家は浄土宗ですし、然程熱心な仏教徒でも無いので、仏教の歴史経過とその主導権争いや対立などを含め、清水寺の宗派「北法相宗」なるものは良く分かりませんが、このお寺さんに来る度に、どうしても、1985年「目的は寺社などの古都遺産を守るため」として、当時の今川京都市長が創設を試みた「京都市内の寺社へ支払う拝観料に対して課税するという」という「古都税」に対し、『1985(昭和60)年12月5日、京都市の「古都保存協力税」に反対する清水寺など12寺院(当時の新聞記事に拠ると、清水寺、金閣寺、銀閣寺、三千院、曼殊院、青蓮院、泉涌寺、東福寺、随心院、二尊院、広隆寺、蓮華寺とのこと)が、拝観者を締め出す拝観停止に踏み切った』という記憶が、どうしても思い出されてならないのです。
(信長と延暦寺、戦国大名と一向宗の対立を考えれば、いつの世も時の政権と対立する宗教が存在していたのかもしれませんが、“世界平和”のお題目とは程遠い・・・)。
その結果、それ以降も拝観する観光客で賑わう清水寺を見ると(決して清水寺だけでは無いのですが)どうしても本来の仏教精神普及よりも拝観料を払う参拝者が一人でも多ければ良いのかと、例え不謹慎と云われても、生来のひねくれ者故にその疑念がどうしても拭い去れません。
 そんな“俗世”の清水寺本体からは早々に引き上げて、今回の目的である「京都 冬の特別公開」の一つである清水寺塔頭「成就院」へ」回ることにしました。
「成就院」は清水寺本堂の北側の奥まった所に本坊でもある「成就院」があり、その庭園が「月の庭」として国の名勝に指定されています。
「成就院」は応仁の乱で焼けた清水寺を再興した願阿上人によって創建され、以降今に至る本願職の住居も兼ねているとのこと。従って「今でも住まわれている現役の住居であるため、今回の冬の特別公開でも、外の庭も含め一切撮影厳禁」の由。
拝観者をグループにまとめ、説明員の方が説明をしてくださいました。
現在の建物は江戸時代寛永年間の再建で、「月の庭」は江戸時代の名人と云われる相阿弥が作庭し小堀遠州が補修したとも、また俳諧の祖と云われる松永貞徳の作とも伝えられているそうです。
室内からはギヤマンのガラス戸越に庭が眺められるのですが、このガラスは現在では制作不能のため、絶対に近付かない様にとの注意。
成就院の説明書きに依れば、
『四季折々の表情をみせる高台寺山を借景とした庭園は別名「月の庭」と呼ばれ、京都を代表する名庭として知られています。夜空を渡る月が池面に映るさまは古くから人々を魅了し、その美しさが語り継がれてきました。
京都には、雪月花の三庭苑と称された妙満寺「雪の庭」、清水寺成就院「月の庭」、北野天満宮「花の庭」がありましたが、2022年1月に北野天満宮で花の庭が約150年ぶりに再興され、3月には妙満寺の雪の庭が大きく改修されました。』
そこで、久々に雪月花の三庭苑が揃ったことを記念して、今回の特別公開となったとのことでした。
因みに、この庭からは昇る月は山に隠れて見えないのだとか。「月の庭」は庭の池に映る天の月を愛でる庭なのだそうです。
しかし、それにしてもせめて外の庭の写真くらい撮らせてくれても良いのにと思います。結局、ひねくれ者故に「これも清水寺故なのか?」と穿った見方をしてしまいそうです。
 帰路、清水寺に戻る道の脇に、たくさんの石の仏様たちが並んでいる場所がありました。そこは「千体石仏群」と呼ばれ、地蔵菩薩や観音菩薩、阿弥陀如来、釈迦如来などの石仏が立ち並んでいて、石仏の一部は嘗て京都の各町内に祀られていたお地蔵さまなのだとか。
明治の廃仏毀釈の際に、破壊を避けるために各町内の人々によって清水寺へと運び込まれ、現在も有志の方々が毎年前垂れを掛け替えているのだそうです。
柔和で穏やかな石の仏さまを眺めていると、この清水寺が廃仏毀釈の嵐から京の街の仏さまたちを守ったと知り、ちょっぴり見直して先述の認識を少々改めた次第・・・。
 清水から下り昼食を食べてから岡崎への帰路、事前に予約をしてあったホテルの近くにある「無鄰菴」に初めて寄ってみました。H/Pに依ると、
『無鄰菴は、明治27年(1894)~29(1896)年に造営された明治・大正時代の政治家山縣有朋の別荘です。
庭園と母屋・洋館・茶室の3つの建物によって構成されており、庭園は施主山縣有朋の指示に基づいて、七代目小川治兵衛により作庭された近代日本庭園の傑作とされています。それまでの池を海に、岩を島に見立てる象徴主義的な庭園から、里山の風景や小川そのもののような躍動的な流れをもつ自然主義的な新しい庭園観により造営されました。
南禅寺界隈別荘群の中で唯一通年公開されている庭園で、昭和26年(1951年)に国の名勝に指定されています。
洋館の2階には、日露開戦に向けて対ロシア外交方針を決めるために、伊藤博文、小村壽太郎、桂太郎、そして山縣有朋が集まり話し合った「無鄰菴会議」に使われた部屋があり、当日の様子を今に伝えます。』
とのこと。
この無鄰菴は1941年に寄贈されて京都市の所有となり、現在は作庭した小川治兵衛ゆかりの老舗造園会社という、地元京都の「植彌加藤造園」が指定管理者として庭の管理や運営をしているのだそうです。
通常の入園料は600円ですが、最初から無鄰菴で休憩という目的で予約してありましたので、喫茶付き入場券1600円を購入。これは飲み物とスイーツのセットで、且つ希望者への無鄰菴の歴史やエピソードと庭の鑑賞のために作庭のポイントの解説付きです。我々夫婦二人だけでその説明を頂いてから母屋の座敷に移り、庭を眺めながら「カフェ」で飲み物とスイーツを頂きました。
奥さまはお抹茶と無鄰菴オリジナルというどら焼き、私メはスパークリングワインとピスタチオをチョイス。歩いた疲れを癒しながらノンビリと、決して広くはありませんが東山を借景に(元勲と称された時の権力者故に可能であった筈の)琵琶湖疎水から水を引いた小川の流れという、確かに枯山水の“静の庭”とは趣の異なる、維新後の激動の時代を見て来たであろう“動の庭”を暫し眺めていました。

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