カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 いくら東京滞在とはいえ我々は年金生活者ですし、娘のマンションにはキッチン設備がありますから、滞在中は出来るだけ自分たちで調理して、せめてテイクアウトして食べる(お酒も外で飲むと高いので)くらいにして、せいぜい外食はお得なランチタイム中心で済ませることにしました。
しかし、そうは言ってもせっかくの“美食の街”東京ですから、夕食も含めて何度かは食べに行ったのですが、外食で二人で食べたのは結果的に全てエスニック中心で、しかもAsian Food ばかり(日本食も一応アジアですので・・・)でした(“食の都”シンガポールへの赴任経験が、そこで幼少期を過ごした娘たちも含め、我が家の“食の世界”を拡げてくれました)。

 私たちがシンガポールへ赴任したのはちょうど次女が生まれた年でしたが、7年間シンガポール生活を経験した我々家族にとって本当に嬉しいことに、帰任した当時は日本では名前すら存在しなかったシンガポールのローカルフードが、Asian Foodで云えばインド、タイやベトナムと同じ様に、ここ15年くらいの間に“シンガポール料理”という名称で一つの料理ジャンルとして認識され、東京では随分それを名乗る店が増えました。ただタイ料理の様に、信州の様な地方でも食べることが出来る程にはまだポピュラーでは無いので、地方在住者である我々夫婦は上京した時に“シンガポール料理”を楽しむしかありません。

 そこで、今回のAsian Foodの先ず一回目は、どこか近間で夕食をと、マンションから程近い麻布台から六本木に向かう道路沿い、六本木の飯倉片町の小さなビルの二階に在る「オリエンタルカフェ&レストラン」というシンガポール料理店です。
この「オリエンタルカフェ」という店は割と新しいお店の様ですが、家内と娘たちは前に行ったことがあるそうで、シンガポール出身のご家族が営むレストランとのこと。

今回頼んだのは、シンガポール・チキンライスとフライド・ホッケンミー。そしてチリカンコン(メニュー表記はサンバル・カンコン。空心菜のサンバルソース炒めですが、現地程辛くありませんでした)。他に付け合わせにアチャー(シンガポールのピクルスとのことですが、赴任中に馴染みは無く、どうやらプラナカン文化のニョニャ料理の様です)。
それだったらと、私メもビールのつまみ用にグリーンチリもと頼んだのですが、説明してもスタッフの皆さんにはなかなか理解されず・・・。暫くすると、奥さんが漸く「アッ、ワカッタヨー!」と言って持って来てくれました。そう、コレコレ!青唐辛子の酢漬けです。このグリーンチリに限らず、オープンエアの屋台やシーフードセンターで汗を拭きながら食べるチリクラブなどの辛い料理が、赤道直下のシンガポールの暑さを忘れさせてくれるのでした。
こちらのチキンライスは「現地より美味しいヨ!」と相当自信があるようでしたし、確かにどの料理も決して不味くは無い。イチオシのチキンライスは、肝となるソースも、ジンジャー、チリ、ブラックソイソースとちゃんと三種類で基本通りホンモノですし、チキンの煮汁で炊いたタイ米のご飯も美味しかったのですが、うーん、でも何となく現地で食べた味ではない。特にホッケンミーはチョット違うなぁ・・・。
残念ながら、日本人の舌に合わせようと工夫すると、逆に現地の味からはどうしても離れてしまいます。日本人向けのエスニック料理としては(日本人のお客さんに食べてもらうためには)これはこれで良いのかもしれませんが・・・。でも、神谷町と比べこの界隈にはレストランが少ないので(麻布台ヒルズが今秋オープンすれば変わるかもしれませんが)、その後三組ほど会社帰りの皆さんが来られたので結構繁盛しているのかもしれません。
でも、「オリエンタルカフェ」の一生懸命工夫して少しアレンジされたシンガポール料理に何だか逆に不満が高じ、どうしても本来の“現地の味”が食べたくなって、私メの今までの記憶の中で一番それに近かった田町の『威南記(ウィー・ナム・キー)』へ、後日ウォーキングがてら麻布台から三田経由で歩いてランチに行くことにしました。
この「ウィー・ナム・キー」は、シンガポールでチキンライスでは今一番の人気店とのこと。1989年に家族経営の小さな店として誕生したそうですが、1987年から7年間赴任していた間には一度も耳にしたことはありませんでしたが、その評判を聞いて7年前に一度次女と三人で食べに行っていました。
 中国海南島出身の移民たちが伝え、今や“シンガポール料理”の代名詞となった“シンガポール・チキンライス(Hainanese Chicken Rice ハイナンチーファン、海南鶏飯)”はあくまでローカルフード(東南アジア各地に中国から移民したので、タイにも「カオマンガイ」というシンガポールのそれとはタレが異なるチキンライスがあります)なので、島中のどこでも、HDBの団地のレストランやホーカーセンターの屋台で十分安くて美味しいチキンライスが食べられるのですが、中には中国語しか通じない(それも出身によって、福建語などの方言の)屋台もあるので、ローカルのスタッフと一緒に行って頼んでもらうか、或いは屋台よりは3倍近く高くなりますがオーチャードのマンダリンホテルのカフェテリア「チャターボックス Chatterbox 」で食べるか・・・。
従って、家族で行く時には屋台はちょっと無理なので、専ら「チャターボックス」一択でした。
その後、次女が航空会社に勤めていた時にファミリーチケットで家内と次女が二人でシンガポールに行って、その時にやはりチキンライスが懐かしくてチャターボックスに食べに行ったら、一階から上の階に格上げされ、フロア同様値段も当時より更に上がっていてビックリしたとか。但し、逆に味は昔よりも落ちていて、後で聞いて知ったのは、当時のシェフが独立してしまい、違う料理人に代わったからの由。
当時の赴任先の会社のオフィスがラッフルズ・プレイスのOUBセンターに在ったのですが、その地階の地下鉄MRTの駅に続くショッピングセンターに唯一の「チャターボックス」の支店があり、通常のランチタイムは順番待ちの人気で混むので避けていましたが、会社が半ドンとなる土曜日の午後はオフィス街が閑散となるため空いていたので、午後もオフィスで残業する日本人赴任者だけで土曜日のランチには必ず「チャターボックス」に食べに行きました。名物のチキンライスもですが、日本のカレーライスの様にタイ米のご飯の上に掛けて盛られたチキンカリーもお薦めで、骨付きモモ肉がホロホロで絶品でした(思い出すと、また食べたくなります)。
 今回7年ぶり二回目の「威南記(ウィー・ナム・キー)」。
12時前だったので、まだそれ程混んではいなくてすぐに座れ、天気も良かったので我々はテラス席をチョイス。ただランチタイムが始まると、あっという間に満席になりました。
今回も、私は前回食べたローストチキンヌードル(1500円)をチョイス。ここの現地風の極細麺は、他ではなかなか食べられません。家内も珍しく同じメニューを選択。家内曰く、ここのチキンは現地風じゃない(低温調理で赤味が残り、しかも骨が付いている)からとのこと。更に家内が追加で今回もアチャー、私メがタイガービールもオーダー。但し、シンガポールではどのチャイニーズレストランでも(たとえシャンパレスやレイガーデンなど、どんな高級店であっても)無料だった(しかも何度追加してもです!)グリーンチリ(青唐辛子の酢漬け)が300円とのことで頼むのを止めました。家内は「頼めばイイじゃない」と勧めてくれたのですが、300円が高いからではなく、たった5切れ程(メニューの写真では)のグリーンチリに、たとえ100円でもお金を払うという日本の“超高級”なシンガポール料理店が、いくら30年前とはいえシンガポールでの記憶からすると何だかバカバカしくて・・・。
そういえば、わが国で唯一のシンガポール政府公認という「シンガポール・シーフード・リパブリック」というシンガポール料理のレストランが品川に出来たと聞いて、15年ほど前、家族全員でシンガポールを懐かしんで食べに行ったのですが、シンガポールから空輸しているという蟹(マッド・クラブ)がグラム単位の量り売りされていたのにはビックリ。せっかくなので、現地を懐かしんで一応ブラックペッパーなどを食べましたが、現地ではチリクラブなどはホーカーセンターでも食べることが出来ましたから決してそんな高級料理ではありません。
グリーンチリは頼みませんでしたが、代わりにタイガービールは今回もしっかりとオーダーさせてもらいました。
シンガポールの定番、タイガービール。シンガポールには他にアンカービルというのもあって、こちらがラガーでタイガーはモルトビールだった筈。日本で飲めるのはシンガポール料理店だけですが、イヤ懐かしい!
当時、モルト100%ビールの美味しさに嵌まっていて、レストランでは地元のタイガービールでしたが、日系デパートのそごうで月一くらいだったか日本のビールが安く買える日があって、その時だけ買っていたのがサントリー・モルツ(“やってみなはれ”と、「純生」での事業参入当初、店頭販売で自ら先頭に立ったという佐治敬三社長悲願のビール事業。敬三氏亡き後も“苦節40数年”、漸く黒字化の“立役者”となった“プレモル”誕生の萌芽となったオールモルトビール)とサッポロのエビス(我が国のオールモルトビールの先駆者)。
そう云えば、現地のインターナショナルスクールに通っていた娘たちの誕生パーティーのBBQ(私メは専ら肉やソーセージを焼く役でしたが)で、ドイツ人のお母さんから「日本にもこんなに美味しいビールがあるんですか!」と絶賛されたのがエビスビールでした。
 さて、「ウィー・キム・キー」のローストチキンヌードル。麺(ミー)は、懐かしい現地の味で美味しかったのですが、ローストチキンの皮が現地の様にはパリパリしていなかったのが残念でした。現地の屋台(ホーカー)では、ローストならチキンではなくダックの方がむしろ一般的で美味しかった様な気がするのですが・・・。
ただ、固めに茹でられた極細麺(ドライミー)と少し甘目のタレ。そうです、この食感、この味です。この麺でワンタンミーやフィッシュボールヌードルも食べたいなぁ・・・。現地なら当時2~3ドルで食べられた様な・・・。帰国後のシンガポール出張で、帰国便搭乗前にチャンギ空港のフードコートでフィッシュボールヌードルを食べたのですが、安くて美味しくて、一緒だったメンバーにとても喜ばれました。
勿論北京ダックやフカヒレなどがウリの高級チャイニーズレストランもありますが、北京ダックは北京料理ですし、フカヒレは広東料理であって、“シンガポール料理”ではありません。また、中華風に調理されるチリクラブやブラックペッパークラブ、更には生きた海老を紹興酒で酔わせてから蒸すDrunken Prawn(要するに「エビの酒蒸し」。もし日本語メニューがあると直訳で「酔っ払いエビ」と書かれていました) などは如何にも南国シンガポールらしい料理なのですが、“シンガポール料理”とは呼ばれてはおらず、単にSea Food と言われていました。
 Singapore Food・・・シンガポールのローカルフードでは、シンガポール・チキンライスや中国からの移民の風習とマレー文化が融合して生まれたプラナカンのニョニャ料理。その代表格であるココナッツミルクのラクサや薬膳の肉骨茶のバクテーなどが日本でも知られつつありますが、現地では決してそれだけではありません。
ホッケンミー、チャー・クイ・ティアオ、フィッシュボール、ワンタンミーも本当に美味しかったのですが、日本ではポピュラーでは無い様で、まだ東京の“シンガポール料理”店で見掛けません。他にも、プラウンミーや熱々のクレイポット(土鍋料理)、そして屋台でしか食べられなかったオイスターオムレツもお薦めです。
中にはペーパーチキン(正しくは、というかメニューの英語表記はPaper Rapped Chicken)も今では外国人の間でもかなり有名になったらしく、日本でもその中に含めて紹介する旅行記事がありますが、これは嘗てポール・ボキューズが絶賛したという「ヒルマン」とその姉妹店「マンヒル」オリジナルの名物料理(他店ではメニューで見掛けたことはありません)で、もし他で真似していても他店のモノはホンモノではありません。
当時、会社で借りていた港の倉庫の近くに「マンヒル」があって、定期的なStock Check (棚卸)作業の後、ローカルのスタッフが連れて行ってくれて皆で食べて感激し、以降毎回作業後には「マンヒル」でPaper Rapped Chickenやクレイポットなどを食べるのが楽しみになりました。エアコンも無い庶民的な店でしたが、壁にはコック姿のポール・ボキューズのサイン入りのポスターが誇らし気に飾ってありました。しかし、当時は我々以外の日本人客は一度も見たことはありませんでした。因みに本店の「ヒルマン」にも赴任中に一二度ローカルのスタッフと一緒に行ったことがありますが、その時の我々以外の日本人客はJALのクルーの皆さんで、さすがは“現地通”と感心した次第。

 クーラーも無いオープンエアのホーカーセンターなどの屋台で食べる、安くて美味しいローカルフードこそが本来の“シンガポール料理”の特徴なのです。
もしこうした現地のローカルフードが日本でも(安く)食べられるようになったら、その時が本当に“シンガポール料理”というジャンルが日本でも定着したと言えるのかもしれません。
それまでは、ここ「ウィー・キム・キー」でこのミー(麺)を食べて、現地の味を思い出すしかなさそうです・・・。

 長女のマンションのある麻布台。毎日特別にすることも無い日は、せっかくですのでウォーキングも兼ねて周辺を散歩です。
近くでは、あべのハルカスを抜いて日本で一番高い330mのビル(JPタワー)になるという麻布台ヒルズが、今秋のオープンに向け最終工事の真っ最中。

朝6時を過ぎると、地下鉄の神谷町駅から現場に出勤する作業員の人たちが、まるでアリ行列の様に歩いて行きます。半数以上は外国の人たちの様で、建設現場に限りませんが、所謂3Kと呼ばれた職種は今外国人労働者に頼っている日本の現状が伺えます。しかし、一時期の急激な円安で日本が魅力的な出稼ぎ先では無くなってしまい、果たして予定通り建設工事は進むのかと他人事ながら心配になります。
そしてもう一つ。建設現場を見ていて気が付くのが、作業服を着た少し小柄でヘルメットからポニーテールが覗いている人が結構多いこと。建設工事の現場で働く女性の皆さんです。おそらく現場の作業員ではなく、多分建築関係のエンジニアか職人さんだろうと思います。
今この国はどこも人手不足なのですから、OL職などに留まらず、理系女子の範疇としてこうした現場へも、男性に伍して、例え力勝負では負けたとしても片や男性には無い女性の持つきめ細やかさや持続力などの特性や感性を活かして進出しているのを間近に拝見し、大いに頼もしく感じました。彼女たちの努力も勿論ですが、建設会社としても工事現場の女性用の更衣室やトイレの確保、或いは妊娠中の作業環境など色々な課題に対処された結果だろうと思います。娘を持つ親と云うこともありますが、元人事屋としてはガンバレ!と“リケジョ”の皆さんにエールを送りたくなりました。

 麻布台には、前にもご紹介した通り狸穴坂横にロシア大使館があって、現在の国際情勢を踏まえ24時間警察が警備を強化しているのですが(職務とはいえ、警察の皆さんも真意は複雑かもしれません。「ご苦労様です」と挨拶すると、「ありがとうございます!」と笑顔が返ってきます)、不思議なのは、ロシア大使館に隣接しているのがアメリカンクラブなのです。
穿った見方かもしれませんが、どう考えても米国が(建設した当時は)“スパイ天国日本”において、特に冷戦時代に攻守両面で隣接するこの場所に敵国を監視する目的で建てた(外交施設である大使館の方が優先されて、先に建設されたでしょうから)、としか考えられません。
そうしたキナ臭い話はともかくとして、そのロシア大使館とアメリカンクラブへ入る路地の行き止まりの所に、小さな空き地の様な草地があります。
好奇心旺盛故に気になって見に行ったところ、そこには記念碑が在って、読むと「日本経緯度原点」とありました。その説明書きに依れば、
『日本経緯度原点は、わが国の経度と緯度を決める基準となるものです。この原点の数値は、大正7(1918)年に文部省告示によって確定しましたが、平成13(2001)年の測量法改正で数値が改められ、さらに平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震の際の地殻変動により原点が東へ27cm移動したため「東経139度44分28秒8869、北緯35度39分29秒1572」に改正されました。この場所には、明治7(1874)年から海軍の観象台がありましたが、明治21年に内務省地理局天象台、東京帝国大学理科大学天象台と合併し、東京帝国大学付属東京天文台が置かれました。その後、東京天文台は大正12年に三鷹へ移転しましたが、この場所は、現在もわが国の地図測量の原点として利用されています。』
ここは、元々東京天文台があった地だったのです。今ではひっそりと都会の隅っこに忘れ去られた様に佇むこの“空き地”に、我が国の隠れた歴史を感じました。
 そして、東京タワー。
我々日本人にとっては、当たり前過ぎて珍しくも無い(子供の頃は憧れで、祖父に連れられて、初めての“お上りさん”の東京観光で登った様な記憶が・・・)かもしれませんが、今でも外国人観光客の皆さんにとっては、定番の観光スポット。散歩していると、朝からライトアップされる夜まで、東京タワーを見上げ、或いは背景に写真を撮る外国人観光客で周辺は賑わっています(斯く言う田舎からの“お上りさん”も、上を見上げて歩いています)。
5月ということで、この時期は、東京タワーの高さに因んで、333匹という色とりどりの鯉のぼりがタワーの足の麓に飾られていて、またGWのこの時期は、特別にレインボーカラーでライトアップがされていました。
 そして、日本で一番古い都市公園の一つという、明治6年開園の芝公園。
厳密には、都立芝公園、港区立芝公園、プリンス芝公園の三つのエリアに分かれているのだそうですが、財政豊かな東京都と港区故か、例えば頻繁に雑草などの草刈りがされているなど、羨ましい程に本当に良く整備、管理がされています。特にプリンスホテルと区立の芝公園は、芝生と花壇の手入れが良くされていて様々な花がさいていましたが、とりわけこの時期はちょうど色んな品種のバラが見頃を迎えていてとても見事で、花の写真を撮っている人がたくさんおられます。特に区立芝公園のバラのハート型のトレリスは、バラのアーチ越しに東京タワーを入れて撮れるので、外国人観光客には人気の撮影スポットだとか。

それにしても、GWということもあるのか、まるで「ここは日本ではない」かのように錯覚する程に園内では中国語と韓国語が飛び交い、カップルが写真を撮ったり、ネットに投稿するためなのかポーズを取ってスマホで動画撮影をしたりしている人たちの余りの多さに驚きました。
またプリンス芝公園の芝生からは、羽田空港に着陸するために飛行する各社の旅客機が、まさに秒単位で羽田に向かって上空を飛んで行くのが見えます。
これは羽田の便数増加に対応するために、2020年から運用が開始された都心上空を飛ぶ飛行ルートで、常時ではなく主に南風が吹いている時、しかも騒音対策として15時~19時の間の3時間程度に限定して使われる飛行ルートなのだそうですが、このルートだと新宿駅周辺で約3000ft(約915m)、そしてこの辺りの六本木ヒルズ周辺で約2000ft(約610m)とのことなので、肉眼ではすぐそこを飛んでいる感じがします。いずれにしても、“乗り物好き”の “お上りさん”の年寄りにとっては、ヨダレが出そうな程のたまらない光景でした。
 冒頭で書いた通り、今麻布台では森ビルの今秋開業予定の「麻布台ヒルズ」の建設が大詰めを迎えていて、メインのタワービルと、“億ション”でも全く桁違いの国内最高額になるという話題のタワーマンション2棟も、急ピッチで建設が進められていて、まさに職住一体の都市一個分を作るかのような大工事に、工事現場周辺はまるでカオス状態です。
それは毎日、朝早くから地下鉄の神谷町駅から建設現場へ向かう作業員の人たちの行列が、まるでアリの行進の様な動きから始まります。
あべのハルカスを超える330mという麻布台ヒルズのメインタワーは、既にビルの外観はほぼ完成していて、今はその内部工事とヒルズ一帯の下層階部分の屋上庭園や下層階の建物側面も緑に覆われる様で、その部分の植栽工事が行われていました。
 ビルというよりもむしろ“街を創る”という意味では、現在再開発中の渋谷駅周辺と共に、おそらく今一番活気があって“蠢いている”様な麻布台界隈。そして、インバウンドの観光客が集まる芝公園。
ゆったりと流れるノンビリした田舎の時間の速さとは全く異なる様な、活気に溢れた日本の中心の鼓動とその喧騒に圧倒される様でした。

 日々 “育児”に奮闘する次女の気分転換を兼ねて、暇な我々年寄り夫婦の方が横浜に出向き、元町駅で次女と孫娘と待ち合わせ。
コロナ禍で3年ぶりの制限無しのGW中の外出とあって、元町駅には列車が着く度にたくさんのお客さんがホームから改札へ上がって来ます。しかも、若い子たちが多いのに驚きます。どうやら、中華街方面へ向かう人が多そうですが、我々は一歳半の孫娘をベビーカーに乗せて、歩いてすぐの山下公園へ。

公園では、横浜市の「第45回花壇コンクール」の作品が公園内に並べられていて華やかさを演出していて、また芝公園同様に山下公園でもちょうどバラ園のたくさんのバラが華やかに見頃を迎えたところ。
それらを愛でながら、快晴の青空の下。広い芝生の上で小さい子を連れた家族連れやワンコを連れた方々など、皆さん思い思いに潮風に吹かれながら山下公園を楽しんでいました。“山国”の人間にとっては「海はイイなぁ・・・」。(但しそれは飽くまで「見るのは」であって、地に足のつかぬ海で、“板子一枚”船に「乗る」のも「泳ぐ」のも“山の民”は怖いのです)
さて、山下公園と云えば・・・、年寄り的には、氷川丸とマリンタワーでしょうか。みなとみらいもすぐそこですし、客船ターミナルの大桟橋には、残念ながらこの日は大型客船の停泊はありませんでしたが、GW中には5月6日のクイーン・エリザベス(3代目)、翌7日には日本で建造された“あの”ダイヤモンド・プリンセスと、日本発着のクルーズでは最大級という17万tのMSCベリッシマ、そして日本船籍の飛鳥Ⅱとにっぽん丸の4隻が同時着岸とのこと。いやぁ、乗り物好きとしては見てみたかったですね。
ワンコ連れOKのクルーズってないのでしょうか、ね。最近の大型フェリーの中には、ペットと一緒に泊まれる客室を備えた航路も出始めていますが・・・。
余談ながら、これからの観光業(飲食業も含め)のターゲットは、インバウンドは別とすると、シルバーエイジとペット連れだとずっと思っているのですが、その割には“町ぐるみ”の軽井沢を除くと、住んでいる松本を含めどこに行ってもペット連れにまだまだ決して優しくない・・・と感じています。
 この日の女性陣のお目当ては、「ホテルニューグランド」のコーヒー・ラウンジ「ザ・カフェ」でのランチの由。
事前の予約枠が満杯だったとのことで、当日枠で食べられるようにと、到着後真っ先にホテルに直行してウェイティングリストに記入し、凡その可能時間を確認した上で山下公園に来ていました。
念のため少し早めにホテルに戻ると、その「ザ・カフェ」の前には既に20組以上のお客さんがウェイティング中。今からだと2時間近く待つかもしれないと受付で説明されていて、我々は早めに受付しておいて大正解でした。実際予定時刻より15分早く戻ったのですが、既に一度呼ばれていたらしく、すぐに席を用意していただいて席に着くことが出来ました。
 “みなと横浜”を代表する歴史的なホテル「ニューグランド」。H/P的に紹介すると、
『この横浜・山下町に位置する「ホテルニューグランド」は、1927年に開業した正統派クラシックホテルで、海外との窓口として歩んできたホテルには異国情緒溢れる雰囲気が漂います。
名物料理と言えば「シーフード ドリア」「スパゲッティ ナポリタン」「プリン・ア・ラ・モード」など誰もが知っているメニュー。これらは全て「ホテルニューグランド」発祥のメニュー!
これらは全て「ホテルニューグランド」のコーヒーハウス「ザ・カフェ」で提供されています。』
先ずは、シーフードドリア。これは、
『初代総料理長を務めたサリー・ワイルが考案した料理です。サリー・ワイルは、メニューに「コック長はメニュー外のいかなる料理にもご用命に応じます」と記し、お客様の要望に合わせて様々な料理を作って提供していました。ある時、滞在していた銀行家から、「体調が良くないので、何かのど越しの良いものを」という要望を受け、即興で創作した一皿をお出ししました。その時作ったのは、バターライスに海老のクリーム煮を乗せ、グラタンソースにチーズをかけてオーブンで焼いたもの。好評だったこの料理は、"Shrimp Doria"(海老と御飯の混合)として、レギュラーメニューになり、ホテルニューグランドの名物料理の一つになりました。』
続いて、今や日本中の喫茶店のメニューの定番となっている、スパゲッティのナポリタン。こちらは、
『2代目総料理長 入江茂忠が、接収時代、茹でたスパゲッティに塩、胡椒、トマトケチャップを和えた物を米兵が食べているのを知り、アレンジを加えて生み出した一品。終戦後、1945年8月30日に到着した連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーによって米軍による占領が開始され、以降1952年までの間、ホテルニューグランドはGHQ将校の宿舎として接収されました。戦後厚木に降り立ったマッカーサーが最初に宿泊したのもこのニューグランド。GHQの彼らの持ち込んだ軍用保存食の中にスパゲッティとトマトケチャップがあり、米兵たちは茹でたスパゲッティに塩・胡椒で味付けをし、トマトケチャップで和えた物をよく食べていたそうです。接収解除後、ホテルには彼らが持ち込んだ大量のスパゲッティが残されていたことから、戦後2代目の総料理長を担った入江茂忠は「ホテルで提供するに相応しいスパゲッティ料理を作ろう」と、苦心の改良を重ねました。もともと、当ホテルでは、初代総料理長サリー・ワイルより受け継いだカルーソー(仔牛の細切り肉とトマトベースのデミグラスに合わせた料理)やボロネーゼなどのスパゲッティ料理があり、入江は新たなメニューとして、トマト本来の味わいを生かしたホテルならではの料理を提供しようと、ニンニクと玉葱の微塵切りを飴色になるまでよく炒め、生のトマト、水煮のトマト、トマトペーストを加え、ローリエとオリーブオイルを入れてソースを作り、スパゲッティと合わせ、この料理を「スパゲッティ ナポリタン」としてお客様へお出ししたのです。』
そして最後、プリン・ア・ラモードはアメリカ人将校夫人たちを喜ばせたいと、当時のパティシエが考案した一品だとか。

 余談ですが、そんな歴史を知って思い出したのは、終戦後GHQの高官として占領中の日本に駐在したアーレイ・バーク提督の逸話でした。
彼は駆逐艦艦長としてソロモン海戦を始め太平洋戦争を生き抜いた猛将で、海戦で多くの親友や部下を失ったために、公式の場でも日本人を“Jap”や“Yellow Monkey”と罵る程の大の日本人嫌い。終戦後、GHQの高官として、氏はこのニューグランドでは無く帝国ホテルに滞在していたそうですが、滞在中の花瓶に活けた一輪の花をきっかけとなって、同じくソロモン海戦で駆逐艦艦長だったご主人が艦と共に沈み戦死されたという戦争未亡人のメイドの方との交流を通じ、やがて大の親日家に変わっていき、我が国の独立回復をGHQの立場から本国政府に進言し続けるなど、戦後の日本復興に貢献したという有名なエピソード。
ホテルニューグランド発祥のメニューの歴史を読みながら、有名無名かを問わず、きっとこのニューグランドでもそうした数え切れない程の交流があったのだろうと勝手に思いを巡らせていました。
 閑話休題。彼女たちのオーダーは、娘がシーフードドリア(3162円)、家内は海老フライのタルタルソース(3036円)で、それぞれスープ、コーヒー/紅茶、パン/ライスのAセット(1898円)を付けて。私メは、4月27日~5月31日の期間限定という「大人のお子様ランチ」(4807円)をチョイスです。
お子様メニューもあるとのことでしたが、孫娘は用意してあった離乳食で構わないとのことでした。
先ずは全員パンとこの日のスープ、ジャガイモのポタージュから。
「大人のお子様ランチ」は先述したこのホテル発祥のシーフードドリアとナポリタンにハンバーグステーキを加え、デザートにア・ラ・モードではありませんがプリンが付く、キャッチフレーズ“大人だって食べたいお子様ランチ”です。
オリジナルのナポリタンは酸味が効いた、今やどこでも食べられる“普通”のナポリタンでしたが、ドリアは実に優しい味付けで、これは美味しい!娘も絶賛していました。
しかし、個々の味そのものよりも、むしろGHQが駐在していたこのホテルで、戦後間もない日本を感じながら我が国の“洋食の歴史”も味わう・・・そんな話のネタにもなるそれぞれのメニューでしょうか。
家内のチョイスした海老フライも、大ぶりな車エビのエビフライがプリプリだったとのこと。どれもさすがでした。デザートはセットメニューにレモンケーキ。奥さまがプリンも食べられましたが、固めで昔懐かしいいプリンで美味しかったそうです。
せっかくだったので、本当ならもう少しゆっくりと雰囲気も楽しみたかったのですが、私の背中側に座っていた女性が、孫娘が時々声を上げたりすると、キッと睨むのだとか。あちらにすればせっかくのニューグランドでのランチを独り静かに楽しみたいと思われたのでしょう。そこで我々は、食べ終わってから早々に席を立ちました。
 某県庁所在地の公園で遊ぶ子供たちへの“上級住民”からの騒音クレームではありませんが、確かに大声で騒いでも全く注意もしない無責任な親もいますし、また外を見たい子供を電車の座席に靴も脱がせずに土足で立たせている無神経な親などを見ると私も一言注意をしたくなりますが、電車や買い物での赤ちゃん連れの若いママさんたちへの心無い批判や非難を、娘からもですが色々見聞きするにつけ、実際は子育てで大変な思いをして常に周囲にも気を使っているお母さんの方が圧倒的に多いのです。
少子化対策を制度論で議論する前に、子供たちは未来のこの国を背負っていく“国の宝”ですから、子育てに寛容で優しい社会でありたいと思います。そしてそれは決して甘やかすのではなく、私たちが子供の頃は当たり前のように他人の子供であってもきちんと叱るべき時には叱ることも含め、昔の様に地域の皆で子供たちを見守り育ててくれた、多少は“お節介な”そんな社会であるべきだと思います。
マンションにも小さな子供たちがたくさんいますので、決して“小煩い老人クレーマー”と勘違いされぬよう、先ずは身近な実践から・・・(家内からは「嫌がられるから、絶対にやめた方がイイ!」と言われるのですが)。
 新婚時代に見栄を張って、一度この「ホテルニューグランド」に泊まったことがあったのですが、家内曰く、その時はまだこうした“一流ホテル”には慣れていなくて何となく落ち着けなかったとのこと。
そんな田舎のジジババは、今回は次女と孫のお陰で、ミナトヨコハマの“赤い靴”の山下公園とホテルニューグランドでのGWのひと時をゆったりと楽しむことが出来ました。

 東京滞在中の前半、4月27日に予約してあった狭山市の動物病院へ。
前回ご紹介した様に、コユキが繁殖犬の時にブリーダーに声帯を切られたことが原因で、我が家でのトライアル期間中に過呼吸気味になり、コユキを保護していただいた埼玉の保護団体の提携先だった狭山市の動物病院で緊急手術をしていただいたのですが、ナナが亡くなった後の精神状態も手伝ってか最近元気もなく、またハァハァという呼吸も荒くなっ多様な気もすることから、術後に担当頂いた院長先生から「もし再発したら診せに来るように」と仰って頂いていたこともあり、今回せっかくの機会なので東京滞在中にまた狭山の動物病院で再診していただくことにして、4年前に手術をしていただいた院長先生に上京する前に連絡し、事前に再診日時と念のため手術の予約もさせていただきました。

 東京から狭山へは、川越行の西武新宿線です。ワンコ連れと云うこともあり、本川越行の西武特急「小江戸」号(レッドアロー)で行くことにしました。特急で本川越までは僅か40分程。
動物病院での午前中の診察で、前回は声帯切除の影響で軟口蓋過長になっていて手術をしていただいており、今回軟口蓋は全く問題が無いとのことだったのですが、やはり他の場所の息道が腫れて狭くなっていて呼吸し辛くなっているとのことで、念のため手術の枠を事前に予約して確保していたこともあり、そのまま手術をしていただき午後4時過ぎに改めて迎えに来ることになりました。そのため4時間以上時間が空きました。
 「さてと、それまでどうやって時間潰そうか?・・・。どこかに行く?」
ランチ休憩がてら、近くに在った星野珈琲で休憩を兼ねて早昼を摂りながら検討です。そして、出た結論は、
 「乗って来た特急の終点だった川越に行ってみようか!?」

 川越は“小江戸”と呼ばれ、東京からも近いので近年では人気の観光地になっています。ただ、首都圏に住んでいればですが、首都圏在住でなければわざわざ訪れる場所では無いように思います。その意味では、今回のコユキのことが無ければ、我々も信州から川越に観光目的で来るという機会は、おそらく一生無かったかもしれません。
“世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり”と云われるのだそうですが、長野県にも飯田や飯山など“小京都”と呼ばれる街がありますが、例え武家屋敷や宿場などの江戸時代の町並みが残っていても、確かに川越以外に“小江戸”というのはあまり聞いたことがありません。
駅に戻り、電車に乗って狭山から川越(西武線は「本川越」。JRが「川越」、東武は「川越市駅」と、川越駅が三つあります)へ。普通列車でも10分も掛かりませんでした。
本川越の駅からは、駅前の通りを一本道でそのまま行くと、連雀町で途中の川越熊野神社に立ち寄ってご挨拶を兼ねてお参りし、次の仲町からが古い蔵造りの町並みがずっと札ノ辻まで続いています。途中、川越と云えば必ず登場する川越のランドマーク「時の鐘」。江戸時代初期に藩主だった酒井忠勝が建立した鐘楼で、今でも日に4回鳴って時を告げているのだとか。
蔵造りの町並みは、松本の中町も同様ですが、川越も何度か大火に見舞われ、その時に蔵が焼け残ったことから、類焼を防ぐために蔵だけでなく一般の商家も耐火性の高い“土蔵造り”が採用され、結果として蔵造りの町並みになったのだとか。川越は、中町の“なまこ壁”の蔵とは違い、蔵全体が黒い壁で作られているのが特徴でしょうか。因みに、川越は、福島県喜多方市、岡山県倉敷市とともに「日本三大蔵の町」なのだそうです。
松本は、中町通りだけなので「日本三大蔵の町」としては規模が小さいのでしょうか、チト残念!
 行ったのは4月27日の木曜日の平日で、まだGW前ではあったのですが、首都圏から近く日帰り観光が可能と云うこともあるのか、想像以上に観光客が多く、また外国人も多くて、中国語と韓国語が飛び交っていました。
皆さん、食べ歩きを楽しまれていて、個人的には川越と云えば芋!というイメージなのですが、必ずしもそうでもない様で、中には京都の清水坂にもある浅漬けキュウリの一本バーを食べている観光客もたくさんいました。
我々は狭山でランチを済ませてきてしまったこともあり(どうせなら川越で食べれば良かったかも)、娘たちや(東京での滞在中の)自家用とお友達へのお土産用に、芋ケンピと試食をして美味しかった丸ごと玉ネギのお漬物と福神漬けに姫キュウリの浅漬けを購入(玉ネギの漬物は娘たちと婿殿に好評でした)し、駅に戻り電車に乗って早めに病院で待つことにしました。
 午後の診察時間になって、一番で先生にタブレットの写真を見せて頂きながら手術の状況の説明いただき、無事に手術が済んだとのことで、安心してまたみんなで特急に乗って東京に戻りました。
「コユキ、大変だったね。でももう大丈夫!もう苦しくないからネ、楽になるからね!お疲れ様!」

 手術をしているコユキの様子を心配しながらではありましたが、思いがけず予定もしていなかった“小江戸”観光が出来た一日でした。

 今回の東京滞在で先ず行ったのは、クラシックの生のコンサートでも生落語の寄席でもなく、美術展でした。

 向かった先は皇居の近く、竹橋に在る「東京国立近代美術館」。こちらでは、開館70年の記念展として、「重要文化財の秘密~問題作が傑作となるまで~」と題した特別展が3月の17日から5月14日まで開催されていて、もしその間に上京する機会があれば是非見たいと思っていました。
やはり同じ様に思う方が多いのでしょう。この日は平日だったのですがかなりの人気で、一定時間毎に入場人数の制限をして鑑賞が行われていました(コロナ禍の影響もあるのか、以前の東博に比べると制限人数がかなり少なめの様に感じます)。
事前にオンライン予約をしてあると直ぐに入場待ちの列に並べるのですが、予約していない場合は、先ずはその窓口で観覧料を払ってチケットと整理券を貰う必要があります。事前予約していない人の方が多いためにその整理券を貰うのに長蛇の列で結構時間が掛かっていたので、家内がその場でスマホからWEB予約をして、列から抜け出して入場待ちの列の方に並ぶことが出来ました。そうすると入場時に係の方がスマホから読み取ってくれ、チケットを係の方から受け取って入館出来ました。
この日が平日だから大丈夫だろうと思っていたのですが、こうした人気の美術展は、例え平日であっても事前にオンライン予約をしてから行った方が絶対良いと感じた次第です。
 さて、今回の創立70周年の特別展「重要文化財の秘密」は、美術館のH/Pに拠ると、
『東京国立近代美術館は1952年12月に開館し、2022年度は開館70周年にあたります。これを記念して、明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、重要文化財に指定された作品のみによる豪華な展覧会を開催します。
とはいえ、ただの名品展ではありません。今でこそ「傑作」の呼び声高い作品も、発表された当初は、それまでにない新しい表現を打ち立てた「問題作」でもありました。そうした作品が、どのような評価の変遷を経て、重要文化財に指定されるに至ったのかという美術史の秘密にも迫ります。
重要文化財は保護の観点から貸出や公開が限られるため、本展はそれらをまとめて見ることのできる得がたい機会となります。これら第一級の作品を通して、日本の近代美術の魅力を再発見していただくことができるでしょう。』
という様に、今回の見どころは、史上初、展示作品全てが明治以降の重要文化財であることです。更に、
『明治以降の絵画・彫刻・工芸の重要文化財のみで構成される展覧会は今回が初となります。明治以降の絵画・彫刻・工芸については、2022年11月現在で68件が重要文化財に指定されていますが、まだ国宝はありません。本展ではそのうち51点を展示します。』
(期間中入れ替えがされるので、一度に全51作品を見ることは出来ません)
 明治以降の近代日本画、西洋文化を取り入れた洋画や彫刻、そして日本を海外に知らしめるべく伝統技巧を凝らした美術工芸・・・。
色々特別展としてのポイントはあるのでしょうけれど、見終わった後での先ずは個人的な感想は「目の前にあるのは、まるで美術の教科書そのもの・・・だ!」ということでしょうか。
明治維新後のフェノロサと岡倉天心に始まる、近代化の中での日本美術界の歴史そのもの・・・が目の前に展開されているのです。
1950年に制定された「文化財保護法」を受けて、1955年に明治以降の近代美術作品として、初めて重要文化財に指定された第一号の4作品の一つである狩野芳崖の「悲母観音」(東京藝大所蔵)を皮切りに(以降掲載した写真は文中に記載した順番です)、それらが教科書の写真ではなく、或いは記念切手の図案でもなく、教科書で見た通りの高橋由一の「鮭」(東京藝大所蔵)、浅井忠の「収穫」(同左)、黒田清輝「湖畔」(東博所蔵)、そして岸田劉生の「麗子微笑」(同左)などの実物が、現物として次から次へと目の前に展開していく不思議・・・。
それは、特に彫刻で例えて言うならば、高村光雲の「老猿」(東博所蔵)や朝倉文夫の「墓守」などが(萩原守衛「北條虎吉像」は所蔵している穂高の「碌山館」で若い頃見たことがありますので)、教科書や図録の平面写真ではなく、周囲360°のあらゆる方向から眺められるという何だか信じられない様な、現物だからこその感覚・・・とでもいえば良いでしょうか。
因みに、個人的に今回の展示の中で一番感動した作品は、初めて見た朝倉文夫作「墓守」(台東区朝倉彫塑館所蔵)でした。“東洋のロダン”と称された作家の最高傑作です。文化庁のD/Bに依れば、
『両手を背後に組み、わずかにうつむいて微笑する老人の立像。明治から昭和にかけて日本の彫刻界を主導してきた朝倉文夫の作品である。
モデルは、学生時代より馴染みのあった谷中天王寺の墓守であるという。朝倉によればモデル台に立たせると固くなるためブラブラ歩いて面白いと思った姿勢をとり、家のものが指す将棋を見て無心に笑っている自然な姿を横からとらえて作った』塑像とのこと。
その像からは何とも言えぬ哀愁が漂っていて、何だか魅入られたような感じでその前から暫く動けず、その後周囲を回って色々な角度からじっくりと眺めてみました。
         (「母子」上村松園:「わだつみのいろこの宮」青木繁)
 そして余談ですが、今回の美術展で個人的に一番感慨深かったこと。
それは、所蔵元の了解如何であろうことから勿論全てではありませんでしたが、展示品の実に7割(目録に拠ると、撮影不可は51作品中16作品のみで、その大半が今回の特別展用に借りて展示されている、例えば永青文庫や大原美術館などの他の美術館の所蔵作品)がフラッシュや動画以外の撮影OKだったことでした。
           (「褐色蟹貼付台付鉢」初代宮川香山)                    
海外では当たり前でも、国内だと、やれ傷むなどとして(おそらく一番の理由は、勝手にネット上などで使用されたくないという所蔵する側の著作権ではないかと思います)厳しく撮影禁止と云う展覧会が多い中で、いくら経年劣化の少ない明治以降の近代作品とはいえ、今回絵画も含め7割もの作品が撮影OKだったことに驚き、喜び、今回の国立近代美術館のまさに画期的なその“英断”に先ずは拍手を送りたくなりました。
クラシックのコンサートでも、カーテンコールでの撮影がOKだったサントリーホールのシュターツカペレ・ベルリン(第1786話)同様、コロナ禍後の集客拡大目的もあるのでしょうか。しかし、大変良いことだと思います。いずれにしても大歓迎です。今回も多くの拝観者の方々がスマホ等で撮影をされていました。会場で、中には驚いて「えっ、本当に撮影していいんですか?」と尋ねられる方もおられ、展示作品名のパネルにカメラマークが表示されている作品は撮影可能な旨教えてさしあげました。因みに、入り口にある「出品目録」には、逆に撮影不可の作品に×印のカメラマーク(注:赤丸で囲ったのは筆者です)が表示されていました。 
少なくとも、私メや私以上に海外経験豊富な長女の知る限りにおいて、美術展で展示している絵画作品の撮影を禁止している美術館は日本くらい(但し、国内でも劣化のリスクが少ない考古資料は、例えば茅野市尖石博物館の国宝土偶や東博所蔵の国宝や重文の埴輪群などは撮影OK)で、かのルーブルの“世界の至宝”「モナリザ」を始め、欧米の美術館は殆どが写真撮影OKの筈ですので、保存上問題となるフラッシュなど照明器具を使った撮影やビジネス目的での写真撮影は禁止するのは当然としても、個人が記念や記録として用いたい私的な写真撮影については、今回撮影を認めていた(但し今回もフラッシュ使用や動画撮影は不可)国立近代美術館の様に、こうした取り組みが国立のみならず日本国内の公立や私立の美術館にも拡がっていけば良いと思います。

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