カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 以前ご紹介したインテリアグリーンとしての観葉植物のミニ鉢植え。ガジュマル、パキラ、コーヒー、クチナシ、そしてアジアンタム。
毎朝の水やりがささやかなルーティーンではあるのですが、買って来た時と比べ随分大きく成長したので、ここで少し大きめの鉢に植え替えてあげることにしました。


 そこで幾つか大手のホームセンターの園芸用品売り場を見て回ったのですが、別に値段は高くても構わないのですが、これといってピンとくる鉢は見当たりません。
そこで諦め掛けたのですが、すぐ近くの100均ショップもついでに覗いてみることにしました。すると、ホームセンターに在った様な如何にも安物のプラスチックという風な植木鉢ではなく、むしろオシャレで品の良い感じの鉢が並んでいて(さすがに大きな鉢は100均にはありませんでしたが)、その中から良さそうな鉢を二つ購入しました。
一方で、100均ショップには観葉植物用の土は種類が少なかったので、またホームセンターに戻って、酵素入りの観葉植物用の土を2ℓの袋で購入しました(これでも多いくらいですが、2ℓが最小でした)。
 家に戻り、クチナシとパキラを植え替えます。
クチナシは8㎝から10㎝、パキラは7㎝の丸い鉢から一辺が9㎝角の四角い鉢にそれぞれ一回りから二回り大きな鉢に変更です。
クチナシは枝も随分伸び、根本から新しい芽も伸びて随分窮屈そうです。そこで鉢から土が付いたまま株毎抜いて、竹串で少し伸びて固まった根をほぐします。そして植え直す鉢の真ん中に移して、周りに少しずつ観葉植物用の土を注いで、最後に株がぐらぐらしない様に土の表面を突き固め、更に土を補充して平らにならしました。
パキラは、挿し木栽培で育てたと思われる本当に小さな5sm足らずの苗を買って来て、自分で鉢に赤玉土を入れて育てたモノ。小さかった枝葉はすくすくと成長し、何本もの新しい枝葉を伸ばして5倍にも10倍にも成長しましたので、もっと大きな鉢に今回も赤玉土で補充して植え直しました。
そして、上手く育てられず殆ど枯れてしまったアジアンタムが、数本だけ芽を出しているので捨ててしまうのは可哀そうで、ちゃんと育ってくれるかどうかは分かりませんが、周りの枯れた部分をそぎ落としてその芽の部分だけを残して空いた小さな鉢に移し替えました。ガンバレ、ガンバレ!・・・です。
 これで随分見た目がスッキリしました。窮屈そうだったクチナシとパキラも何となくのびのびと気分良さ気に見えます。これで、また暫くは大丈夫でしょう。
そして他のガジュマルやコーヒーの鉢と併せて、また成長して窮屈そうになったら、更に大きめの鉢に植え直してあげようと思います。

 9月の敬老の日と秋分の日で、二週続けての三連休の狭間の平日。諏訪湖畔の渋崎に在る「原田泰治美術館」に一人で行って来ました。
家内は横浜の次女の所に行っていて留守。横浜に行く前に、ドライブがてら行かないか聞いたところ、興味無しとのお答え。原田泰治美術館には、開館してすぐ家内と一度見に行った記憶があるのですが、1998年に開館したそうですので、今回は四半世紀ぶりの再訪ということになります。

 多分、それは諏訪の本社勤務時代に見に行った筈ですが、その時に気に入って購入した複製画の2点(秋の「きのこの山」と、山梨県の一宮付近の一面満開の桃畑を描いたと思われる「桃の花」)を、同様に山種美術館で購入した東山魁夷の複製画などと共に家に飾っています。
これは、新居のマンションの玄関からリビングへの廊下に、ピクチャーレールを壁側の天井に設置してもらい、そこにワイヤーとフックを5本10個購入して、とりあえず郷土の画家の絵や版画などの9枚の額と季節に応じて架け替える1枚を段違いに各々バランス良く“ギャラリー風”に展示しているのですが、その季節毎に入れ替えている一枚が先述の原田泰治と東山魁夷の複製画です。
しかし、残念ながらその複製画の手持ちの中には夏と冬に相応しい絵がありません(魁夷の「年暮る」は年末年始には相応しいとしても、冬の間ずっとでは間が抜けてしまいます)。
そこで夏と冬に飾れる複製画を求めて、(山種は買いに行くには遠いので)近間の「原田泰治美術館」へ行くことにしました。
 年金生活者の独り身ですので、夏休みは過ぎたとはいえ混むだろう三連休の週末を避け、二つの三連休の狭間の平日に行って来ました。
岡谷ジャンクションの高架橋の補修工事で、松本からだと塩嶺トンネルから岡谷JCTを過ぎるまで4~6㎞の渋滞が慢性的に発生しています。
この日も塩嶺トンネル入り口付近から渋滞しており、諏訪ICまで40分との表示。そこでノロノロと1700mのトンネルを抜けて岡谷ICで降り、岡谷市街地を抜けて釜口水門から諏訪湖畔を走る通称“西街道”で向かいました。諏訪湖畔は最近一周16㎞のサイクリング道路が全線繋がった由。この日も、観光客の方々も含めてか、たくさんの人たちが思い思いにぺダルを漕いでいおられました。
11時過ぎに「原田泰治美術館」の駐車場に到着すると、広い駐車場には車が5台程。いくら平日とはいえ、些か寂しい感じです。
 入館すると、ミュージアムショップと二階のティールームは無料で利用可能とのこと。そこで、先ずはショップで複製画の品定めで、夏と冬に相応しい絵を探しました。
選んだのは、夏用には入道雲が背景に描かれた「ボンネットバス」と冬が四季を描いた連作の中で「ふるさとの四季・冬」の雪景色を描いた一枚。
ご厚意でショップで絵を預かっていただいて、入館料(大人840円)を払って展示を見に行きました。
美術館ではちょうど開館25周年の特別企画展として「原田泰治が描く 美しい日本の童謡・唱歌展」が開かれていました。これは、館のパンフに依ると、
『「日本の歌100曲」という童謡や唱歌を集めた100曲のリストがあります。亀田製菓株式会社が設立40周年を迎えるにあたり文化事業として、全国から「21世紀に残したい童謡・唱歌」を募集(応募総数21万2,403通)したものをもとに、5名の選者(永六輔氏・服部克久氏・黒柳徹子氏・さだまさし氏・Toshi氏)により選考されたものです。
それに連なる企画の一つとして100曲ひとつひとつに合った作品を原田泰治氏が自身の作品から選出・描きおろしたものが[日本の童謡・唱歌100選]という名前で発表され、画集やCDなどの形で展開しました。』
とのこと。
“あられ、おせんべい”の亀田製菓の当時の社長が、「豪華な社史を作るくらいなら、同じ予算で何か社会に貢献出来ることを」として企画された文化事業だったそうです。2000年に100曲が選ばれ、2006年に原田泰治が描いた絵が本として出版されたそうです。
 常設展と併せて、今回二つの展示室に分けてその歌を題材にした100点の絵画が展示されていました。
美術館に行くと毎回思うのですが、海外ではルーブルやオルセーなど、個人使用でフラッシュを使わなければ「モナリザ」でさえ写真撮影が可能という美術館が殆どなのに、残念ながら日本の殆どの美術館では絵画については一切写真撮影が禁止なこと。今までで全部ではありませんでしたが、その数少ない例外は、2023年5月に行った国立近代美術館の特別展「重要文化財の秘密」では、明治期以降の重要文化財の殆どが一堂に会していて、その絵画も含め7割もの作品が撮影OKだったこと(第1821話)。そして、今年の春に久しぶりに云った箱根の「ポーラ美術館」でも、その多くの所蔵作品の撮影が認められていて、ビックリしました(第1891話)。
残念ながら、今回の原田泰治美術館も勿論撮影禁止でした。
 見終わってから、ショップでもう一枚早春の絵として、春の伊那谷の下条村で描いたという「梅の咲く頃」も購入し、秋の風情が漂い始めた諏訪湖畔を少し散策してから帰途につきました。

 暑い日が続いたとはいえ、さすがに9月に入ると夏野菜も目に見えて日に日に衰えて来て、キュウリもミニトマトもシーズン終了といったところ。ナスは秋になっても収穫出来るかもしれませんし、青紫蘇やバジルはまだまだ元気なので霜が降りるまでは大丈夫ですが・・・。
今年二年ぶりに取り組んだ夏野菜のプランター栽培。5月末に一週間旅行不在が予定されていたため植えたのが戻って来てからでしたので、少し遅すぎた嫌いはあるのですが、それでも一昨年は特にキュウリなど「花は咲けども・・・」で全然実にならなかったのが、今年は途中で気が付いて追肥を定期的にした結果、キュウリもミニトマトも、ナスも一応収穫することが出来ました。
しかし、反省としては欲張ってプランターに苗を植え過ぎてしまったことでしょうか。もう少し余裕を持たせるべく、来シーズンはもう一つプランターを増やそうと思います。

 一方、青紫蘇とバジルは元々強いのかもしれませんが、特に追肥などしなくてもしっかりと成長してくれて、特に青紫蘇は大葉をスーパーで買うことなく、いつでも新鮮な葉を摘んで来て夏の冷奴などの薬味で大活躍してくれました。
そこで、青紫蘇は秋口まで利用出来るように、大きな株の延びた茎をそれぞれ切り詰め、小さな枝葉の芽がまた伸びて来るようにしました。こうすることで、成長してコワくなった葉ではなく、また柔らかな葉が新しく茂ってきます。そして、最後は花を咲かせ結実させて、今度はその実をちゃんと摘んで取って置いて春になったらプランターに植えたいと思いますし、たくさん取れるでしょうから、今夏アパートから引っ越して、戸建てに暮らす次女の家にも春になったら家内に持って行ってもらうことにします。
バジルは、ピザやトマトソースのパスタなどの時に新鮮な葉を刻んで散らしてその香りを楽しむことが出来ました。
ただ、バジルはせいぜい使うのはその程度なので、たった一株の苗ですが、こんもりと茂って勿体無いので、家内が久しぶりにジュノベーゼソースを作ることになりました。
以前一戸建ての時は、ハーブガーデンでバジルは3株栽培していたこともあり、霜に当たるとバジルの葉は黒く変色して枯れてしまいますので、降霜前に葉を全部摘んでジュノベーゼソースやレンジを使って乾燥バジルを作ったりしていました。ただ、乾燥バジルは結果として余り使い道が無く、数年前に作ったのがまだ使い切れていません。
そこで、今回は一株だけですので、次女のリクエストで、ジュノベーゼソースを作って娘の家に家内が持って行くことになりました。

 霜が降るのにはまだまだ時間がありますので、4本程あった株立ちの中で、一番細い一本だけはまだピザやパスタに使う様に残し、残りの太い3本を全て摘み取ることにしました。
傷んだ葉と花芽を取り除き、小さな葉っぱも丁寧に摘み取った結果、ボールに山盛りになるくらいありました。
家内が丁寧に水洗いして、キッチンペーパーを何枚か拡げ、その上に葉を敷いて水気を取り、多少乾いたところでバジルの葉はたくさんあるので一度では無理で何回かに分け、松の実、にんにく、エクストラバージンオリーブオイルを加えて、ミキサーにかけて攪拌します。
思いの外バジルの葉が多かったので瓶二つ分出来たとのことで、大きな方を9月に次女の所に行く際に家内が持参しました。我が家ではあまり使わなかったバジルですが、料理好きな次女の所で活躍してくれることと思います。

 全国のお城は、“白鷺城”と呼ばれる姫路城に代表される白漆喰で塗られた白いお城と、別名“烏城”の岡山城や熊本城の様に、漆喰保護が目的の下見板張を黒く塗った豊臣系に多いとされる黒いお城に分かれますが、その“黒いお城”の中で、唯一松本城だけが築城当時から今でも黒漆が塗られているお城で、しかも毎年秋に塗り直されているのだそうです。

今年も9月になって、その工事が始まりました。松本城管理事務所の説明に依ると、
『松本城では、天守の塗装部分の塗り替え工事を実施します。
この工事は、松本城の保全を目的として、漆の塗装と乾燥に適したこの時期に毎年実施しています。昭和41年から毎年実施しているものです。
工事期間中は、月見櫓への入場制限や外壁への足場の設置、塗装部分を保護するために天守の一部を白いシートで覆う期間もございますので、あらかじめご了承ください。
工事内容:松本城天守下見板・月見櫓欄干の漆部分の塗り替え 』
 何年か前、“城郭ライター”萩原さちこ女史の松本城に関する講演会で、「松本の皆さんは誇りに思うべきです」と強調されていたのが、この黒漆でした。そして「是非知っていてください」と更に強調していたのが、漆塗りを長年善意で支えて来られた地元の漆職人の方のエピソードでした。
以下、萩原さんの書かれた文章から、その関係する箇所を拝借させていただくと、
『地元の漆職人の碇屋公章さん。昭和の解体修理の際、先代の碇屋儀一さんが請負ったものの、材料費を考えれば儲けはなく、どちらかというと善意での参画だったようです。
儀一さんはひとりですべての壁面を塗り直した後、なんとその後の約10年間は自腹で修復をしていたそう。前述のように、漆は1年も経てば傷みが目立ちはじめます。日々傷みを増し汚れていく松本城天守群の姿を、儀一さんは職人として放っておけなかったようです。
全国唯一の漆黒の天守は、職人の心意気と誇りによって伝統となり、日本の宝となった歴史があります。』
その碇屋公章さんという漆職人さんが営まれているのが、市内の天神に在る「碇屋漆器店」。因みに「いかりや」と読みます。
 信州の凍てつく冬に向けて、今年も9月から10月末に掛けて、先ず月見櫓が白いシートで覆われ、赤い欄干の漆塗りに始まり五層六階の大天守や乾小天守まで、複合連結式天守閣の松本城全体の黒漆の塗り替え工事がスタートしました。
そして松本平にアルプス颪(おろし)が吹き始める11月には、まさに文字通り漆黒の輝きを増した松本城が今年も見られる筈です。

 シンガポール・チャンギ空港への出店を記念してとのことで、ファミレスの「ロイヤルホスト」で、7月から2ヶ月間の夏季限定で実施されていた“シンガポール料理フェア”。
近所の渚のショッピングモールに在るスーパーマーケット、ツルヤに買い物行く度に“ロイホ”の前を通るので、実施していることは前から知ってはいたのですが、東京のシンガポール料理の専門店ならいざ知らず、全国チェーンのファミレスでは本格的な再現は無理だろうと、その実施内容を些か訝しく感じていて、これまで食べに行ったことはありませんでした。

でも限定期間が間も無く終了ということを知り、ここ松本でせっかくシンガポール料理が食べられるのなら、例えそれがシンガポール“的”料理であってもイイからと、ダメ元で食べに行ってみることにしました。
事前にH/Pでメニューをチェックすると、シンガポールの屋台街“ホーカーセンター”をイメージしたという定食のセットメニューは、チキンライス、ラクサ、フィッシュヘッドカレー風のシーフードカレーをそれぞれメインにした3種類だけで、他には現地シンガポールのローカルフードの定番であるバクテーを始め、フィッシュボールヌードルやチャークイティヤオも、またホッケンミーも無く、“シンガポール料理フェア” と呼ぶには些か寂しい内容ではあるのですが、でも「シンガポール政府観光局とシンガポール航空の協力」とキャッチコピーで銘打ってあったので、それだったら或る程度は期待出来るかもしれないと思いました。何しろ、この松本でシンガポール料理が食べられるのですから!
(*下の写真は、東京のシンガポール料理店の「海南鶏飯」、基本の3種類のソースが添えられた“正統派”のチキンライスです)
 1994年の帰任後、6年半に亘ったシンガポール駐在中、住んでいた近くのニュートンサーカスを始め現地のホーカーセンターで親しんだローカルフード(チキンライスを始め、どれもこれも僅か数ドルで食べられるのです)が無性に懐かしくて、都内の大学に進学していた娘たちから東京にシンガポール料理店があるらしいと聞いていて、家内と上京した時に初めて食べた水道橋の「海南鶏飯食堂」本店が、今から15年前の2009年。
それまでの帰任後の15年間、どうしても食べたくて見様見真似で自宅でチキンライスを作っていました(第1344話参照ください)。
新鮮な鶏肉を、臭みを取るべく生姜や長葱と一緒に煮て、その煮汁でタイ米を炊けば完成です。タイ米は、現地出身の方が調理している本格的なタイ料理店が松本にも数軒あり、その内の一軒が併設している食材店でジャスミン米が買えました。
好みでコリアンダー(シャンツァイ、パクチー)を刻んで、煮汁のスープに散らします。パクチーは、現地でカンコンと呼ぶ空心菜同様に、日本でも地元のスーパーで買える様になっていました。そう云えば家内がパクチーが大好きで、新鮮なパクチーを求めて、日本人は余り行かないローカルマーケットに買いに何度も行かされましたっけ・・・。シンガポール風チキンライスには、キュウリ(日本のキュウリの3倍は長くて、大味な現地のキュウリですが)も不可欠。タレはお好みで、チリソースとすりおろした生姜を混ぜて。チリソースは松本でも購入出来ましたが、ダークソイソースだけは東京の、例えば紀ノ国屋や明治屋で探しても見つかりませんでした。
その当時は「チキンライス」とネット検索しても、オムライスの中身に使う様な所謂ケチャップライスしかヒットせず、今で云う“シンガポール料理”などというジャンルはこの世にまだ存在しなかったのです(蛇足ですが、現地にも勿論“シンガポールフード”というジャンルはなく、言うならば“ローカルフード”ということでしょう)。
その後、初めて日本で食べたこの「海南鶏飯食堂」を知ったのも、チキンライスでもシンガポール料理でもなく、モノは試しと「海南鶏飯」と入力検索して偶然見つけた店でした(因みに英語が公用語のシンガポールでは、英語を使わない場合の中国系同士は別として、中国語の「海南鶏飯」とはあまり使わず、英語でも丁寧に Hainanese Chicken Rice と言うよりも単純にChicken Rice と使う方が多かったと思います。むしろ、そう聞いてケチャップライスを連想する人はシンガポールでは皆無だったかも・・・)。2010年には既に都内で複数店舗展開をするなどして、次第にケチャップライスではなく、シンガポールの「海南鶏飯」という意味でのチキンライスが東京では徐々に浸透していきました。
そして、その後上京した時に何度か食べに行ったのが、現地で新しく人気No.1 になったという田町の「威南記海南鶏飯(ウィーナムキー ハイナンチーハン)」。因みに、個人的に「威南記」で食べるのは、現地No.1というチキンライスではなく、ここでしか食べられないローストチキンヌードルが懐かしいまさに現地のホーカーセンターの屋台の懐かしい味で、私メはここではこれ一択。
また、10年程前に次女が見つけて連れて行ってくれた、東京の恵比寿のシンガポール料理店「新東記」で食べた時に、初めてチキンライス用のダークソイソースが販売されているのを家内が見つけて購入したのですが、これも正に現地で食べたあの味でした。しかし、その後もこのダークソイソースだけは今でもなかなか東京でも入手出来ずにいます。
シンガポール料理店では、他にも麻布台の長女のマンション近くに在った「オリエンタルカフェ&レストラン」には、チキンライスだけではなくてちゃんとホッケンミーもありました。
どの店にも当然個性があり、シンガポール時代に家族全員が好きだった現地の人気店だったオーチャードのマンダリンホテルの「チャターボックス」のチキンライスとは味が多少違っても、十分びシンガポールを思い出させてくれた懐かしい味でした。
因みに、日本帰国後10年振りに初めて日本でチキンライスが食べられた時の水道橋の「海南鶏飯食堂」の食器は、シンガポールのその「チャターボックス」から払い下げて貰った食器だったのです(余談ながら、次女の航空会社勤務時代ですが、ファミリーチケットで次女と家内が二人でシンガポールに旅行した際、チャターボックスにも食べに行ったら、ホテルはヒルトンに変わり値段も二倍にアップし、当時の料理長も独立していて、昔のあのチキンライスの味ではなくなっていた由)。
そして“シンガポールの料理”という意味で、“シンガポール料理”というジャンルもタイ料理やベトナム料理などと同様に、今では我が国ではアジアのエスニック料理の一つのジャンルとしてどうやら定着しつつある様です。
 長女が渡米したので上京する機会が減ってしまいましたが、今回地元松本で食べた「ロイホ」のシンガポールフード。
我々のオーダーは、二人共やっぱり海南鶏飯(チキンライス)セット(税抜き2680円で、チキンスープと海老のサテー付き)にしました。家内はパロアルトでの思い出の懐かしいケールサラダを追加、そして私メは松本で飲めるのは望外のタイガービールもオーダー(シンガポールのモルト100%ビールです。他には同じ会社のラガービールのアンカービールが現地での定番でした)。
さて、肝心の海南鶏飯(チキンライス)は、チキンが柔らかで十二分に合格点でした。ただ、付け合わせのソースが、チリソースが小皿ではなくチキンの横に少し添えられていただけで、小皿の生姜ソースはまだ良いとして、ダークソイソースはただ“焦げ臭い”だけで、現地のそれとは全くの別物。またチキンを生姜などで煮た煮汁でのチキンスープは、塩味が勝ち過ぎ。そして何よりいただかなかったのは、タイ米です。残念ながらセントラルキッチン方式での調理済みの冷凍品なのか、香りも無くパサパサで、これでは本来のタイ米の美味しさが伝わりません。今では日本でも買えるジャスミン米などの本来のタイ米は味も香りもあって本当に美味しくて、ナシゴレンなどのヤキメシ類や東南アジア特有の“ぶっかけ飯”には、モチモチした日本米よりむしろタイ米の方が遥かに適しています。
セットに添えられていたサテーは、現地でも食べたことが無かった海老が二本。
シンガポール駐在当時、国会議事堂や国立博物館、ビクトリアホールなどが立ち並んでいた官庁街のシティーホールの、広い芝生の広場にあったのが通称“サテークラブ”で、ここにはサテーを焼く屋台が立ち並んでいました。
本来のサテーはマレー風の焼き鳥で、ピーナッツソースを絡めて食べるのが定番。モスリムでは豚肉は御法度なので、チキン、ビーフ、マトンの串焼きで、中には(カレーパウダーをまぶして焼いた)カレー味もあった様に記憶しています。
サテーは日本の焼き鳥よりも小振りで、10本くらいをまとまってオーダーしていました。日本の焼き鳥に慣れた舌にはピーナッツソースは甘いので、時にはシンプルに塩味で食べたくなったものです。でも、慣れるとその独特の味と香ばしさがとても美味しくて、今でも懐かしく感じます。今の現地の状況は分かりませんが、少なくとも当時海老のサテーは一度も食べたことがありませんでした。
しかし今回初めてサテーで食べる海老は香ばしくて、海老そのものも甘くて美味しい!そしてピーナツソースも現地の味に近く、サテーも十分合格点でした。
 たとえ夏の間のたった二ヶ月間の季節限定だったとはいえ、東京ならともかく、この田舎の信州松本でも食べることが出来た“シンガポール料理”の海南鶏飯のチキンライス。
松本にも現地出身の方が調理されている美味しいタイ料理のレストランは幾つかあるので、“カオマンガイ”はここ松本でも食べることが出来ますが、同じ中国の海南島からの移民たちが伝えたとはいえ、その後の歴史経過や現地の食文化との融合の中で少しずつ異なった方向を歩んで来ているので使うソースなどが異なり、やはり海南鶏飯とは似て非なるモノ。そのシンガポールのチキンライスである海南鶏飯を松本で食べることが出来、しかもそれが十分現地の味、或いは東京で食べることが出来る味に近かったのは思い掛けない収穫でした。
シンガポール料理店が松本に出来るのは期待薄でしょうから、毎年ではないようですが、また数年後にロイホで“シンガポール料理フェア”が実施されるのを楽しみに待ちたいと思います。そして、出来れば、チャークイティヤオやホッケンミーなど、他のシンガポールのホーカーセンターでポピュラーなローカルフードもメニューに加わらんことを願って・・・。

≪前へ | 11 / 100 | 次へ≫