カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 話が前後しますが、11月18日火曜日の夕刻6時半。
市内高砂通り(人形町)にある瑞松寺というお寺さんで、「松本落語会」の11月例会として「二つ目会」が開かれ、柳亭小痴楽さんが登場するとのこと。例会は平日開催なので、普段だと間に合いませんが、この週は特別休暇を頂いていたので、初めて松本落語会を聞きに行くことにしました。
奥さまは「落語には全く興味無し!」との即答につき、生憎の本降りの雨の中を送ってもらって、独りで行くことに。

 落語は、ビッグコミック・オリジナル連載中の「どうらく息子」を見て興味を持ち、話の中に登場する古典落語(例えば、「宿屋の仇討」はサゲだけ)のストーリーをちゃんと知ろうと思い、これまで中央図書館のCDライブラリーを順番に借りて聞いて来ました。しかし所謂“名人”の方々の音源中心で、如何に味はあっても音が悪過ぎるので、最近の「音の良い」落語も聞きたいと思っていました。
生落語は、松本に歌丸さんと円楽さんが二人会で来られ、市民芸術館へ聞きに行ったのが唯一。そこで、歌丸師匠が「どうらく息子」にも登場する「紺屋高尾」を演じられ、初めて生で聞くことが出来ました。そこで、落語は「音」だけではなく、音の無い「間」や噺家の「表情」を含めた、総合芸術としての話芸なのだと改めて認識した次第(「音」でしか知らない、小さん師匠の「禁酒番屋」や志ん朝さんの「愛宕山」などは、その好例なのでしょう)。
 調べて見ると、松本落語会は地方の落語会の草分け的存在とか。数年前に他界された先代の会長さんが勧進元となって、オイルショックの時に「街を明るくしたい」と1973年に創設され、時には私財を投げ打って40年以上も毎月例会を開催し続けて来られたのだそうで、落語界では有名な存在なのだとか。しかも演目は古典落語が中心とのこと。知りませんでした。東京に行かなければ聞けないと思っていた生落語を、毎月松本でも聞くことが出来ます。市民としては有難いことです。
落語会の会場となる、瑞松寺は源智の井戸のすぐ横。落語会の開かれる日だけは、“骨の髄から笑ってもらう寺”として、粋に「髄笑寺」と記載されています。この日の例会が、実に数えて第478回の由(再来年には500回!)。

 柳亭小痴楽さんは、「どうらく息子」でも取り上げられている「NHK新人落語大賞」(“二ツ目”の中から東西の予選を勝ち抜いた5名が本選に出場)の今年の準優勝者で、優勝者とは僅か1点差。たまたまその放送を視て、彼の話し振りに感心し興味を持ちました。しかも、五代目柳亭痴楽の息子さんで、高校を中退し16歳で父親の元に弟子入りした直後に師匠が倒れ、その後別の師匠に預けられますが、前座時代に寝坊癖でナント破門。別の師匠の元に移ったのだとか。そんな紹介通りに、今風の、謂わば“チャラ男”風の、パーマ頭のイケメンが登場。しかし、演じたのがコテコテの古典落語「真田小僧」(持ち時間は各自11分のため、前半のみ)。その見た目とのギャップに驚くと共に、“ちゃんと”古典を演じるその姿に感動すら覚え、「おお、この噺家、ホンモノだぁ・・・!」。
父上の五代目痴楽師匠も、この松本落語会に出られたことがあるのだそうで、後でHPのネタ帳で確認をしたら、ナント第一回目に「小痴楽」の名で登場されていました。
 前置きが長くなりましたが、例会では噺家(今回は二ツ目さん)が二人登場し、二題ずつ本寸法(注)で演じられるとのこと。木戸銭二千五百円を払うと、受付におられた事務局の方がリタイアされた会社の先輩で、お互いビックリ。本降りの雨のせいか、60人位は入れそうなお寺の広間に40人程でしょうか。やはりお客さんはお年寄りの方が多く、後方には足の悪い方のために椅子席も設けられていました。若い方は5人くらいしか見掛けませんでしたが、落研なのか高校生や若いOLの方たちも(頼もしい!)。
最初に、開会の挨拶で登場された会長さんもNHKの新人落語大賞(毎年、東京と大阪で交互に開催)に触れられ、「飽くまで私見ですが、もし今年が東京開催だったら、小痴楽さんが優勝していたのではないか」とのこと。
寄席らしく金屏風を背に作られた高座に、出囃子が流れる中、この日は最初に小痴楽さん。演目はお馴染みの「一目上がり」。まくらで、先程の生い立ちや前座時代の失敗談を話されてから本題へ。声に張りがあり、江戸弁はテンポが良くキレがあります。正統派の古典落語で、見た目とは大違い(まくらを含め、ちゃんと最後のサゲの「九(句)」まで40分の熱演でした)。
もう一人の二ツ目は、林家一門のはな平さん。大学の落研出身とか。31歳だそうですが、小痴楽さんの方が27・8歳でも先輩(兄さん)とのこと。
演目は、これも古典の「茶の湯」。CDでは聞いたことがありますが、ご隠居さんが点てたとんでもない茶を飲まされた時の表情は、やはり生ならでは。それにしても、一見“おとぼけ”顔のはな平さんの風貌が“与太郎”にお似合いで味があります(演目では小僧の定吉ですが)。「牛ほめ」なんかピッタリで、噺家向きでしょう。
寄席らしく、「お仲入り~」(注2)の声が掛かり、休憩中に出演されたお二人の色紙の抽選(残念ながら当らず)。
 後半は、はな平さんが先ず「林家一門得意の地噺を」と「紀州」という演目で話され、トリに小痴楽さんが大ネタの「大工調べ」。全部演じられるかと期待しましたが、やはり時間の関係で前半(上)のみ。やはり、独演会でもないと上下全部を演じるのは無理なのでしょう。
この噺は、大家相手に大工の棟梁政五郎が切る江戸弁の啖呵が一番の聞かせ処で、早口で威勢良く延々とまくし立てる口調の見事なこと。啖呵が終わると、期せずして拍手が起こりました。イヤ、この人、ホンモノだぁ!
いずれは真打になられ、痴楽の名跡を継がれることでしょう。そして、師匠となって、また松本で演じられるのを楽しみにしています。
そして、毎月一回開催される松本落語会。平日開催なので、リタイアするまでは毎回は無理ですが、また機会を見つけて、“骨の髄から笑って”ストレス発散するためにも参加させていただこうと思います。

 さて、今回の特別休暇。遠出の旅行は出来なかったものの、文学館、古典落語、美術館と、文化密度の大変濃い充実した一週間で、大いに英気を養うことが出来ました。
【注記】
「本寸法」(ほんすんぽう)・・・落語から出た言葉で、本来の寸法という意味から、省略せずにキチンと演じること。そこから発展して「本格派」の意味でも使われるとのこと。
「仲入り」・・・休憩時間。大相撲では「中入り」と書くが、寄席や落語会では「仲入り」。客席にお客さんがたくさんいるように、縁起を担いで「ニンベン」を入れるとのこと。

 松本市美術館で開催中の特別展「橋本雅邦と幻の四天王」。
嬉しいことに、11月12日の日経の文化面に『画家・孤月の足跡を照らす~大観らと新しい日本画を創造、悲運の生涯をひもとく~』と題して、元松本市美術館館長の佐藤玲子氏が寄稿され、地元市民有志による「孤月会」による孤月作品や資料の“発掘”を中心に大きく紹介されていました。

昨年3月の都美術館での「日本美術院再興100年記念」展(第834話)では、創設時の中心メンバー(評議員)の一人でもあった西郷孤月の作品はおろか、日本美術院の歩みを紹介した年譜にも孤月の名は一切無く、大変寂しく感じましたが、一時義父でもあった師雅邦の逆鱗に触れたが故に、権威ある中央画壇では消し去られた名前なのかもしれません。従って、雅邦門下の“四天王”が揃うことなど実際に幻であったのかもしれません。

 前回(第1032話)紹介させていただいた春草の「落葉」や、入れ替えで後期展示されている「黒き猫」(いずれも永青文庫蔵の重要文化財)同様に、孤月が東京美術学校助教授時代に制作したという彼の代表作「春暖」(藝大美術館蔵)も、今回生まれ故郷に里帰りをしています。
二度目の鑑賞となる今回は、美術館窓口でのアドバイスで、リピート割引で鑑賞させていただきましたが、11月20日の金曜日の午後行われた学芸員の方による「ギャラリートーク」に合わせて再訪しました。
この企画展のギャラリートークは3回共平日開催で、一応定員20名とのことですが、この日は地元出身故の“孤月人気”か、時間までに50名ほどが集まり、美術館のスタッフの方々もビックリされていました。そのため、通常は無線付きのイヤホンで説明を聞くのですが、数が足りないので、今回はハンドマイクを使って台車に載せた拡声器を展示室毎に移動させながら行われました(スタッフの皆さん、ご苦労様でした)。
説明をされた学芸員のSさんも言われていましたが、どうしても松本出身の孤月贔屓になってしまうという前提で、孤月を中心とした説明。
4人が美術学校時代の習作で描いた中で、孤月の「兎」の毛並みの描写の見事なこと。竹内栖鳳の「斑猫」を彷彿とさせます(否、負けていない!)。これらは廃棄されていた生徒たちの作品の中で、「後年、他の三人は高名だったため良い作品が人手に渡ったのに、孤月は無名だったために残ったか、或いは他のメンバーよりも優れていたのか・・・出来れば後者だったと思いたいですね」とのこと。
そして、美術学校の助教授時代に描いた大作「春暖」(藝大美術館蔵)の素晴らしさ。正に彼の代表作だろうとのこと。
また、「落葉」との入れ替えでの後期展示の目玉、春草の「黒き猫」は、猫を写実的に、背景の黄葉した柏は日本画の伝統に則って装飾的に描かれているのだそうです。その描かれているフワフワした毛並みの黒猫には、何とも言えぬ魅力があります(この絵に感化された夢二は、しばしば黒猫を抱いた美人画を描いています)。映像の世界では“闇夜のカラス”をちゃんと映せるかがポイントだと云いますが、この春草の“黒”は、本当の黒色を出すために裏側からも墨で彩色をしているのだそうです。
そして、最後に孤月の松本市美術館蔵の「台湾風景」(掲載の写真は山種美術館蔵)。
孤月が台湾を訪れた際に、画面中央に小さく書かれた現地の製糖会社の依頼で描かれたものだそうです。学芸員の方に、山種美術館蔵の同名作品との違いをお聞きしました。今のところ、「台湾風景」で確認されているのは2点だそうです。双方構図は似ていますが、左右のヤシの本数や、使われている絵具が異なり、山種蔵の方が少し明るい色調とのこと。そして、知りませんでしたが、何年か前に松本市美術館で開かれた孤月の回顧展では、二点並べて展示をされたそうです。
また、孤月の代名詞とも言える「月下飛鷺」。今回も2点が並べて展示されていました。「朧月夜に寂しげに舞う鷺に、孤月自身を重ねたのではないか」と良く言われますが、説明に由れば現在同名の作品は6点確認されていて、孤月にとっては唯一指定されて注文を取れた作品ではなかったかとのこと。
 駆け足で一時間ほどのギャラリートークが終了し、何気なく独り言的に「素晴らしいですね・・・」と漏らすと、隣におられた初老の紳士が「そうですね!」と頷かれ、お聞きすると、春草の「黒き猫」(実物をご覧になるのは40年振りだそうです)を見るために、わざわざ飯田から来られたのだとか。他にも、長野から来られた方もおり、松本だけでなく全県から集まって来られたことを知りました。
ギャラリートークの後、改めてじっくりと鑑賞するために、皆さん展示室に戻って行かれました。
 松本市美術館の「橋本雅邦と幻の四天王」展。
師の雅邦と、孤月を含めたこの四人が揃って展示されるのは、松本以外では恐らくないでしょう。その意味で本当に幻なのかもしれません。
今日(27日)午後二時から、最後となる三回目のギャラリートークが予定されている筈です(事前予約不要で、10分前に集合。入場券のみで聴講無料)。そして、この企画展の開催期間は残りあと二日。29日が最終日です。是非ご覧になってください。

 特別休暇が今月末で失効してしまうので、母のショートステイに合わせてお休みを頂き、11月中旬、ナナも一緒に軽井沢へ一泊で行って来ました。
元々は、どこか東南アジアでも行こうかと話していたのですが、先立つモノが無く(らしい・・・)、また法事が重なったりしたこともあり、近間に一泊でのプチ旅行と相成りました。
 初日は、軽井沢のアウトレットへ。週末でちょうどバーゲン期間に入ったこともあり混んでいました。それにしても、中国系のツアー客の多いこと。彼等の凄いパワーを目の当たりにして、報道されている“爆買い”を実感しました。
奥さまは、気兼ねすることなく独りでじっくりと半日掛けて品定めの上、念願のグッズを買うことが出来て満足なご様子。私メは、その間ナナと一緒に芝生の上を散歩したり、無料のドッグランで遊んだりして時間を潰し、予約してあったアウトレット内のペットホテルにナナを預けて、奥さまと合流。我々もホテルへ向かいます。
この日の宿泊先は信濃追分。中山道六十九次の20番目の宿場であり、北国街道との分岐点の追分宿として栄えた地です。「小諸馬子唄」に代表される馬子衆の歌う馬子唄が「追分節」として各地に広まり、「江差追分」を始めとする「追分節」の発祥の地でもあります。

 翌朝、ウォーキングを兼ねてその追分宿を散策し、一度訪れたかった「堀辰雄文学記念館」へ。宿場は、木曽の奈良井や妻籠のような町並は残っておらず、往時を偲ばせるのは、分岐点に立つ「分去れの碑」と本陣の裏門を移築したという記念館への正門くらいでしょうか。宿場町としては、この周辺であれば、東御市の海野宿(北国街道)や長和村の和田宿(中山道)の方が当時の面影が残されています。
 これまで、追分に泊まっても来たことが無かった「堀辰雄文学記念館」。
広い敷地の中に、旧堀辰雄邸と書庫、管理棟を兼ねた展示室と常設展示棟が建てられています。まだ新しい住宅風の常設展示棟は、それもその筈。2010年に96歳で亡くなられたという多恵夫人が、辰雄の没後に建てて夏を過ごした家とか。
堀辰雄は、師である室生犀星に連れられて、大正12年、19歳で初めて軽井沢を訪れ、大正14年には滞在中に芥川龍之介らとドライブで追分を訪れて静かなこの地が気に入り、昭和19年には追分に定住。26年に浅間山を望むこの場所に新築移転し、28年に49歳で亡くなったのだそうです。そして、終焉の地であるこの場所に平成5年(1993年)に記念館が開館したのだとか。そして、昭和9年に書かれた「美しい村」は軽井沢そのもの。
 個人的には、堀辰雄で真っ先に浮かぶのは「風立ちぬ」。
辰雄自身も結核を患った昭和6年に、富士見町の高原療養所(現富士見高原病院)に入院していたことがあり、昭和9年に婚約した矢野綾子も辰雄の紹介で高原療養所に入院し、翌年死去します。その思い出を基に書かれたのが「風立ちぬ」。フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩を辰雄自身が訳したという「風立ちぬ、いざ生きめやも」。
昭和13年に多恵夫人と結婚。辰雄の死後、自身も文筆活動を行なったという多恵夫人。病弱な辰雄との生活は、殆ど看護と看病の毎日だったと云います。直筆の原稿や書簡以外にも、辰雄の着た白いセーターやマフラー、愛用の品なども館内に展示されていましたが、セーターなど虫食いの穴も無く、没後40年近くも良く保存されていたと感心しました。「風立ちぬ」の「黄色い麦わら帽子」から連想されるのは、婚約者だった「矢野綾子」かもしれませんが、影になり、ずっと辰雄を支えて来たのは加藤多恵その人だったことを知りました。
辰雄が悩みながらも「いざ生きめやも」と記した想いを、彼女がずっとこの場所を離れずに守り続けて、その辰雄の分まで、96歳の長寿を全う出来たのが救いでしょうか。
 それにしても、師と仰ぐ犀星や龍之介(堀辰雄の東京帝大の卒論は「芥川龍之介論」。直筆の論文が展示)に始まり、王朝文学の教えを請うた折口信夫、辰雄を兄と慕い続けたという立原道造や、後年、辰雄と交流した福永武彦、そして川端康成(増上寺で営まれた辰雄の告別式の葬儀委員長。岸田今日子が故人の詩を朗読)等。まるで、近代の日本文学史の一端を垣間見るようで、文化人に愛された軽井沢を知ることが出来ました。因みに、旧邸宅の日当たりの良い居間には、高峰三枝子から贈られたという藤の椅子がそのまま置かれていました。

 学生時代の“文学少女”に戻った様な家内を含めて、感激で胸一杯になりながら見学した「堀辰雄文学記念館」。
「想像以上に良かった、ネ!」
その間、私たち以外に見学者は1名だけ。軽井沢から少し離れていることもありますが、勿体ない。ここは、アウトレット以外の軽井沢の魅力を知ることが出来る、本当に素敵な場所でした。

 入館に際して、記念館のスタッフの方々が三人で軽井沢の見学コースを一生懸命説明してくださり、
「近くの有料には停めずに、少し離れますがここに無料駐車場もありますから」と、地図にマーカーで印までつけて頂きました。
そして、「もう一つ行けば元が取れますから」と勧められて購入した町営施設の共通入場券。この記念館だけでなく、地元を本当に愛していることが伺えて微笑ましく感じました。
見学を終えて、先程のスタッフの方がアプローチの落ち葉を掃除されていたので、
「ありがとうございました、凄く良かったです。感激しました!」
とお礼を言うと、嬉しそうに、
「どうぞ、お気を付けて。良い旅を!」
俗な“おもてなし”とは違う、郷土愛と言えば良いのか、清々しい気持ちで追分を後にしました。
 その後教えていただいた地図を頼りに、紅葉で有名な雲場池(残念ながら紅葉は終わっていました)を散策してから、重要文化財の旧三笠ホテルへ。
受付で共通入場券を出すと、受付の方がビックリされて「あっ、ありがとうございます!」と満面の笑み。
「そうか、共通券で来る人はあまり居ないんだ。」
でも、ここでも故郷を愛する気持ちが知れて、ちょっぴり感動しました。

 リンゴ園の隅にある、父が植えた平種の渋柿2本。
毎年たくさんの実を付けるのですが、干し柿を母が作らなくなり、この5年くらいはそのまま剪定もせずにほったらかし。冬になると鳥のエサになっていました。
先日、ご近所の方から、もし採らないのなら干し柿用に欲しいと云われ、
「どうぞ、好きなだけ採ってください」
すると、それを聞いた奥さまが、
「じゃあ、私も今年はお母さん用に干し柿を作ろうかな・・・」との仰せ。
・・・んだば、と殆どの実が熟し始めて柔らかくなっていて些か収穫時期が遅きに失した感はありましたが、週末に出来るだけ固そうな柿を多めに収穫しました(柔らかくなった実は熟し柿にして、お正月用に使うとか)。
ヘタの部分の枝を剪定鋏でTの字に切り、皮を剥いた柿の実を紐に10個ほどずつ結わえて、風通しの良い軒先などに吊るします。
表面が乾いたら、数日毎に何度か軽く揉んで柔らかくします(そうしないとカチカチに固くなってしまいます)。
やがて、糖分が結晶化して、表面が白く粉(こ)が噴いたようになったら完成です(以上、“門前の小僧”的解説。良く祖母が夜なべ仕事で、炬燵に入ってたくさんの柿の実の皮を剥いていましたっけ)。

 ベランダの物干し竿に吊るされた干し柿。
昔ほどの数ではありませんが、「柿すだれ(簾)」の装い。昔は、どの農家でも一杯の干し柿が吊るされていて、正しく簾のような秋の風物詩でした。
それもその筈で、干し柿の生産量一位は長野県とか。特に、伊那谷の「市田柿」は全国的にも有名です。海無し県で冬の寒さ厳しい信州ですので、イナゴやハチノコが動物性タンパクの補給源だったのと同様に、干し柿も冬の保存食だったのでしょう。渋味(タンニン)が“抜けた”(注)干し柿の甘さは、砂糖の1.5倍とか(昔から、干し柿を餡に使う和菓子もあります)。
子供としては、チョコやキャラメルに比べて、然程美味しいおやつではありませんでしたが、他にお菓子が無かったのか、田舎では昔(昭和30年代)は結構食べていた記憶があります(そう言えば、「あられ」や「干し芋」も祖母のお手製、自家製だったなぁ・・・)
農作業が出来ない冬の間は、炬燵に当って(入って)、お茶受けには野沢菜漬けと干し柿・・・少なくとも四半世紀くらい前までは、信州の農家の定番でした。

 時々見ているNHK-BS「晴れときどきファーム」では、干し柿作りで、カビ防止対策として剥いた後に熱湯消毒をしていましたが、寒い信州では祖母もしたことがありませんでした。
しかし、このところ異常なほど暖かな日が続いています。今年は暖冬予想とか。例年なら雪が降ってもおかしくないのですが、また雨。カビが生えないと良いのですが、果たして出来は如何に?・・・。
【注記】
実際は渋が「抜けた」のではなく、生で食べた時に感じるタンニンの渋味が、干すことで不溶性に変わって、口に入れても溶けないために舌で感じなくなる。その上で、渋柿にも元々含まれていた糖分が、干すことで水分が減って糖度が増すのだとか。

 大好きなピアニストの一人、ポルトガル出身のマリア・ジョアン・ピリス(ピレシュとも)。
彼女の弾くモーツァルトのピアノ協奏曲(アバド指揮ヨーロッパ室内管)の内省的で何と優しいこと(好きなのはグルダとペライア、そしてピリス。少なくともモーツァルトは内田光子よりも好き)。その彼女が、松本のザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール。略称“音文”)へ登場。彼女の教えるブリュッセルのエリザベート王妃音楽院の「パルティトゥーラ・プロジェクト」の一環として、若手ピアニストとのデュオリサイタルですが、これは聴かねばなりますまい。

 11月10日夕刻。秋のハーモニーホールも風情があって素敵です。
プログラムは、生徒のジュリアン・リベールとの連弾で、シューベルトの「人生の嵐」、ベートーヴェンの後期ソナタからピリスが31番。休憩を挟んだ後半に、リベールが30番、連弾でシューベルトの4手のための幻想曲。
ステージ上に音文の喫茶室の(多分)椅子とテーブルが置かれ、ソロの時にもう一人が(袖に下がらずに)そこで座って待機するという初めて見るスタイル。
最初の曲が終わると、まだ拍手が鳴り止まない内に、ピリスが自分で連弾用のピアノチェアを片付けようとして、音文のスタッフが慌てて袖から飛び出してきました。ピリスはバツが悪そうに、まるで少女の様に微笑んでいます。
 ベートーヴェンの後期ピアノソナタの傑作、第31番変イ長調Op.110.
確か、映画「のだめ」でも使われていましたっけ・・・。第九やミサ・ソレと同時期の作品とのことですが、第三楽章の二つのフーガが印象的。
ソナタ形式で、平和から苦悩、そして歓喜へと変わって行くような印象の曲調。出だしの愛らしいフレーズから、彼女の紡ぎ出す優しくて暖かな、しかし決して甘くは無く、深い精神性を秘めたピュアな音に体が包まれて、何だか涙腺が緩んで涙が滲んできます。
決して聴衆に強いているのではありませんが、弱音の醸し出す緊張感に、いつもにも増して客席からは咳(しわぶき)一つ無く、彼女の世界の中に入って一体となっている様にさえ感じます。それが、彼女が「パルティトゥーラ」で云うところの“GRACE(神の恵み)”なのでしょうか。
第三楽章中間部の長調の和音の連打のクレシェンドが安息と勇気を与え、希望の中を圧倒的なフーガで終曲へ・・・。心地良い幸福感に包まれて、ホンの数秒間かもしれませんが、拍手もせずに「ふぅっ」と息を吐いて暫し放心していました。
 ジュリアン・リベール。ベルギーのブリュッセル生まれで、まだ28歳の若さ。繊細なガラス細工の様な、ピリスのお弟子さんらしい優しい演奏でした。そこに深い精神性が宿るのはこれからでしょう。
アンコールは、クルターク(ルーマニア出身の現役作曲家の由)の「シューベルトへのオマージュ」という初めて聴く小品でした。

 出来れば、モーツアルトも含め、ピリスのソロリサイタルを聴きたかったのですが(そのせいか、残念ながら客席は7割程度で、空席が目立ちました)、こんな松本まで来てもらって、それは贅沢というもの。ソロは一曲だけでしたが、初めて生のピリスを聴けて幸せでした。
それにしても、生で見るピリスは小柄で華奢なこと。手も、ピアニストにしては小さいのではないでしょうか。しかし、演奏を始めるとその印象は一変します。もう70歳くらいの筈ですが、彼女の奏でる音そのままに、真摯で純粋で愛らしく、何ともチャーミングな女性でした。

 10月31日から始まった、松本市美術館「橋本雅邦と幻の四天王」展(第1025話参照)へ先週末行って来ました。
 朝、母をデイサービスに送り出した後、恐らく混んでいるだろうからということもあり、10時の開館時間に合せて、朝のウォーキングも兼ねて歩いて行くことにしました(もし歩き疲れたら、帰りはバスに乗れば良いからと)。
 11月15日までの前期では菱田春草の「落葉」が展示されていて、17日からの後期には同「黒き猫」が展示されます(注)。いずれも細川家の永青文庫蔵の重要文化財指定。春草の傑作中の傑作として知られ、今回の展示の中でどうしても見たかった作品ですので、前後期二回見に行かないといけません。折角ですので、期間中三回実施される学芸員の方によるギャラリートークも聴く予定ですが、可能な日が後期になるため、特別展については後日紹介させていただくとして、今回は春草の「落葉」にフォーカスします。
開館時間過ぎに到着した美術館は、思いの外混雑してはいませんでした(これが東京なら人だかりでしょうに、勿体無い!)。お陰で近寄ったり離れたりしながら、じっくりと作品を鑑賞することが出来ました(地方の特権!)
(「落葉」のイメージ?・・・会社近くの雑木林で撮影)

 病(網膜炎と腎臓病)を患い、日本美術院が居を構えていた茨城県五浦(いづら)から失意の内に一人戻らざるを得なかった春草が、その静養先の代々木で、当時は周辺に拡がっていたという武蔵野の雑木林を散策する中で見た情景が画題になっています。死の一年前に描かれた5つの「落葉」の中での最高傑作が、今回出展された本作「落葉」(明治42年文展最高賞)です。
“凍れる音楽”と奈良の薬師寺東塔を評したのはフェノロサですが、これは優れた建築も音楽の様な形式美(例えばソナタ形式)を備えていることを指しているドイツの思想家の言葉「音楽は流れる建築であり、建築は凍れる音楽である」から引用したものとか(従って、フェノロサの創った言葉ではありませんし、「凍れる」はIce Beautyの意味でもありません)。
その意味(六曲一双の屏風で、青葉の杉と黄葉する柏を左右に配し、それを取り囲むようにクヌギやナラの幹をシンメトリー的に置いた構図)で、その“時”を切り取った画像であるこの春草の「落葉」からも、凛とした静寂の中から音楽の調べが聴こえて来るような気がします。言うなれば“静けき音楽”でしょうか。そして、その秋に流れているのは、さしずめブラームスの弦楽六重奏曲第1番の第2楽章か、サティのジムノペディか・・・。
 透き通るような不思議な透明感、と同時に、何とも言えぬ“小春日和”の様な暖かさ。後世の者故に知り得る、春草に残された僅か一年の余命故の、落葉の如くに散り行く生の儚さと常緑の杉の若木に託した永久(とわ)生の輝きか・・・と見るは、余りに穿ち過ぎでしょうか。
じっと眺めていると、何だか吸い込まれて行くようで、遠近法を越えた宇宙的な無限の深さと拡がり・・・を感じます。これが、良く云われる、等伯の「松林図屏風」との近似性なのでしょうか(第254話「長谷川等伯没後400年展」参照)。

 後年、盟友横山大観は、自身が高い評価を得ても「・・いや、春草の方がずっと巧い」と語っていたと云います。
 終わってからの帰路。少々歩き疲れたので、開智にある開運堂「松風庵」で一休み。こちらは、お城の裏手の閑静な住宅街の中にある和菓子喫茶(だそうで、私メは初めての来訪)。
松本では老舗の菓子舗「開運堂」が運営する甘味喫茶で、お茶は煎茶かお抹茶のみで、6種類ほどの生菓子との組み合わせから選べます(二つ共奥さまの胃の中へ)。
絵を鑑賞した後の、広尾の山種美術館一階ロビーにある喫茶「椿」(所蔵する速水御舟「名樹散椿」に因む。第571話参照)を思い出します。市美術館の洋芝のパティオの奥にも隠れ家的なビストロがありますが、日本画を見た後はやはり繊細な和菓子の方が似合います。山種の様に、その時の展示作品に因んだ菓子ではないにしても、こちらも「残菊」といった秋に相応しい生菓子も用意されていました(「笹巻栗蒸し羊羹」と「残月」をご所望)。
 店内の開口を大きく取った窓越しに眺める、自然を模した和風庭園が何とも心地良い。この日は、開け放たれていて、店名の通りの松と、何種類かの楓がちょうど紅葉していて、秋の深まりを感じさせてくれます。平日はご婦人方で結構混んでいるそうですが、この日は幸い我々だけ。街中に居るのを忘れるように、静かに時が流れて行きます。庭を挟んで反対側には、多分茶室でしょうか、数寄屋造りの建物もありました。
 春草の「落葉」を鑑賞した後の秋の庭に、その「落葉」を思い出しながら、鳥の鳴き声と風の音しか聞えない様な静かな秋の風情を、暫しゆったりと眺めていました。
【注記】
『国宝・重要文化財の公開に関する取扱事項について』(文化庁長官裁定H8.7.12)により、国宝・重文(美術工芸品)は常設展示を認めず、作品保護(特に光から守る)のために、公開は年間二回以内、日数は延べ60日以内、それ以外の期間は収蔵庫による保管をすべきこと、なお劣化の危険性が高いものは延べ30日以内の公開に制限がされている。その上で、展示の方法や環境等、細かく規定(例えば撮影を含む文化財の取扱いは、専門知識のある学芸員がすべきことなど)されている。書画以外の陶芸作品も塗料が変化する危険性があり、その対象。
なお、例えば東京国立博物館の考古館に展示されている、国宝を含めた出土品は美術工芸品ではないのでこの対象外。そのため常設展示されており写真撮影も可能(いつ見ても本物なので、ワクワクします)。

 11月1日の日曜日。
この日は、久し振りに登坂練習をしたいとの奥さまのご要望で、アルプス公園へウォーキングです。我が家からは遠回りに、ずっと上り坂で下岡田(神沢~塩倉)を通って東入口から公園を縦断して、南入口から蟻ヶ崎台へ下るコース。距離にすれば2.5㎞くらいでしょうか。

 先にナナの散歩を済ませてからの出発ですが、外は霜で真っ白。この日は、氷点下近くまで気温が下がったようです。
アルプス公園の東入口駐車場には何台も車が停まっていて、場内には警備員の方も。何か園内でイベントが開かれるようです。先に行く若者のグループは、お揃いのユニフォームで背中には「東北大学」の文字。
「ん、一体何やるんだろう?」
体型は皆さん華奢で、ガチガチの体育会系という雰囲気ではありません。
準備中らしい家族広場に行ってみると、何やらバナーが張られていて「オリエンテーリングクラブ7人リレー in松本アルプス公園2015」とのこと。ナルホド、オリエンテーリングの大会(しかも全国規模の)の様です。昔流行ったチーム制(野外でのリクレーションとして実施)ではなくリレー競技の様ですが、本来は地図を読みポイントをクリアしながらタイムを競うスポーツの筈ですので、結構ハードかもしれません。ここは71haの広大な公園でアップダウンもあるので、オリエンテーリングには向いているのでしょうか。
 さて、公園内のモミジや桜などもすっかり紅葉していました。
それから、いつもの北アルプスが展望出来る広場へ。この日は快晴で、白馬方面の後立山連峰までクッキリと望むことが出来ました。しかも、大町以北の峰々の山頂部は白く雪化粧をしています。常念も威風堂々の佇まい。
この日は、朝冷え込んだため、市街地はそうでもありませんが、奈良井川と梓川に挟まれた、足元の島内地区から安曇に掛けて朝霧に覆われていて、高台のアルプス公園から眺めると、雲海の様な“霧の海”(注記)の上に北アルプスが浮かぶように並んでいます。
我が家からすぐの所での絶景に暫し見惚れていました。
 余談ですが、帰りに蟻ヶ崎台を下って行くと、リード片手に小走りでウロウロしているご婦人が。そこで、
 「犬種は何ですか?名前は?」
 「ビーグルです。○○です」
 「上の方には放れた犬は居ませんでしたヨ!」
手短に最低限をお聞きして、周囲を見ながらそのまま坂を下って歩いて行くと、暫くして、ご主人の運転される車に乗ったご婦人がお辞儀をされて下から坂を上って行かれました。その様子から、どうやら見つかったようで、こちらもホッと安心した次第。
 「あぁ良かった、良かったー!」
 「もしナナが居なくなったら、ホント、気が狂っちゃうよネ!」
飼い主は、皆さん同じ気持ちでしょうね、きっと・・・。
【注記】
霧で有名な広島県の三好盆地ほどではありませんが、周囲を山に囲まれて市内に何本もの川が流れる松本も、秋になると“盆地霧”が発生します。
特に梓川と奈良井川が合流して犀川となる島内地区は、ちょうど中州のような立地のためか、以前島内の事業所に勤務していた頃は、朝の通勤で市内から奈良井川に架かる新橋を越えると急に濃い霧に突入するという日が何度もありました。
因みに、霧と靄(もや)の違いは、気象用語で云う「視程」(視界の利く距離)の差。なお、霞(カスミ)というのは気象用語ではないのだとか。
霧と靄(もや)の区別は、視程1㎞以下が霧で、1㎞から10㎞が靄だそうです。そして、100m以下になると、陸上では「濃霧」と呼ばれるのだとか。
そして、雲と霧の違い。どちらも空気中の水蒸気が飽和点を越えて水滴になったもので、層雲という雲で地表面に発生するものが霧だそうです。従って、高台や山の上から見れば、霧も“雲海”と呼んで良いのかもしれませんが、秋の移動性高気圧に覆われて地面が冷やされた、放射冷却に拠り発生する「放射霧」の朝霧は気温が上昇すると消えてしまい、その後は快晴となるのに対し、天候そのものが曇りの日でも、雲より高い山頂からは雲海を見ることが出来ます。

 先々週(10月下旬)の夕刻に諏訪で会議があり、電車で松本から上諏訪に移動しました。久し振りの松本駅ですが、二年くらい前?から中央東線も主要駅(松本、塩尻、上諏訪等)だけは、Suicaが使えるようになっています。

 電車に乗る前に、少し遅めの昼食を松本駅で取ることにしました。
そこで、今まで気になっていても一度も食べたことが無かった、アルプス口(西口)の「谷椿」へ。こちらは昔からやっている良心的な焼肉屋さんで、夜は何度か(肉食系の若い連中を連れて)伺ったことがあるのですが、昼は初めて。お目当てはラーメンです。
「谷椿」は、夜は焼肉やホルモンを格安(一人前の量も半端ない)で提供してくれる昔からの人気店。気さくな年配のご夫婦が営む店内は、長年の油が染み込んでいて(年季の入ったジンギス鍋を火に掛けると、自然に脂が滲み出て来ます)お世辞にもキレイとは言えませんが(ちゃんと掃除はされているので清潔です!)、何とも言えない“昭和の雰囲気“が漂う庶民的な店(一見、ややDeepな雰囲気で、少なくとも若いカップルのデート向きの店ではありません)。昼はラーメンや定食などを提供されていて、一度は食べて見たかったのですが、今までその機会がありませんでした。
昼は14時までという営業終了時間の15分前に入店で、店内には誰もいませんでしたが、快くオバサンに迎えてもらえました(何故か、ここは入口が二つあり、どちらからでも入れます。恐らく、夜お客さんが一杯だと、壁に張り付くような席があり、一ヶ所の入口からでは通れないためだと思われます)。
先にお茶と付きだしで小皿に山盛りになった自家製の白菜の浅漬け。その後出されたラーメンは400円(チャーシューメンだと550円)と、信じられない様な一昔前の値段です。実に素朴でオーソドックスな鶏ガラスープの醤油ラーメン。これといった特徴や最近の流行とは程遠い、極々普通の“中華そば”ですが、何とも懐かしくて優しいラーメンでした。ごちそう様でした(あっ、イケナイ!大盛りにすれば良かった・・・)。

 Suicaで改札を抜けて駅のホームへ降りてみると、構内に新型スーパーあずさの試験車両(量産先行車)のE-353 系が現行のスーパーあずさと並んで停車していました。試験走行が開始されて半年近くなるでしょうか。一度は実物を見てみたいと思っていました。報道陣だけではなく、8月だったか、一日だけ一般公開もされてニュースになりました。
 このE-353系は、1993年に投入された現行スーパーあずさのE-351系の後継として、JR東日本が開発を進めている新型車両です。351系は、カーブの多い中央東線で速度を落とさず走行可能な「振り子式」なのですが、人によって乗り物酔いするなど乗り心地への評価が余り芳しくなかったこともあり、353系では、JR東日本の在来線車両としては初めて「空気バネ式車体傾斜制御」が採用され、振り子式同様にカーブでも速度を落とさずに走行し、且つ乗り心地も改善されているとのこと。車体はアルミ合金採用だそうです。
NEXのE-259系をベースに、最近では北陸新幹線のE-7も手掛けた、KEN TOKUYAMA DESIGNがデザインを担当とか。なかなか未来的なデザインですが、「あずさ」の名前に相応しい爽やかさも感じます。2016年1月まで松本駅をベースに走行試験を行い、その後の量産車量に反映されるのだとか。
 そうすると、デビューは2017年頃になるのでしょうか?
E-353系の最高速度は現行351系同じ130㎞/hですが、PC用に全席コンセントの設置やLED照明などで車内の快適性を高めた車両とか。
新幹線もリニアも通らない松本ですので、開き直って(本当は、せめて2時間で新宿まで行って欲しいのですが、山梨県内のカーブ箇所を改善し、都内の中央線が複々々?線化されないと無理だそうですので)、観光的には「都心から“近くてちょっぴり遠い”(一泊せざるを得ない)観光地」でも良いのではないでしょうか。何なら安曇野へSLも走らせて・・・。とは言え、昭和のSLと対峙して、近未来形の新型スーパーあずさが中央東線を疾走するのも今から大いに楽しみです。

 話題が相前後しますが、今ちょうど見頃を迎えていますので、順番を変えて先にご紹介します。

 諏訪地方の紅葉スポットである茅野市の長円寺に、11月3日文化の日に行って来ました。
長円寺は真言宗智山派清龍山と号するお寺で、1649年の創建とか。本山が明治初めに(県内の真言宗寺院は全て)高野山から京都智積院に移された際に、本山から取り寄せて境内に植えたモミジ「一行寺楓」が100年の時を経て今では大きく成長し、参道の杉並木とのコントラストで、秋には見事な紅葉を見せるのだそうです。名前は以前から聞いていたのですが、京都のお寺でもないので、然程とは思っていませんでした。それが、いつも給油するGSにたまたま置いてあった信州の紅葉スポットを紹介するフリーマガジンの表紙写真が長円寺で、その余りの見事さに行ってみることにしたもの。
調べてみると何のことは無い、茅野市玉川にある家内の実家から徒歩10分程度とか。“灯台下暗し”でした。
 当日は、先に家内の実家に届け物をしてから、義父母も一緒に車で出掛けました。20台弱停められそうな境内の駐車場は、半分以上の県外車でほぼ満車。飛び石連休で、蓼科や白樺湖に観光で来られたついでか、或いは別荘族の皆さんかもしれませんが、なかなか大したものです。
 お寺は思いの外小さく、一行寺楓も十数本でしたが、その燃えるような真紅一色に染まった紅葉は実に見事。タイミングもあるのかもしれませんが、普通のモミジの様な黄色や緑のグラデーションが無く、枝垂れ気味の枝の葉全てが真っ赤に染まっています。樹齢300年という参道の堂々たる杉並木の緑色とのコントラスト(注)、また静かに並んだ石仏百体観音とも相俟って、本当に見事でした。この時期には夜のライトアップもされるそうで、確かにこの真紅の一行寺楓の紅葉は一見の価値あり。例年ですと、11月3日から8日くらい迄が見頃だそうですので、今週末に行かれては如何でしょうか。
場所は、茅野市玉川穴山地籍。義父によると、俗にいう御柱街道(上社の山出しで御柱が通る道)沿いとか。玉川小学校入口の信号から上ってすぐ。大きな杉が目印です(大きなお寺さんではないので駐車場は広くありせんが、すぐに出て行く車もあり、暫く待っていれば停められると思います)。
 実家への帰路。ショートカットの狭い田んぼ道から眺める八ヶ岳が、前に遮る物が何も無くて、これまた見事。裾野を大きく広げた山頂は薄ら白く、峰々が堂々と聳えています。
「いやぁ、キレイだなぁ・・・」
秋の八ヶ岳も、長円寺に負けず劣らず、どうしても車を停めて撮影したくなる程の素晴らしさでした。
【注記】
緑の葉の中の真っ赤なザクロの花に由来する“紅一点”と言う様に、赤と緑は所謂反対色。緑と赤は色相環(Color circle)での反対側にあり、補色(反対色/対照色とも)と云う。

 前回の朝の街角ウォーキングでの喫茶「珈琲まるも」に続き、今度は市内の老舗ホテルである「花月」の喫茶店「コーヒーショップ花月」へ行ってみることにしました。こちらは有難いことに、早朝7時の開店です。

 週末の日曜日。先にナナの散歩を済ませ、その間に家内が家の中の用事をして、6時半過ぎの出発となりました。
ゆっくりと住宅街を下りながら、今回も松本城公園を通って上土のホテル花月へ向かいます。
この日は快晴で、多少の霞と常念には少し雲が掛かっていましたが、お城の背後には“北アルプスの城下町”に相応しい風景が広がっています。有明山後方の後立山連邦の山頂が、雪化粧で少し白くなっていました。
 7時半頃の到着。既に5~6人のお客様が、朝のコーヒーを飲みながら思い思いにくつろいでおられます。
ホテルなので朝早い開店かと思ったら、宿泊客の朝食用にはホテルの本館にレストラン(「寿城」)があるそうなので、こちらのコーヒーショップはむしろ地元客や観光客用のようです。早朝散歩には有難いことです。
花月のモーニングセットは、ABCの三種類が用意されていました。野菜サラダが添えられた目玉焼きかスクランブルエッグの卵料理、もしくはフルーツヨーグルトが選べます。値段はどれも700円。私が目玉焼き、奥様はヨーグルトを選択。どちらも厚切りのバタートーストとコーヒー(ブレンドかアメリカン)か紅茶が付いてきます。
更にバタートーストには、イチゴとブルーベリーのジャムがそれぞれ添えられています。肝心のコーヒーは、酸味はありませんがマイルドな味わい。どちらかというと、個人的な味の好みは「まるも」。トーストも食感は「まるも」の方がフワフワしています。どちらも大変リーズナブルですが、見た目と選択肢(特に女性にとっては)で、モーニングセットとしては花月の方が好まれるかもしれませんね(奥さまも満足されていましたから・・・)。
私的には、「まるも」のモーニングセットに「ゆで卵」をプラス(勿論その分の料金も追加)してくれれば、ベストかな・・・。
 敢えて「松本ホテル」と冠するように、市内でも老舗ホテル(明治29年開業)である「花月」は、全館の調度が松本民芸家具で統一されていて、その格調の高さで知られています(宿泊代は意外とリーズナブルで、市内のシティホテルと然程変わりません)。
そして、こちらのコーヒーショップも同様に松本民芸家具で統一されています。ただ、同じレトロな雰囲気でも、「まるも」に比べて店内が明るく、重厚というよりもむしろエスプリ漂うような洒落た雰囲気でしょうか。どちらが好みかは、それぞれの嗜好次第。因みに、「花月」ではBGMにピアノトリオのジャズが流れていました。

 さて、あと市内の老舗喫茶店で残るは、駅前通りにある「珈琲美学アベ」のモーニングでしょうか・・・。