カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 私が普段家に居るので、奥さまが出られた時は“夕食当番”を仰せつかっております。冷蔵庫の中など、家にある食材を使って如何に作るかが腕の見せ所・・・とまぁ言えれば良いのですが、そうとまでは云えずに、cookpadなどのネット検索レシピのお世話になることもしばしば。
食材を家にあるものに変えたり、調味料を変更したりと、多少独自にアレンジすることもあるのですが、そうした中で最近奥さまからの大絶賛レシピがこちら。
それは、クックパッドで「揚げない鶏肉の唐揚げ★甘酢醤油」として紹介されているレシピです(https://cookpad.com/recipe/938954)。

オリジナルレシピは鶏のモモ肉ですが、我が家では奥さまがウォーキング後のエネルギー補給用にムネ肉で作る燻製ハムを常備していることもあり、ヘルシーで且つコスパも良いのでムネ肉(今回は、ソテー用に下ろしてパック詰めされたもの)を使用してみました。
 モモ肉に比べ、ムネ肉は低カロリーですが、その分パサパサしてしまいがち。でも、このレシピは良く漬け込んで下味を付けたムネ肉に片栗粉をしっかり塗して多めの油で炒めるため、結構ジューシーに仕上がります。また味付けも、酢が良く効いて美味。また、このタレがドレッシング代わりにもなるので、肉の下にレタスを多目に敷いてサラダ風に食べることが出来ます。
 ムネ肉とレタス、それに甘酢ベースでもあるので、低カロリーでヘルシーな一品です。お試しあれ。

 毎朝、早い時間にナナの散歩に行っていますが、我が家のナナはシーズーなので、飼い主にとっての運動効果はあまり(全く?)期待出来ません。例えば、同じ小型犬でも、大元の祖先が猟犬(鴨猟)だった(スタンダード)プードルから改良されたトイプーとは活発さが違います。因みに、片や我がシーズーは、中国語での「獅子狗(シーズークゥ=獅子犬の意)」が語源である通り、元々中国の歴代王朝の宮廷犬として門外不出の愛玩犬だったせいか、本当に“不活発”。例えば、ドッグランに連れて行っても他の犬種の様に走り回ることがありません。

 そのため、奥さまが毎朝「大門沢ウォーターフィールド」(松本市陸上競技練習場)にウォーキングに行っていて、トレッキングやウォーキングイベントでその効果を自覚しているらしく、
 「(不健康にならぬよう)一緒に歩こう!」
との有難いお誘い。
しかし、長野オリンピックの時の某長野県知事のスピードスケート競技に対する“ミズスマシ”発言ではありませんが、トラックをグルグル周るだけのウォーキングは(景色が変わらず)面白くないので、一緒にトラックを回るのは断固拒否。
そこで、一緒にウォーターフィールドまでは行って、その後彼女の周回終了時間に合わせて、その間一人で周囲の里山の速歩をしています。奥さまの4周分の周回と同じくらいなので、距離にして1.5㎞程度でしょうか。その間、日々刻々と少しずつ、でも確実に変化して行く“自然の移ろい”を五感で感じながらのウォーキングです。
 
ウォーターフィールドからは、城山山系の向こうに山頂がチョコンと覗く常念も、少し歩くとキレイな三角形の山容を見ることが出来ます。
また、城山から芥子坊主に至る城山山系の里山が目の前に拡がり、この時期は里山の新緑が実に目に鮮やかです。正に“目に青葉”。更に田植えの終わった水鏡の田んぼと青い麦畑。
 この時期は里山のあちらこちらが白い斑模様に彩られています。“アカシア”の花です。今ではハチミツ採取の大事な花でしょうか。そのため、花に甘みと芳香があることから、昔信州では珍味として天婦羅で食べられていたこともありました。マメ科のハリエンジュ(針槐)が正式名称で「ニセアカシア」として知られますが、成長が早くて荒地でも育つことから、明治になってから輸入された北米原産の落葉広葉樹。しかし、高木の割に根が浅く倒れ易いことから河川敷などでは伐採されており今や有害で厄介者扱いですが、この花の時期だけは、養蜂家の方々だけではなく、我々にも何となく風情を感じさせてくれます。

 4月10日に放送された、NHK総合「プロフェッショナル-仕事の流儀」。放送開始から変わらないスガシカオのテーマソングが実に印象的です。
そして今回登場したのは、(ナント?)落語家の春風亭一之輔。師匠自ら「オレを取り上げるなんて、NHKもネタ切れかよ!?」と、いつもの毒舌ぶり。
以前放送されていたテレ東系(BSジャパン)『酒とつまみと男と女』での進行役を懐かしく思い出しました(但し、今回はシラフです)。
 春風亭一之輔師匠は、当代きっての売れっ子噺家で、2012年に人間国宝柳家小三治師匠の推薦により、21人抜きで真打昇進をしたという逸材。
番組の中で、高座風に師匠自ら生い立ちを語ったところによると、高校でラグビー部に入部したものの、自分のミスでチームメンバーに迷惑を掛けるのに(仲間に申し訳なくて=「だって、せっかくトライ寸前まで行っても、もしボールを取られたら皆でまた元に戻らないといけないんですよ!」)耐え切れずに1年で退部。ご両親曰く、翻意を促しに家に来る仲間にも会えずに、親に代わりに断ってもらう程の気弱な“小心者”だったとか。
その後何の目標も無く、ぶらぶらしてたまたま入った浅草の寄席で聞いたのが五代目春風亭柳朝師匠の落語。誰にも迷惑掛けずに、一人で世界を作るのに感動し弟子入りを志願。大学卒業を待って、柳朝の総領弟子だった一朝師匠に弟子入り。師匠も感心するほどの稽古熱心で、200近い古典落語のネタを持つとか・・・。高座に上がって、客席の雰囲気を見てその場でネタを変えてしまうこともあるのだとか・・・。
即完売の独演会(時に彼らしく“毒炎会”と銘打って)は勿論、30人足らずの地方の落語会など年間の高座900席とか。尋常な数ではありません。席への移動中、録音した噺をイヤフォンで聞き、ブツブツと呟きながらの練習に予断がありません。とにかく目の前のお客さんを如何に笑わせて楽しんでもらうか。一途に、一心に、ただそれだけ・・・。

 これは放送ではなく、以前ご紹介した落語についての雑誌記事(第1186話)で、読売新聞企画委員の長井好弘氏が噺家の師弟関係を紹介した文章の中で、
『(前略)一之輔が21人抜きで昇進した披露興行では、師弟のバトルが繰り広げられた。 
 鈴本演芸場の披露目で、一之輔は毎日ネタを変えた。それに気付いた一朝も「それなら俺も」と十日間、違うネタを演じた。もともと楽屋では口数の少ない師弟だが、バトルについてはひとことも触れない。舞台が新宿末広亭に移っても、一之輔は同じネタを演じない。「面白えじゃねェか」と、一朝も連日ネタを変え続けた。そして、新宿の四日目、ついに一之輔が頭を下げた。「師匠、もう勘弁してください」。14日目の休戦。よきライバルというべきか、おとなげないとあきれるべきか。(後略)』

 放送が終わり、再開されたEテレ『落語ザMOVIE・E』にチャンネルを変えると、ナント偶然にも(もしや意図的?)春風亭一朝師匠が「目黒のさんま」を演じておられました。
 この週末、5月27日に開催される「第18回まつぶん新人寄席」(真打昇進披露興行)に、何と“前座”で春風亭一之輔師匠が来られるとのこと(第1177話参照)。今から大いに楽しみです。

 奥さまが昼食を兼ねてお友達を我が家にご招待というので、居ては邪魔だろうと、その間独りで外出することにしました。
行先は頼まれたホームセンターでの買い物と、会社の大先輩の作品も展示されている松本市美術館の市民ギャラリーでの写真展を見学し、最後に図書館でのCD借り換えと時間までの読書(中央図書館では各種雑誌も置かれていて、dマガジンでは配信されない「音楽の友」と「レコード芸術」も閲覧出来ます)。

 出掛けに、ちょうど昼時前でもあったので、家内からはご友人と二人で食べるために準備したランチメニューを、
 「先に食べて行ったら?」
との有難い仰せに、
 「ウン、いいや。どこかで適当に食べるから・・・」
と誘いを振り切って、独りでないと食べられないモノ・・・例えば、ラーメン、たけしやの焼きそば、インドカレー・・・どれも奥さまが余り好まれない私メの大好物・・・が既に頭の中をグルグルと飛び回っていたのであります。ムフフ・・・。
そこで、今回はインドカレーのお店に初めて行って見ることにしました。

 シンガポールで大好きだった「北インド料理」(観光的には“バナナリーフ”が有名ですが、あれは南インド系で好みに合わず。北インド料理は、もっと繊細で洗練されています)。期間が空くと禁断症状が出て、赴任中少なくとも月に一度は友人と「モティ・マハール」(Moti Mahal)へ食べに行っていました。
残念ながら、少なくとも信州では本格的なインド料理店を見つけるのは至難の業。帰任後、懐かしくて、どうしても食べたくなって色々探して何度か食べに行ったのですが、日本風にアレンジ“され過ぎた“インドカレーだったり、“インド”と言いながらネパールやスリランカ料理だったり・・・。以前、唯一市内で見つけた某北インド料理店は、インドから取り寄せたという釜で焼くタンドーリチキンやサモサの味は本格的でしたが、肝心のカレーがイマイチ。しかも、使っている油が古過ぎるのか、家内は途中で気持ちが悪くなって食べられませんでした(私メは食後も含め何ともなかったのですが、以来奥さまはインド料理には拒否反応)・・・と思ったら、短期間で数年前に閉店してしまいました(郊外に「南インド料理」の店があるらしいのですが、飽くまで個人的な好みは、“カレー”と一言で括ってしまっては申し訳ない程に、繊細で且つ洗練された「北インド料理」です)。

 最近、松本の裏町にある「はしご横丁」内に北インド家庭料理の店があると知りました。それが、2016年3月にオープンした「Doon食堂 印度山」という一風変わった名前の店で、ちゃんとインド人の方が調理しているとのこと。因みに、Doonというのはインドのご主人の出身地からの命名とか。
 「はしご横丁」というのは、嘗て県内随一の賑わい(明治期には、裏町だけで置屋14軒で芸妓200人。その後最盛期にはスナック・バーが250軒)と云われた“夜の街”「裏町」の再生のために裏町商店街の人たちが協同組合を作って検討した結果、再活性化策として10年程前に誕生した10数軒の屋台村です。これまで、何となく駐車場が無さそうだったので「はしご横丁」には行ったことはありませんでしたが、調べると道を挟んだ反対側(魚長鮮魚店)に8台分の駐車場があることが分かり、今回行ってみることにしました。
 「はしご横丁」は夜がメインなのか、昼間営業している店は少なく(空き店舗も目立ちます)、インド料理の店はすぐ分かりました。
「印度山」は2坪程の小さなお店で、3人掛けのテーブル席が2卓あるだけ。先客のご夫婦が食事をしておられ、私は別のテーブルへ。メニューは、チキンカレーとキーマカレー(各880円)と日替わりカレー(この日は豆のカレーで780円とのこと)の3種類のみ。私メは先ずはインドらしいチキンカレーを注文。ご飯(残念ながらインディカ種ではありませんでしたが)と後から焼きたてのチャパティも供されます。ナンはタンドールという釜で焼きますが、家庭にはタンドールが無いので、一般的に普段家庭で食べるのは全粒粉を使った薄焼きのようなチャパティなのだそうです。
カレー皿に付いているのは、ひよこ豆の粉を焼いた煎餅の様なパパドで、崩して一緒に食べるとパリパリして違った食感が楽しめるとのこと。
カレーは予想以上にフルーティーでマイルド。甘味もあります。個人的にはもう少しサラッとした方が好みですが、複雑に絡み合ったスパイスのコクが効いて懐かしい本格的な味わい。インドにおられるお母上の味がベースで、ご主人ご自身が調合した30種類のスパイスを直接インドから取り寄せているのだそうです。好みの辛さは、小瓶に入ったチリパウダーで調節します。
 大柄で話好きのご主人が、松本出身の奥さまと(週末だったこともあり)小学生のご子息の三人で店を切り盛りされていました。その後、グループ等のお客さんも来られ、当然相席の上、屋外にある横丁内のテーブル席も利用。結構お客さんが来られるようで何よりです。
聞かれるまま、シンガポールでのインド料理のことや出張でインドに行った時のことなどを話していたら以前の勤務先を当てられ、ご自身も奥様と知り合われた後、私のいた会社の塩尻市内の事業所に10年近く勤めた上で、念願だったこの店を昨年オープンされたと知りました。
イケメンのご子息も丁寧に接客し、レジも担当していました。小学生と思えぬほど敬語もしっかりしていて、ご夫婦で良い躾をされていると感心しました。
 「日本一小さなインド家庭料理」と書かれているだけに、優しい家庭の味。カレーが3種類しか無いのは残念ですが、ご夫婦だけで余り手を拡げずに、却ってこのままでイイのかも・・・。最後に紅茶もいただいて、
 「ごちそうさまでした。また(独りになれたら)来ます!」
ナンやタンドーリチキンはありませんが、インドの優しい家庭料理が松本でも食べられました(どうか、末長く続きますように・・・)。
【追記】(本当に美味しいインド料理店を探す難しさの一例として敢えて記載)
八ヶ岳リゾートアウトレット内にあった“本格的”某インドカレーの店。関東に何店舗か展開していて、近頃リニューアルした岡谷のショッピングモールにも出店しているとか。
珍しく、テラス席だけではなく店内にもワンコOK席があったので有難く入店。タンドール(釜)もちゃんとあるらしく、ナンとのカレーセットを注文。そして、タンドーリチキンとチキンティッカのセットも。
ナンは美味しくてカレーもまずまずだったがコク(深み)が無い。酷かったのはチキン。タンドーリもティッカも焼き過ぎてパッサパサ。ジューシーさの欠片もない。味も、漬け込みが甘いのか、酸味と云うかタンドーリソース独特の深みが無い。これじゃ余りに酷過ぎる・・・。
 「あぁ、またMoti Mahalのインド料理が食べたい!」

 松本市美術館で4月21日から6月11日まで開催されている特別展、「堤清二~セゾン文化と云う革命をおこした男~」展。
その関連プログラムとして、4月29日にギタリストの鈴木大介さんによる「ミュージアム・コンサート~ギターで奏でる武満徹~」が開かれ、聴きに行って来ました。
 セゾングループを一代で築き上げた堤清二。自身、辻井喬というペンネームを持つ詩人・作家として、三島由紀夫を始めとする多くの文化人との交流を通じ、「おいしい生活」に代表される様に、文化にまで影響を与えたパルコや無印良品などの事業展開。そして単に事業経営に留まらずに、そして現代美術を中心としたセゾン美術館やパルコ劇場といった文化事業の中で、音楽についても武満徹プロデュースによる世界の現代音楽を紹介する「MUSIC TODAY」を展開。生前、その“世界のタケミツ”が評価したギタリストが鈴木大介氏。彼は、NHK-FMの「きまクラ」の初代MCとして、二代目の笑福亭笑瓶師匠に引き継ぐまで、6年間に亘ってMCを担当されており、その喋りも定評あるところ。現「きらクラ」でもゲストで何回か登場し、そこで氏の演奏にも触れて興味を持っていました。その氏のコンサートが、地元松本で、しかも(特別展の観覧券が必要ですが)無料で聴けると知り、早速予約をした次第です。
因みに、堤清二氏は松本市美術館の初代顧問。地方美術館の、地味ながら独自の方向性に共感し(特別展に寄せた作詩を通じて)精神的に支えて下さったのだそうです。

 当日は先に観賞を済ませます。中西夏之などの気に入った作品はあったのですが、現代美術は正直良く分かりませんでした。むしろ、堤清二氏の松本市美術館の企画展に寄せた「詩」に心打たれ、じっくりと黙読しました。言葉は悪いのですが“妾の子”故に、若き日には、父や体制への反発もあったのでしょうが、「辻井喬」という人間になって紡ぎだされた「詩」には、氏の純粋さと清廉さに裏打ちされて、本質を見つめようとする深い精神性を感じました。曰く、
 『 夜 かすかな光の先にあるものを  
   あえて無名性の輝きと名付ければ
   ゆえある傲慢の風にこそ梢が揺れるのが分る
   だから星が瞬くのは淋しいからだとしても
   月の光に梢は挫折の栄光を受けて輝くのだ      』

(辻井喬『月光の中の梢』【西郷孤月展に寄せて】より一部抜粋・・・恐らく、詩と一緒に展示されていた孤月の代表作『月下飛鷺』をイメージし、孤月の不遇な生涯を重ねての詩作だと思われます)
 その後外へ出て、一旦昼食を取ってから改めて再度入館。会場は美術館の多目的ホールで、定員80名。事前に満員で予約を打ち切った由。鈴木大介さんの人気も勿論ありますが、展覧会のチラシの裏にギャラリートークなどと一緒に小さく案内があっただけなのに、(自分も含めてですが)皆さん目敏いと感心するばかりです。
当日のプログラムは、当然のことながら全て武満徹作品。96年に亡くなられた最後の作品「森のなかで In the Woods」も演奏されましたが、親しみやすいポピュラーな作品を編曲した「ギターのための12の歌」からの3曲や、映画音楽も。あっという間の1時間でした。
盛大な(と言っても定員80人と+αの美術館スタッフからの)拍手に応えて、アンコールに、NHK-FM「きらクラ」だったかでも流れて、今回も是非聴きたかったビートルズナンバー「Yesterday」(「ギターのための12の歌」から)、更に映画音楽の「燃える秋」と「信州が舞台の映画だから今日の最後の曲に」という「今朝の秋」と3曲も弾いてくれました。「イエスタデイ」の生演奏が実に良かった!です。ハイファイセットの歌った「燃える秋」もタケミツ作品だったことを初めて知りました。
 美術と音楽の融合・・・何とも(無料だからもありますが)贅沢な、そして至福の時間が流れて行きました。
(想えば、国内のそれまでの権威や伝統に抗ったタケミツや草間弥生を最初に広く認めたのは海外であり、その結果、当初無視されたり評価されていなかった国内でも掌を返したような絶賛を集めます。その二人が、同じ場所で“共存”しているのが何とも感慨深い)
 その後、今季の新収蔵作品の「おひろめ展」を鑑賞。
中でも、松本ゆかりの西郷孤月の「富士」に感動。大観の様な威風堂々とした華やかさではなく、何とも落ち着いた滋味豊かな作品。一時は“橋本雅邦門下の四天王”と言われながら、その後の大きな境遇の違い。そう想って見るせいか、大観の富士とは異なる、悲しみにも似た孤高の渋さが感じられ、暫し絵の前に佇んで鑑賞していました。故郷松本へ「お帰りなさい!」・・・でしょうか。
【追記】
後日、市民ギャラリーで開かれている「写真講座写真展」に会社時代の大先輩も出展されているので見学に伺った際、美術館のパティオで「工芸の五月」の関連イベントとして工芸作家の作られた子供用の椅子が並べられ、自由に座りながら地元?のフォルクローレグループの演奏を楽しまれていたので、私メもちょうど演奏されていた「花祭り」を暫し聴き入っておりました。この市美術館の洋芝のパティオ、結構好きなんです(パティオを挟んでビストロもあって、穴場だと思います)。

 街中では桜の散った後は、春の主役交代とばかり、街路樹のハナミズキが鮮やかです。
東京から贈られたポトマック河畔の桜の返礼としてワシントンから贈られて来たハナミズキ(アメリカヤマボウシ)が、桜に代わって街を彩るというのも何となく意味有り気・・・。1915年と云う“初来日”から僅か100年で、すっかり日本に定着しています。

 我が家でも芝生ガーデンの紅白のハナミズキが咲いて、我が家の花壇も春爛漫でした。
雑木林風ガーデンの樹下に拡がるクリスマスローズ。毀れ種で増え、花の無い早春から色とりどりの花で目を楽しませてくれました。この時期は、クリスマスローズに加えてグランドカバー(ground cover plants)のポテンチュラの黄色い小花が目に鮮やかです。

 階段状花壇も春の装い。ビオラやパンジーに加え、チューリップなどの球根も花を咲かせ、階段毎に、奥さまの趣向で白黄色、赤ピンク、青紫系に色分けした花々がキレイです。併せて、芝生も芽吹いて紅白のハナミズキが芝生ガーデンに色を添えています。
 玄関の鉢植えも、奥さまの日頃の世話の甲斐があり、春の装い。
シンビジウムも、ミルキーウェイが3年振りか、3鉢全てに花が咲きました。こちらも、まさに春“蘭”漫と云ったところ・・・でしょうか。

 本ブログでもこれまで何度か紹介させていただいた、ハルキ文庫書き下ろしの高田郁著「みをつくし料理帖」(全10巻)。
(本来は「髙」“はしごだか”だそうですが、通常変換出来ないので、普通の「高」で表示します)

 5年程前に、TV朝日で北川景子主演によりドラマ化されましたが、トレードマークの八の字の太い眉毛を“下がり眉”と憧れの浪人小松原からあだ名で呼ばれる主人公「澪」にそぐわず(むしろ、絶世の美女「あさひ太夫」となる幼馴染の野江の方が北川景子のイメージは近かったので)、殆ど放送は(活字からの自身のイメージが崩れるのを避けるべく)視ませんでしたが、ここでNHKがBSではなく総合TVで放送するとのこと。

 今回主演で演じるのは「真田丸」での「梅」の記憶も新しい若手演技派女優、黒木華。主人公「澪」のイメージに前回の(美し過ぎた)北川景子よりも“下がり眉”的には遥かに近いだけに、個人的には大いに期待しています(他の女優では、イメージ的には松岡茉優でしょうか。同じくNHKでドラマ化された高田郁著「銀二貫」でも登場していましたが)
因みに、他の配役を見ると、あさひ太夫が成海璃子。小松原の旦那は森山未来。物語で重要な雰囲気を醸し出す「芳」は安田成美。源斎先生にはNHK-BS「一路」で主役を演じた永山絢斗。

 シリーズ全10巻を8回で放送するらしいので、澪が「雲外蒼天」を果たすためにどんなエピソードが放送では採り上げられるのか(個人的に、これは外せないでしょう!とか、色々素人的意見もありますが)大いに楽しみです。

 “毎日が日曜日”の年金生活者には無関係でも、世の中は「ゴールデンウィーク」真っただ中。私メよりも遥かにお忙しい奥さまのスケジュールに合わせて、世間の風に多少は吹かれてみようと、ナナを連れてドライブ気分。
 「さて、どこへ行かんべ!?」
・・・ということで、上高地線から広域農道を走って、堀金の「国営アルプスあづみの公園」へ行って見ることにしました。どの道路も県外車で混んでいます。そう云えば、お城の駐車場もほぼ満杯でした。

 この「国営アルプスあづみの公園」は、「大町・松川地区」と「堀金・穂高地区」の二ヶ所に分かれています。堀金・穂高は南安曇(現安曇野市)ですが、片や大町・松川は北安曇。双方、全く離れて分散しています。我々は、近間の烏川扇状地に拡がる堀金に行くことにして、松本市の新村から広域農道を走って向かいます。

 途中、農道沿いの道の駅「アルプス安曇野ほりがねの里」内にある「ほりがね物産センター」へ立ち寄り。野菜などの産直市場がありますが、お目手は隣に拡がる菜の花畑。こちらは隣の休耕田を活用し、飯山の千曲川沿いに拡がる「菜の花公園」同様に信州らしく野沢菜の花です。
ここ堀金は常念の麓の村であり、尋常堀金高等小学校の毎週月曜の朝礼の度、校庭の壇上から西にそびえる常念岳を指さし、「常念を見よ!」と言い続けたという佐藤校長(大正5年~8年)で知られます。
一面黄色の菜の花畑の上には五月晴れの“薫風”に泳ぐ鯉のぼり。そして、背後にそびえる残雪の常念岳。
 「気高く、雄々しく聳える郷土の誇りである常念に恥じずに皆も生きよ!」
麓の堀金だけではなく、また戦前だけでも無く、今でも松本平に住む人間にとっては心の拠り所なのです。
 「あぁ、今日も常念が見えた・・・」
 道の駅から、あづみの公園への道路に右折し西山の麓に登って行きます。公園まで4㎞との案内だったのですが、1㎞も進まぬうちに渋滞で殆ど進まなくなってしまいました。
 「イヤハヤ、いくらGWとはいえこんなに混んでいるとは・・・。」
GW中は(余計混むから)地元民は行ってはいけないのかもしれません。ということで諦めて引き返し、道すがら久し振りの「Dogcafe With」へ立ち寄り、ランチを食べて帰宅しました。その内に(地元や観光で来られたらしい)犬連れのお客さんで満席になりました。
別荘族の多い軽井沢を除くと、長野県で室内までワンコOKという店は意外なほど少なく、松本安曇野エリアでも(知っているだけで)3軒程度でしょうか(テラス席OKと云う店はそれなりにありますが、真冬はちょっと・・・)。昨今、ペット連れの観光客も多いだけに、“観光立県”を標榜するのであれば(軽井沢以外の)信州ももう少し工夫した方が良いと(犬連れとしては)感じています。
【追記】
翌日知ったのは、「国営アルプスあづみの公園 堀金・穂高地区」では、この日「早春賦音楽祭」が開催され、1万7000人の人出だったとか・・・。そりゃ、混む訳だ・・・と納得した次第。

 22日に、とんぼ返りで帰省してきた長女夫婦。
東京では見られなかった桜が見たいというので、23日の早朝にナナも連れて車でアルプス公園へ。

 松本城は既に散ってしまいましたが、標高の高いアルプス公園はちょうど見ごろを迎えたところで、ほぼ満開でしょうか。昔(私の子供の頃には既に植えられていた)県の種畜場時代からの古木も含め、園内には650本の桜が植えられています。
 アルプス公園は都市公園ですが火器使用が認められているので、公園内でのお花見で焼き肉やBBQを楽しむことが出来ます。そのため、桜の下には既に早朝からお花見の場所取りのブルーシートが張られていました。
いつものビューポイントからは、残念ながら北アルプスは山頂に少し雲が掛かってキレイに望むことは出来ませんでした。
 アルプス公園から戻り、荷物を車に積んで慌ただしく帰って行った娘夫婦。まるで“台風一過”の様に静かになった翌日。この日の方が天気が良さそうだったので、ウォーキングを兼ねて再度アルプス公園へ行ってみました。月曜日の早朝でしたので、マレットゴルフに興ずるお年寄りの方々もおらず、犬の散歩をする人くらいで実に静かなもの。
 この日は、ビューポイントから見事な山並みを遥か白馬方面まで臨むことが出来ました。
桜は既に散り始めていて、無粋な風に時折桜吹雪が舞っていました。緑の草原の様な広い園内には、辛夷の白い花も咲いて春爛漫の雰囲気。昔は、メーデーの後に職場のメンバーと花見をしたこともあったのですが、今年もGWまでは到底無理。これも温暖化の影響なのでしょうか。
 アルプス公園へ向かう途中の、山の畑のモモの花も満開でキレイでした。

 長女が6月のMBA卒業を前に、声を掛けていただいている会社の代表者に合うために就活の一環として一時帰国。僅か数日の滞在とのことから、奥さまが会いに上京しました。その間、次女の所に滞在とのこと。
またこの時期恒例で、叔母が弘法山のお花見を兼ねて横浜から並柳の実家に帰省するのに併せて、母も一緒に泊まりで実家へ行って週末不在。
従って、今日はナナと二人(?)だけ・・・と思いきや、突然連絡があり、我が家に保管中の荷物の中から必要なモノを米国に持ちかえるために、急遽婿殿と車で帰省してくるとのこと(その車に家内も同乗して来る由)。
叔母たちが母を乗せて実家に向かったのと入れ違いで、娘たちがご帰宅。何でも、途中茅野の義父のお墓参りをして実家にも立ち寄って来たとのことで、それは何より。

 そして、その日の夜は和食と〆に蕎麦をご所望。
・・・ということは、所謂“蕎麦会席”でしょうか。松本市内にもお蕎麦屋さんは数々あれど、ちゃんとした会席料理となると数は非常に限られます。その少ない中から、中町の「草庵 座間」に決定(個人的には、全てにバランスの良い美ヶ原温泉の料理旅館「金宇館」を押したのですが、「金宇館」はまた皆で泊まりで利用した方が良いからと却下)。
「草庵」は創作和食の「天神」の姉妹店で、数年前に一階をカジュアルな「井(せい)」に改装し、二階を宴席用の「草庵」として営業しています。今回は、事前にコース料理と個室を予約。

会社に勤めていた頃は宴会で何度か利用しましたが、山菜や馬刺し渓流魚などの地元の食材や郷土料理、そして〆に手打ち蕎麦もあるので、どちらかと云うと、我が家では県外や海外からのお客様をもてなす時に来るお店です。
 先付に始まり、必ず出される大皿での前菜。但し食材は季節で多少異なりますが、この日はバイ貝、メギス、つくね、ソラマメ、生独活、合鴨ロースなど・・・。揚げ物で出されたフキノトウとタラの芽に稚鮎の天婦羅。そして焼き物で出された、筍の照り焼きとサワラが美味でした。
他に、椀物やお造り、そして煮物もありましたが、こちらは然程特徴無し(写真も撮らず、記憶にも残らず)。〆の食事として、この日の蕎麦は冷たいぶっかけ風の汁そば。最後にデザート(アイスだったような・・・奥さまへ)。
量的にも十分で、彼等も満足してくれました。良かった、良かった・・・。

 翌朝には荷物を積んで、その日のフライトに乗るべく帰京して行きましたが、イヤハヤ、何とも慌ただしい帰省でありました。