カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 2023年度後半のNHK朝ドラ、「ブギウギ」。
“ブギウギの女王” 笠置シズ子の半生を描いた、2023年度後期放送のNHK大阪局再作の「連続テレビ小説」第109作目。「エール」以来久々に朝ドラにハマっています。古関裕而がモデルだった「エール」がとても良かったので、以降の朝ドラも開始すると視るのですが、一回目で「もう、これは視なくてイイや!」と判断してしまいましたが、この「ブギウギ」はそのままずっと視続けています。
 笠置シズ子と聞いて、「東京ブギウギ」は勿論知っていますが、実際に本人が歌ったのは聞いたことがありません。我々の年代だと、記憶にあるのは歌手の笠置シズ子ではなく、むしろ田舎や下町のお婆さん役を演じていた女優としての笠置シズ子(今でもBS-TBSで平日の夕刻に再放送されている東野英治郎の演ずる「水戸黄門」で時々田舎のお婆さん役で登場する女優としての彼女を見ることが出来ます)と、そして何より「家族そろって歌合戦」での笑顔の優しいオバサン審査員だった笠置シズ子でしょうか。

 今回久々に朝ドラ「ブギウギ」に嵌まった理由。それは、大阪らしいボケと突っ込み、涙と笑いの乗りとテンポの良さ。そして脚本の良さも勿論ですが、何よりストーリーが事実に基づいている、実在の“笠置シズ子”がベースになっていて、例え突拍子もない展開であっても、噓臭さを感じさせないことが大きい。
そして配役。ヒロインを演ずる趣里さんの演技力でしょうか。何度も朝ドラのオーディションに落ちたそうですが、正直決して美人顔ではない彼女にはうってつけの笠置シズ子がモデルの“福来スズ子”役だったのではないでしょうか。プロを目指していたというクラシックバレエの要素や、母親譲りか素人とは思えぬ歌唱力、そして意外な程のコメディエンヌとしての才能も勿論ですが、何より素直な真っすぐな性格がイイ。決して両親の“十四光”を感じさせない存在です。
それにしても良くぞあんなにも似た子役(しかも演技力ある)を探せたものだと始まった頃は感心していました。

 豪農だった香川の生家から拒絶され、生みの母からも離されて、ちょうど出産するために故郷に帰省していた女性から“貰い乳”をしていた縁で、情が移ったその女性に引き取られて我が子として育てられます。また彼女自身も婚約者であった吉本興業創業者の子息が結婚前する前に急逝し、その彼の子を身籠っていた彼女は出産し、吉本興業創業者からも認知してキチンと受け入れるという申し出もあったそうですが、そのためには裁判所での法的手続きが必要となり世間の耳目を集めてしまうことから、自身の生い立ちもふまえてシングルマザーとして自分の手で育てることを決心したという笠置シズ子。そうした行動が、戦後の焼け跡の“パンパン”の女性たちからの圧倒的な支持も得て、トップスター“ブギウギの女王”として、戦争に負けて打ちひしがれた日本に明るい希望を届け続けたのです。
その後、子育ての中で体形が太り、以前の様に歌って踊れなくなったとしてスパッと歌手を引退し、その前から時折“喜劇王”エノケンから演技指導を受けて喜劇女優として舞台などで共演していたこともあって、その後は女優として一から出直すため芸名もシヅ子と改名し、自らTV局を回り、それまでの歌手としてのギャラの何分の一でイイから使ってくれと自らを売り込んだという笠置シズ子。
そして、「思い出のメロディー」などその後の懐メロブームの中でも、淡谷のり子を始め戦前戦後の懐かしい歌手たちが登場する歌番組には、どんなに懇願されても歌手引退後は二度と歌わなかったという見事な程のその信念の一途さ。芯の強さというか・・・。一般女性としてしっかり育てられた娘さんは、後年インタビューの中で「母笠置シズ子は、例え鼻歌でも歌っているのを聞いたことが無い」と答えていたそうです。
ドラマで見る田舎のオバちゃん風の、そして敗者の家族たちを励ますような、あの「歌合戦」での優しい笑顔の田舎の“オバさん”審査員の顔の裏に、そんな壮絶なドラマがあったことを今回の朝ドラが切っ掛けで始めて知りました。

 年が明けて放送が再開されました。
漸く終戦を迎えた焼け野原の街。戦争の傷が癒えない中、「今がどん底だったら、後は良くなるだけや!」と、逆境の中でも前を向くスズ子。
偶然とはいえ、新年早々大地震が襲ったこの国に、今一番必要な言葉だと思います。
“災害列島”のこの国は、これまでも阪神大震災、東日本大震災と皆で必死に乗り越えてきたのですから。

 些か古い話で恐縮ながら、昨秋のこと。
家内が次女の所に家政婦に行って不在。一人では特にやることも無いのですが、
 「ちったぁ、体も動かさんとイケネずら・・・」
と、いつものルートを独りでウォーキングに行ってみることにしました。

 ウォーキングの後、家の近くの日帰り温泉で汗を流すべく、風呂道具を車に乗せて日帰り温泉「瑞祥」のある渚ライフサイトに車を停め、そこから宮淵の急坂を上っていつもの城山公園へ。そこから下って塩釜神社から松本城公園を経由して、四柱神社と“天神さま”の深志神社にお参りし、駅経由で渚ライフサイトに戻るコースです。ライフサイトからだと7㎞位でしょうか。
北アルプスはこの日は雲の中で全く姿が見えませんでしたので、“城山トレイル”でアルプス公園まで足を延ばすのは止めました。その代わりに、城山を下った処に在る正麟寺の墓地の、川島家の墓地に眠る川島芳子のお墓を見学し、お参りもして来ました。

“東洋のマタハリ”と呼ばれた清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女にして、信州松本藩出身で粛親王の顧問だった“大陸浪人”川島浪速の養女となり、戦争に翻弄され数奇な運命をたどった川島芳子こと愛新覺羅顯㺭(あいしんかくらけんし)。
松本高等女学校(現松本蟻ヶ崎高校)に聴講生として通学していて、毎日自宅から馬に乗って通学したそうですが、実際母が同時期に松本高女に通っていて(かの草間彌生女史も同級生)、実際馬に乗って通学する姿を見ていたそうです。
正麟寺の墓地に立ち寄ってから、次女の所に孫たちの世話に行っている奥さまに変わり、塩釜神社、四柱神社、深志神社(天神さま)に代参でお参りしました。
 途中、開智学校から松本城公園を経由して行くのですが、快晴の青空の下、ちょうど菊花展が黒門手前の広場にテントを張って行われていました。コロナ禍前は、本丸庭園内で実施されていた筈ですが、この方がたくさんの人に見てもらえるので良いかもしれません。

お城は、もしかすると日本人観光客より多いかもと思える程、インバウンドの外国人観光客の方々がたくさんおられ、街中を歩いてもなぜか松本は(高山と共通ルートで観光する人も多いためか)欧米人の皆さんが目立ちます。
以前、家内と“サムライ・トレイル”馬籠妻籠間や藪原から鳥居峠を越えて奈良井宿までの中山道を歩いた時も、ドイツからの老夫婦のカップルやオーストラリアからのトレッキングのグループの皆さんなどと一緒になりましたが、松本城もそうした“サムライ”人気の一つなのかもしれません。

 喪中故年賀を自粛していた正月ですが、街中の松飾りも取れて昨日で“松の内”も明けましたので、ここに謹んで寒中お見舞い申し上げます。

 昨年の本ブログへのアクセスは、3年前にコロナ禍で皆さんホームワークや家に居ることが多かったための37万件、そして一昨年も35万件と増加した件数には届きませんが、これはむしろコロナ禍からいつもの日常活動が戻ってきたことの証左でしょう。
その昨年は10月に母が亡くなったため、忌中の49日間ブログ掲載を休止したこともあって一ヶ月以上も休止したにもかかわらず、それでもコロナ禍以前を上回る28万件近いアクセスをいただきました。誠にありがとうございました。

 本年もどうぞ宜しくお願い致します。

(掲載した写真は、写真だと少し分かり辛いかもしれませんが、昨年11月28日に雪雲が掛かった西山方面に現れた、“虹と雪のバラード”ならぬ、雪雲に反射する“ダブルレインボー”です。昔から幸運のサインと云われるそうですので、どうぞ皆さまにとっても良い年でありますように!
それと、今年2024年の初日の出です。
マンションの部屋から初日の出が見れることを昨年知り、生まれて初めて外出せずに、家のベランダから初日の出を望むことが出来ました。)

【追記】
元日に起きた能登半島地震。松本は震度4、しかも震源地から離れた長野県中部地方ですが、何故か北陸地方を除き唯一3レベルの長周期振動が記録されるなど、松本も結構長く横揺れが続きました。それにしても、正月元日から大地震に見舞われるなんて・・・。しかも奇跡的に旅客機からは全員が脱出出来たとはいえ、羽田空港で飛行機事故まで起こるとは・・・。
しかし今年は辰年。地の底からでも、昇竜の如く後は昇るだけ!・・・そう信じて頑張るしかありません。
石川県を始め、北陸の被災された皆さま、謹んでお見舞い申し上げます。負けるな!ガンバレ北陸!
【追記その2】
第438話『私たちの時代』-2007年能登半島地震を経て、乗り越えて行った人たち・・・。
当時、2007年に起きた能登半島地震に向き合った門前の若者や地元の人たちのことを記録した、フジTVのドキュメンタリーを視聴して、東日本大震災の後で敢えて掲載した記事です。宜しかったら438を検索してみてください。今度も少しでも参考になれば・・・。

 次女のところの孫たちの世話で手が離せない家内に代わって、長女の方のサポートが少し必要になったため、11月末、私メがコユキを連れて数日ですが上京する機会がありました(コユキだけになってからは、ペット用のリュックに入って一緒にあずさで上京しています)。


 東京滞在中、寄席の四つの定席は残念ながら聴きたいと思う噺家はどこにも出演していなかったので、滞在中唯一の外出で、前回の上京中に行けなかった「山種美術館」の特別展「聖地巡礼展」を見に行ってきました。
今回の美術展では、絵画における“聖地巡礼”を「作品の題材となった地や、画家と縁の深い場所に赴くこと」として、山種美術館が所蔵する日本画の主題とした場所を、画家が語った制作の経緯や残された現地でのスケッチと、それらを基に撮影された現地の写真なども併せて展示されているのです。
例えば、美術館的には今回展示の“目玉”とも云える、昭和期に描かれた絵画で初めて重要文化財指定となった速水御舟「名樹散椿」では、描かれた京都の地蔵院「椿寺」の名木「五色八重散椿」の当時の写真と、その椿が枯れた後に再び見事な枝を伸ばした現在の二代目の写真など、展示された各絵画にその制作の経緯や現地での当時のスケッチに加えて、制作当時や現在に映されたその場所の写真が飾られていました。因みに、この椿は豊臣秀吉が献木したと謂われていて、普通ポトっと花が落ちるために武士に嫌われた椿と違って、花弁が一枚一枚散るのだとか・・・。
展示されている絵画自体は、御舟の「名樹散椿」を始め、殆どは山種で一度は見ているので或る意味再会なのですが、今回の展示の中で個人的に一番関心があったのは、東山魁夷の「京洛の四季」の中の「年暮る」です。
画伯が川端康成から「今描かないと“京都”は無くなります」と言われことを契機に描いたという、1968年に発表された「京洛の四季」の4枚のシリーズは、既に12年前にこの山種美術館で見ているのですが、今回の展示での目的は、既に一度視ている絵画そのものではなく、描かれている東山の町屋を描いた風景が旧京都ホテル(現ホテルオークラ)から見た景色というのは知っていましたが、その中に描かれている大屋根の本堂がどのお寺なのかを、今回はその現物の写真を見て自分の目で実際に特定したかったのです。
     (*以下掲載の写真は、美術館で購入したポストカードです)
 今回行ったのは平日でしたが、さすがは人気の山種美術館。事前のオンライン予約こそ不要でその場で直接入場が可能でしたが、私メ同様シルバー世代を中心に結構混んでいました。しかもヒトゴトながら嬉しかったのは、中に欧米系のご一家が小中学生くらいの姉弟のお子さんたちも含め、英語のパンフレットを参考に熱心に鑑賞されていたこと。インバウンドの観光客ではなく、おそらく日本に住まわれている外国人ご一家だと思われますが、有名な観光地巡りではない、こうした日本画の鑑賞を通じて日本観光をされている姿に大いに感心した次第。
   
        (*奥田元宗「奥入瀬(秋)」の一部分のポストカード)
 さて斯く言う私メも、北から南へと地域ごとに展示されている作品を見て行く中で、これまた再会となる、 “元宗の赤”と云われる元となった奥田元宗の「奥入瀬(秋)と「松島暮色」。また、所蔵作品の中では最近の作品である桜を描いた石田武「千鳥ヶ淵」(2005年)。そして前回視て大変感動し今回再会となる「吉野」(2000年)の桜に改めて魅入り、その場で暫し足が止まります。
この石田武という画家は、京都出身で実家が西陣織職人をやっており、自身も京都市立美術工芸学校にて図案科を専攻。しかし、卒業後は動物図鑑など博物画のイラストレーターをしていたのだとか。
図案科で洋画や日本画も学んでいたとはいえ、50歳を過ぎてから独学で本格的に日本画を始め、2年後の1973年に第2回山種美術館賞で大賞を受賞したのだそうです。
今回の展示の中にも、先述の桜を描いた2点だけではなく、奥田元宗の「奥入瀬(秋)」に並んで大作の4枚の連作という「四季奥入瀬」の中から「秋韻」も展示されていました。
他にも、石本正「飛騨の酒倉」は、瀬戸川と説明にありましたので、5年前に行った街中を流れる清流と白壁の土蔵の街がとても印象的だった飛騨古川です。ということは、描かれている“酒倉”は飛騨古川の地酒「蓬莱」の酒蔵でしょうか。また新潟の蒲原を描いた横山操「蒲原落雁」は、冬の雪原となった田んぼの刈った稲を架けて干すハザ木が印象的。信州では稲を刈り取った後の田んぼに三脚に脚を組んで長い棒(ハゼん棒)を渡し、そこに稲束を架けて行くのですが、初めて新潟から山形へ村上から先は高速が無く、一般道を走った時に、枝卸しをした本物の木々が数メートル間隔で何本も植えられていて、それが稲を架ける“ハザ木”だと知って、同じ稲作でも地方によってその違いにとても驚いたことがありました。
他にも、北野天満宮の樹齢600年の大欅の老木を描いたという山口華揚の「木精」(こだま)は、説明書きに由れば「この木を写生した日の夕方、北野天満宮から路面電車で2駅の居酒屋神馬(しんめ)に行き、すっかり酔ってしまい、帰宅途中に再び北野天満宮に寄り、大欅の根元でひと眠りしてしまった」という華揚の逸話が紹介されていました。
因みにその「神馬」は、酒飲みのバイブルでもある高校の大先輩太田和彦センセの著書「居酒屋百名山」にも登場する京都の伝説の老舗居酒屋です。その著作の中に紹介されている、その最盛期を支え96歳で亡くなるまで店に立っていたという名物女将「とみ」さんのエピソードとして、分け隔ての無い気風で警察や顔役にまで一目も二目も置かれ、『チンピラが舞台の切符を何枚か売り付けに来ると、黙って10枚買って「見に行かんからやるわ」とその場で返し、以降チンピラはおとなしく飲んで帰るようになった。』という逸話を紹介していました。また、『祇園ばかりが京都ではない。京都にも庶民生活があり、居酒屋で酒を飲む』として、嘗て「神馬」の常連だった京都在住の文化人を何人か挙げているのですが、以前読んだ時は気に留めなかったその中に山口華揚の名も確かにありました。
 そして、京都といえば東山魁夷の「京洛の四季」。
鷹ヶ峯の桜を選んだ「春静」、夏の修学院離宮の松を描いた「緑潤う」。小倉山のモミジのそれぞれ紅葉と黄葉を描いた「秋彩」、そして今回のお目当ての冬の京都を描いた「年暮る」。
その「年暮る」の解説で、実際に旧京都ホテルから撮られた東山魁夷が描いた頃の同じ東山方面が撮影されたモノクロの写真からは、位置的にも確かに「要法寺」の大屋根であろうことが確認出来ました。
以前あの界隈をウォーキングがてら歩いた時に、「これかな?」と勘違いした「妙傳寺」は二条通に近い所に在るのですが(妙傳寺の本堂の屋根は東西向きなので、「年暮る」の中に描かれているお寺の南北の大屋根とは違うのが分かります)、また実際の「要法寺」はもっと南の東山三条に近い場所に在りました。
そして、今回現物の「年暮る」に再会して感じたのは、「こんなに雪の粒が大きく描かれていたんだ」ということ。実物を見ないと気が付かない、新たな発見でした。県立信濃美術館の東山魁夷館にも全く同じ構図(但し川端通を走る自動車は描かれていません)の「年暮る」の習作があって、こちらも10年前に見ているので、「年暮る」を見るのは今回が3度目なのですが、習作は青色が薄くて少し黄味掛かっているので受ける印象が全く異なります。全体に青色が強調されたこの「年暮る」の方が、しんしんと雪が降る大晦日のしーんと静まり返った様子が、この青色だからこそより伝わってくる気がします。
そのため、この絵を視ていていつも感じるのは、NHK「ゆく年くる年」中継で必ず登場する知恩院の除夜の鐘の音が、知恩院自体は京都ホテルから望む東山方面を描いたこの絵の中には勿論描かれてはいないのですが、この絵の中の静まり返った京の街から聞こえて来る気がすることでしょうか・・・。
 今年も色々あった年でした。母が逝き、ナナも虹の橋を渡っていきました。患ったとはいえ、それぞれ天寿を全うしてくれただろうことがせめてもの救いでしょうか。今年は喪中故、静かに“ゆく年”を偲び、そして“くる年”を想う・・・。

 皆様におかれましては、どうぞ良い年をお迎えください。
                                      
                            カネヤマ果樹園一同+コユキ

喪中につき、年賀のご挨拶を失礼させていただきます。
去る10月13日、20年を超える病気療養を経て、母が老衰のため95歳の天寿を全うして永眠致しました。
生前母に賜りましたご厚情に謹んで感謝申し上げますと共に、来る2024年も変わらぬご厚誼のほど宜しくお願い申し上げます。

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