カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
元々10月22日に予定されていた、横浜に住む次女の二人目となる孫娘のお宮参り。
しかし先述の様に、急な母の葬儀で我が家は忌中となったので、一旦、おめでたい席への出席を遠慮すべくお断りさせていただいたのですが、先方のご実家のご両親から、
「そう仰らずに・・・。当方は気にしませんので、せっかくの孫のおめでたい儀式ですから、もし何なら落ち着かれるまで先に延ばしても構いませんので是非お越しください。」
との本当に有難いお言葉。(実際、お電話をいただく前に、もう婿殿には延期するように指示されていたと後で伺いました)
こちらが信州の田舎ゆえに些か古臭くて時代遅れだと云われればそれまでですが、しかし本来ならそうしたおめでたい席への参加など忌み嫌われても致し方ない筈・・・です。
しかし延ばそうにも、11月に入ると七五三シーズンで、フォトスタジオの予約が一杯で取れない由。そうかといって、12月になると今度は寒くて、神社へお参りに行くのも幼子たちには可哀想です。
そのため、一旦キャンセルした元通りのスケジュールならば予約可能ということで、結局当初の予定通りの10月22日の日曜日に急遽執り行うことになりました。
そのため、家内は葬儀後に変更して貰っていたお義母さんとの温泉旅行明けの翌日から、私メは葬儀の後の市役所と金融機関への必要手続きを済ませた後の、同じく20日にワンコも一緒に上京して長女のマンションに泊めてもらい、22日に下の娘たちが暮らす横浜の都筑区でのお宮参りと写真撮影、その後での会食に出掛けました。
前回と違い、今回は終了後に松本には帰らず、東京の長女の所に泊めてもらうので、スケジュール的には楽。とはいえ、前話の“疾風怒濤”に引き続いてのスケジュールでしたので、おめでたいイベントとはいえ、慌ただしさはそのままずっと引き継がれてきた印象でした。
前回も感じたことですが、特に印象的だったのは、フォトスタジオの若い女性スタッフの方々のプロの技・・・。
赤ちゃんが寝てしまったり或いは上の子の機嫌が悪かったり、もしくは転んで泣いてしまったりした時も、ちゃんと目を開かせ、笑わせてその瞬間をカメラに収めていくのです。
昔とは異なり、いくら連射可能なデジタルカメラとはいえ、少なくとも微笑む瞬間が無ければそれを収めることは不可能なのですから、子宮の中で聞こえる音に近いというビニール袋のカサカサする音、またフォトスタジオのTVCMではありませんが、音やぬいぐるみなどの小道具を駆使して、孫たちの注意を惹いて笑わせたりしてシャッターチャンスを見事に切り取っていきます。
「いやぁさすが、プロだわ・・・」
と感心しきり。事実、その結果、数日後に完成した届いたスライドショーは、まさに感動モノ!の出来上がり・・・でした。
それにしても、一度は本来我が家の忌中で諦めたにも拘らず、お陰様で我々も参加することが叶い、ご実家のご両親には感謝してもしきれない一生に一度しかない孫娘のお宮参りでした。
母の食欲が落ちて微熱がある・・・。
本来は連絡のあったその翌日から、半年以上前から予約してあった、4年ぶりとなる那須へ3泊四日で旅行へ行く予定でした。そして、今回もその滞在中に既に紅葉が始まっているであろう那須岳(茶臼岳)登山を計画していました。
いつもなら、事前に観光スポットやグルメ情報などをキメ細かくチェックするのですが、今回は“虫の知らせ”か何となく気が乗らず、前回一度行っていることもあって、「ペニーレインとか、また行けばイイや!」と殆ど調べていませんでした。しかも、直前になって列島に寒気が南下して、信州の北アルプスでも登山者の遭難が多発しましたが、那須連山の朝日岳でも70代の高齢者4人が遭難し低体温症で死亡するなどしたことも、(同じシルバーエイジの登山者として)何となく気が進まない理由だったかもしれません。
(因みに、二人目を出産した次女の所に“家政婦”として直前まで手伝いに行っていた家内が、朝日岳での遭難のニュースで、この後全く同じ場所に行く予定だと言ったら、「冗談じゃない!」と叱られたとか。因みに、登山口から1時間ほど登った峰の茶屋の非難小屋から右に行けばその朝日岳、左に行けば通称那須岳とも呼ばれる那須連山の主峰茶臼岳です。普段なら“百名山”とはいえ、小学生でも登れる山なのですが・・・)
それが、直前になっての冒頭に記した母の容態変化もあって、家内が「行くの・・・、ヤメようヨ!?」
因みに施設の担当医師や看護師の方々の意見もふまえて今後の介護計画をスタッフの方々と話し合うなど、直ぐにどうこうではなく、その時点での母の状態は安定していたのですが、そうは言っても万が一を考えて断念。
そこで那須旅行とは比べるべくもありませんが、前から久しぶりの那須行(思えば4年前の前回は、その時点で掛かり付けの獣医師から余命宣告をされ、先生からは何かあったらすぐに連絡を取り合うことを約束しての、ナナとの最後の“思い出作り“のつもりの旅行だったのです。因みに、その後コユキが来てくれて、ナナは先生も驚く回復で更に4年生き長らえてくれましたが・・・)を楽しみにしていた家内への多少の罪滅ぼしになればと、せめて半日だけも秋の恒例でもある小布施に行って、「桜井甘精堂」の洋菓子部門「栗の木テラス」で新栗モンブランを食べて来ることにしました。
(因みに、小布施滞在中でしたが、母の様子を心配して電話して来た長女が、我々が小布施に居ると知って、一瞬絶句していたとか・・・)
松本からは小布施へは小布施SAのスマートICで下道に降りられるので、ゆっくり走っても片道1時間ちょっとでしょうか。8時半前に家を出て、予定通り10時開店の30分前に到着。先に記帳する家内を降ろし、私メはコユキを連れて、店舗から徒歩2分というすぐ近くの桜井甘精堂の有料駐車場へ(店舗で2000円以上購入すると、2時間無料になります。因みに、昨年は長女と家内が本店でお菓子を買ったら、そのまま車を停めて置いてOKとのことでしたので、お言葉に甘えて本店の駐車場に停めたままで「栗の木テラス」に食べに行きました)。
すると、家内が戻って来て6番目だったとのこと。店内に10卓程テーブル席がある筈ですので、それなら間違いなく一巡目で食べられそうです。こちらではポットで紅茶がサーブされるので(コーヒーもです!)、どのお客さんも食べ(飲み?)終って離席するのに小一時間は優に要します。
それまでコユキを連れて近くを散歩。桜井甘精堂の喫茶室もですが、ワンコは入れないので、我々が食べている間は可哀想ですがコユキは車でお留守番です(真夏では無いので、車中でも大丈夫)。
松本も然りですが、町自身が“ Dog friendly ”を掲げる軽井沢以外は、ここ小布施もワンコ連れで入れるお店は殆どありません(信州のみならず、京都も那須も伊豆も、軽井沢以外はどこも似たようなモノ・・・です)。
少子高齢化時代で我々の様なワンコ連れの年寄りが増える中、観光的には如何にそうした客を呼び込むかがカギだと思うのですが、一見さんのインバウンド需要を取り込む方が(稼ぐには)手っ取り早いのでしょうか?
時間になり、行列は20人を越えました。客層は、我々の様なシニアのカップルか年配の女性グループ客が殆どです。それにしても、平日なのに小布施の集客力には驚きます。長野県内で一番面積が小さくて人口密度の高い町が、この小布施です。
順番に名前を呼ばれて一巡目で着席。どのお客さんもですが、我々もこの時期の目玉の新栗のモンブラン(520円)。そして奥さまが紅茶のウバ、私メはコーヒー。どちらも600円ほど(紅茶の種類によっては800円位まで)ですが、それぞれポットに入っていて、コーヒーも優に3杯注げましたので、むしろ安くてお得だと思います。
近くの小布施堂の栗の点心「朱雀」は相変わらずの人気の様で、現在はオンライン予約のみとのこと。ただ、我々は10年前に一度食したのですが、正直「もうイイね・・・」となり、それ以降は小布施で栗菓子では一番の老舗である桜井甘精堂の小ぶりの洋菓子のモンブランの方が好みで、この新栗の時期に何度か食べに来ています。
長女が一緒だった昨年は、彼女のリクエストで小布施ワインに行って婿殿用に何本か購入したり、久し振りの中島千波美術館も拝観に行ったりしたのですが、今回はドライブも兼ねてコユキも一緒なのでワンコ連れでは行く所も無く、少し散歩をしてから事前に確認してあった、唯一テラス席でワンコ連れでも食べられるというお蕎麦屋さん「富蔵屋」に事前に記帳をしての順番待ちで、蕎麦でのランチです。そのテラス席(といっても木製のテラスではなく、店舗前の道路端に置かれたテーブル席が二つと店舗沿いに片面の長テーブル席があるだけでしたが、ワンコ連れで食べられるだけまだマシでしょうか・・・。
H/P上はもっとたくさんメニューがあったのですが、コロナ禍故か、選択肢も少なくなっていて、奥さまが「田舎三味おはぎ御膳」(2400円位でした)で、クルミとゴマのおはぎが付いた、くるみだれ・辛味大根・とろろの三種類のそばつゆの蕎麦。私は田舎そばの大盛り(2200円位だったか)にしました。田舎そばは、そばの実を殻付きのまま丸ごと挽いた所謂“挽きぐるみ”で、黒っぽい蕎麦。個人的には、どちらかというと更科よりは昔ながらの田舎の方が好みでしょうか。
どちらも量はたっぷりですし、三昧には薬味に辛味大根も付いていたので私メが薬味に頂いたのですが、蕎麦の味は新そば前ですし、蕎麦処の信州なら並みレベルかな・・・。ただ値段が大盛りで2000円超えは、多少観光地価格かもしれません。
テラス席には、首都圏から来られたという、やはりミニチュアピンシャー連れの我々より年配のご夫婦がおられ、“ワンコ連れ同士”で暫し犬談義です。軽井沢に前泊して来られたそうで、やはりワンコ連れOKの店を探してこちらに辿り着いたとのこと。我々が地元の松本と知り、信州の観光のことも色々聞かれたのですが、
「スイマセン。軽井沢は本当に特別で、信州でドッグフレンドリーな処は残念ながら他には余り無いんです。」
ランチを済ませてからの帰路、小布施SAにも隣接している道の駅に立ち寄り、SAのスマートICから高速に乗って松本へ戻り、母の様子を確認してから帰宅しました。
長年、20年以上も認知症を患っていた母は、ここ3年弱は以前の自宅からは車でホンの数分の所に在る特養にお世話になっていたのですが、コロナ禍故にここ2年間ちょっとは館内感染防止のため面会もままならず、それが少し緩和された以降も、身内とはいえ会えるのは二三ヶ月に一度程度が前提で、一日3組。事前に予約をして、しかも玄関のガラス戸越しに10分間という状況で、家族以外は親戚といえどもなかなか会うことも叶いませんでした。
そんな状況下でも、9月末までは自分でご飯を食べ、また私が面会した折には横浜に住む叔母とも携帯で(姉妹での最後の会話になりました)話しをするなどしていた母ですが、10月に入って食が細り微熱が続くようになり、それからは毎日面会をさせていただく中で、施設のスタッフの方々と今後の介護計画は誤嚥を避けるべく完全流動食に切り替えて行くことなどを確認したのが12日。その日はそれまでの微熱も無くなって平熱に下がり、また時折苦しそうにハァハァと言っていた息も穏やかになったので、「これで少し落ち着いた感じですね」とスタッフの方々と確認し合って家に帰ったその日の深夜、連絡があって、施設の当直されていた看護師の方から「たった今、目を落とされました」とのこと。
コロナ禍での夜間故にすぐに駆け付けることが出来ず、翌朝医師が確認する8時に来所せよとのこと。
その8時を待って駆け付けると、既に朝6時に医師が来て確認してくださった(従って、そのタイミングが正式な死亡時刻となります)とのことで、既にキレイに体も清めていただいて、そのための和室に寝かせてくださっていました。
昼過ぎに会場となる葬祭ホールが手配してくれた霊柩車で、母が3年間近くお世話になった特養から葬祭会場のホールに向かいました。
デイサービスの頃から数えると20年以上もお世話になっていたこともあり、職員の皆さん15人程が玄関に集まってくださり、男性職員の方も含め皆さん泣きながら見送っていただきながら、長年父とリンゴ栽培に携わった母に相応しく、ちょうど赤く色づいたリンゴにも見送られて会場に向かいました。思えば3年前、我々家族の介護では或る意味限界を迎えていたので、入所して本当に良くしていただいたと感謝の言葉しかありませんでした。
先ずは菩提寺(当家は浄土宗です)、そして今回の葬儀をお願いするJAの葬祭ホールに連絡し、通夜、火葬、告別式の日程が決まります。基本はお寺のスケジュールが優先され、16日ご午後に告別式、その結果の午前中の出棺火葬、そしてその前日に納棺通夜と、遡りつつ順番に決まって行きます。
マンションが狭く和室も無いことから、葬祭ホールの和室で通夜を行うこととし、コロナ禍以降様変わりとなった葬儀告別式の様式をふまえ、我が家も近親者のみでの葬儀とその前に弔問を受け付ける形で執り行うこととして、その段取りを葬祭ホールの担当者と打ち合わせ。
参列いただく近親者も出来る限り絞ることとして、例えばコロナ禍前の亡父の葬儀の時は同姓の主だった近しい家(集落の数十軒の同姓の中でも最も古いという5軒や、極端に云えば江戸時代から続く、例えば“庚申さま”のメンバーの家々など)と親戚(祖父母の親族関係まで)もかなり広く参列してもらいましたが(その後同姓の中でも幾つか葬儀があって私も参列しましたが、田舎ではみな同様でした)、今回はコロナ禍に鑑み極力絞ることとしました。
その意味では12年前の父の時とは異なり、出席者も数が読み易く、また精進落としの宴席も(コロナ禍以降、田舎では実施は2割くらいとのことから)今回は席を設けず、その代わりに懐石弁当を持ち帰ってもらうこととしたので、前回の様に席の数をどう読むか、また飲み物をどうするかも気にする必要も無く、結果料理を余らせることもないので或る意味安心です。
亡くなった13日から16日の葬儀前日の通夜までが3日間。その間で遺族の泊まり込みが出来るのは(夜間無人になるため)通夜当日の15日のみとのこと。それまでは葬祭ホールの霊安室で保管していただきます(お寺に依る枕経もそこで済ませます)。
今回、二人目を8月に出産した次女も母の葬儀には参列したいとのこと。しかし婿殿は病院勤務故に簡単には休めないことから、娘一人での移動は無理なので、2歳の孫とまだ生後2ヶ月の孫とを迎えに、前々日家内が横浜までとんぼ返りで迎えに行きました。
通夜当日は、小さい子がいては無理なことから、私一人で泊まり込むことにしました(係員の当直は無く、翌朝のスタッフの出勤まで、夜間のホールに私一人です)。
因みに、布団を敷いた通夜の和室の部屋にはTVもちゃんとありましたし、館内にはキッチンやお風呂もあって、夜間も自由に使えます。そしてそのエリア以外は、セキュリティー上夜間はシャッターで区切られ閉鎖されています。
特養から深夜の電話があった12日も目が冴えてしまい、結局朝までそのまま起きていましたし、翌13日以降も結局余り眠れず、また朝昼殆ど食事も食べませんでした。不思議なことに、気が張っているのか夜も余り眠れず、お腹も然程空かないのです。ただそれでは体がもたないでしょうから、せめて夕食は食べ、そしてお酒の力を借りて少なくとも3時間は眠るようにしましたが・・・。
その通夜当日は、持参したタブレットでYouTubeミュージックを使い弔問中に流す曲の編集をして、それが終わってからはYouTubeで好きなクラシックのコンサートを視たりしていました。それも、なぜか聴いていたのはシベリウスの交響曲ばかり・・・(特にユッカ=ペッカ・サラステ指揮ラハティ交響楽団の、2015年シベリウス・ウィークでの5番は良かった・・・泣けました)。
納棺通夜、翌日の出棺火葬、そして一時間弱の弔問受付の後の葬儀告式。
当日は上の子が騒いで走り回ったり下の子は泣いたりするのでは・・・と心配した孫娘たちも、皆が感心する程静か。娘たちや妹や、そして保育士の姪がさすがはプロの技?で代わる代わる交替であやしてくれるなどして、驚くことに2歳の孫娘も娘と一緒にしっかりとお焼香もしてくれて母を送ってくれました。
そして無事全てが終わり、その後マンションに戻って祭壇を作り、仏となる忌明けまでの忌中を過ごします。駆けつけてくれた長女は、仕事の都合で葬儀会場からタクシーで直接松本駅に向かい、そのまま慌ただしく東京へ戻って行きました。
翌日、家内が今度は次女と孫たちをトンボ返りで横浜まで一緒に送って行きました。そして、その翌日からは、母の状態の急変で二度三度とスケジュールを変更してもらっていたお義母さんとの温泉旅行(といっても地元茅野の蓼科温泉ですが、これが年何回かのお義母さんの唯一の楽しみ)へ二泊で出掛けて行きました。
さて、翌日からは一人で市役所と金融機関へ死亡後の必要手続きと、母名義の口座閉鎖の手続きです。母名義の不動産等は認知症が悪化する何年か前に既に妹に生前贈与を済ませており、他に資産はありませんので相続手続きも父の時に比べれば遥かに楽とはいえ、丸二日掛かって市役所(住民票、年金、保険、資産)で必要事項を済ませ、それを以って今度は金融機関での手続きを済ませました。
それから、葬儀で過分に頂いたご厚志への追加の香典返しの返礼と、お寺へのお礼と次の四十九日の忌明け法要(満中陰法要)の打ち合わせ。そして、それに伴う忌明け法要の親戚筋への案内と必要事項の手配などなど・・・、四十九日の忌明けまでは結構対応することがあります。
今回の忌明けは11月末なのですが、忘れずに年賀欠礼の喪中ハガキも作って11月中には送らないといけません。
亡父の時と比べれば遥かに作業量も少なく、10年以上経っていても父の時に一度経験しているのである程度想定の範囲内とはいえ、家内も不在で一人での対応だったことも手伝い、結構目まぐるしい日々が過ぎて行きました。些か大袈裟に聞こえるかもしれませんが、時が待ってはくれない事柄も含め、昔、世界史で習ったドイツの文学史におけるSturm und Drang、まさに“疾風怒濤”という言葉が脳裏に浮かんで来る様な、私自身にとってはそんな二週間でありました。その嵐の様な二週間が過ぎて少し落ち着くことが出来、漸く一息ついて思わず、
「あぁ、しんど・・・‼」
去る10月13日に95歳の天寿を全うし亡くなった母の忌明け法要も、この26日の日曜日に近親者の方々に参列いただいて無事終えることが出来ました。そして、正式には四十九日目の満中陰を迎える本日を以って忌明けとなりますので、その間慎んでおりましたブログ掲載を明日より再開させていただきます。
それ以前に用意して書き溜めていた内容も含め、些か“薹が立った”季節外れになってしまった話題もありますが、何卒ご容赦ください。