カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 11月末の週末。
父の三回忌を無事済ませたので、ホッとして、翌朝久し振りに家内と市街への早朝ウォーキングへ。

 いつも通りに、お城を通って、この日の行先は“天神さま”こと深志神社です。お城では、今回は裏手から二の丸跡を横切って城内へ。余り入ったことの無い、二の丸御殿の場所(天守閣を含む本丸庭園以外は、松本城公園として一般開放されています)から仰ぎ見る天守閣も堂々たるものです(むしろ、こちらが正面?なお、明治維新後に筑摩県庁舎としても使われ、政争が原因での放火だと当時風評で云われ、明治9年に焼失した二の丸御殿跡は、発掘調査に基づいて建物跡が分るようになっています。将来、熊本城の様に再建されると良いのですが、先ずは西堀の復活工事が優先)。
それから、緑町から女鳥羽川を渡り、駅前通りを横切って、市民芸術館の裏手(どちらが表か分りませんが)に隣接する深志神社へ向かいます。
地元では、親しみを込めて“天神さま”と呼ばれている深志神社は、南北朝時代に北野天満宮から勧請された菅原道真公を祀る神社ですので、地域一帯の“受験の神様”です。我々もお願いがあって今回お参りをしました。

 知りませんでしたが、境内の由緒書きに拠れば、元々のルーツは信濃国守護だった小笠原氏が、1339年に戦勝御礼として戦の神様でもある“諏訪明神”建御名方命(タケミナカタ)を祀った神社(宮村大明神)で、その後1402年に天満宮を勧請して併設(宮村両社とも呼ばれていた)。以降産土神(うぶすなかみ)として歴代城主から、お城と城下の鎮護の神社として庇護を受けて来たのだそうです。そして、天保12年に京都吉田家の認可を受け、正式に「深志神社」という現在の名称になったのだとか。余談ですが、松本が舞台となった「白線流し」のロケ地でもあります。
てっきり“天神さま”とばかり思っていましたが、祭神として建御名方命も祀られていることを初めて知りました。でも、やはり市民にとって、ここは“天神さま”。受験シーズンに向け、境内にはたくさんの合格祈願の絵馬が掛けられていました。“受験戦争”という意味では、学問の神様と戦の神様双方の加護があれば無敵かもしれませんね。七五三のシーズンは終わりましたが、この日もお宮参りのご一家が来られていました。そう言えば、我が家の娘たちもお宮参りはここ、天神さまでした。
 「どうぞ、ご加護がありますように・・・」
 その後、今回は家の片付け等があるので喫茶店には寄らず、「源智の井戸」で一本だけペットボトルに水を汲み、上土通りから外堀沿いの片端、そして新町を越えて御徒町へ入り、途中、私設の「康花美術館」(一度来ようと思っています)や下級藩士“御徒衆”の武家屋敷である市文化財「高橋家住宅」の前を通って、大門沢川に沿って坂を上り沢村を通って我が家へ。往復約二時間で、9km近くは歩いたのではないでしょうか。
 小笠原氏の支城があった今の場所に城を築き、城下町の基礎を整備したのは甲州から信濃に攻め入った武田信玄です。お得意の土木工事で女鳥羽川の流れを変え、城下の外堀の役目を果たさせたとか。その女鳥羽川を挟んで、北側が武家地、南側が町人地に分れていたそうです(天神さまは南にあるため、城下南半分の商人町の総氏神様)。
大手○丁目とか深志○丁目などと今の住所を言われてもどこか分りませんが、旧町名の方が今でもピンと来ます。
中心街の「大名町」や「本町」に始まり、上述の「御徒町」は元より、他にも「鷹匠町」や「博労町」など、往時の城下が偲ばれる旧町名が、石の標識にその由来と共に刻まれています。因みに天神がある界隈は「飯田町」。小笠原氏が、身を寄せていた分家の飯田から戻る際に、職人を連れて来て住まわせたことから名付けられたそうです。
城下町故、一方通行や狭い道が多く、車では走り辛いのですが、歩いてみると、例えば新しい方向からの眺め(景色)だとか、普段は気が付かなかった、或いは車では見落としていたような“街の顔”とか、結構色々な“発見”がありました。

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