カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 コロナ禍の中、中止されていたクラシックのコンサートや寄席も、客数を減らし席の間の距離を取るなどの工夫をしながら、都会では徐々に再開する動きが出てきていますが、出演者の長時間移動を余儀なくされる地方都市では残念ながらまだまだです。そのため、CDやYouTubeなどで好きな音源や動画を探して楽しむしかありません。そんな中での楽しみは、新しいイベントが開けないので、これまでの中から過去の名演などが改めて放送されたことでしょうか。
 クラシック好きの中には、同じ曲のレコードやCDを何枚、何十枚と収集して比較試聴しながら、「誰の演奏が良い」、「誰それのここの演奏は良くない」、しかも同じ奏者でも「〇〇年に録音された△〇盤がベストだ」などと論じ、悦に入っているファンがいます。私メは貧乏学生でしたから、同じ曲を集めるよりも、出来るだけたくさんの曲を知りたいと思いましたし、社会人になって多少趣味にお金を掛ける余裕が出来てからも同様でしたので、そうした趣味はありませんでした。しかし、学生の頃から、定期購読していた(しかもシンガポール赴任中も)週刊FM(廃刊後はFMファン)やレコード芸術で、音楽専門家による新盤の批評や名盤特集などを見て、自分に合う演奏を探して、そのレコードやCDを購入するようにしていましたので、同じ曲を何枚も集めるかどうかは金銭的余裕の有無だけの差であって、同じ曲でも比較試聴するという態度はクラシック好きとしては同じです。
リタイア後に時間が出来てからは、市の中央図書館のCDライブラリーやネットのクラシック音楽サイトで同じ曲の異なる録音(今はコロナ禍征服後のコンサート再開を願って専らマーラーの第2番「復活」)を聴いていますので、むしろ同じ穴のムジナなのかもしれません。ファンでない人からすれば、「同じ曲ばかり聴いてどこが面白いのか」と思われるに違いないのですが、同じ曲で同じ楽譜を用いていても、演奏者や識者の意図に拠って、演奏時間にしても、強弱や演奏方法にしても、結果として同じ演奏は無く全て違うのですから、その中で自分の嗜好に合う演奏を探す楽しさ、面白さということに帰結します。

 さて、些か“枕”が長くなりましたが、落語も同様なのではないでしょうか?むしろアドリブが命というジャズの方が落語的、という方もおられるかもしれませんが、ジャズはアレンジによってはまるで別の曲の様に聞こえる場合もあるので、どちらかと云えばクラシックかなぁ・・・と個人的には感ずる次第です。
 そんな落語で、例えば大好きなネタである、人情噺の傑作「芝浜」。
天秤棒で魚の行商をしている勝五郎が大好きな酒に溺れ、20日間も仕事をさぼった挙句、朝早く女房に起こされ、昨日約束したからと嫌々芝の浜に仕入れに行かされます。しかし、増上寺の鐘の音で、一時(いっとき)早く起こされたことを悟った勝五郎が、仕方なく浜に下り海水で顔を洗った時に、波の中に沈んでいた汚い革の財布を見つけ、拾って開けてみるとナント50両(師匠によっては42両)もの大金が入っていて、有頂天になって友達を呼んで来てのドンチャン騒ぎの末に酔って寝てしまった勝五郎。
拾ったお金を奉行所に届けずに使い込むのを心配した女房が、寝て起きた勝五郎に芝の浜で財布を拾ったのは夢だと信じ込ませた結果、改心し、酒を断ってまるで別人のように仕事に打ち込む勝五郎。そして、小さいながらも自分店を持つまでになった三年後の大晦日の夜に・・・というストーリー(そのため、寄席では師走恒例となっている大ネタ)。

 このネタは、「芝浜の三木助」と言われた程に三代目桂三木助の十八番だったそうです。図書館のCDに音源があったので聞いてみました。確かに明けてゆく芝の浜の情景描写は見事かもしれませんが、個人的にはもう一つで、余り感動せず。
また、「芝浜」でも評判が高い立川談志。確かに緊迫感と臨場感溢れた語り口で、テンポがイイ。上手いなぁとは思いますが、でも個人的には好みではない。聞いていて落ち着かないし、ほっこりしないのです。
同じく名演の誉れ高い古今亭志ん朝の「芝浜」。最初に腕の良かった勝五郎ではなく熊五郎(魚熊)が、酒のせいで質を落としお得意さんが徐々に離れていく様が描かれる。そして女房の説得で、漸く天秤棒を担いで家を出て行ったかと思うと、芝の浜の様子の説明は全く無くてすぐに息を切らせて家に帰ってくる。その上で、女房に芝の浜であったことを初めて説明するという仕立て。如何にも気っ風の良い江戸っ子らしいベランメェ口調で、スピード感に引き込まれます。
大好きな柳家さん喬師匠の「芝浜」は、改心して仕事に打ち込む勝五郎には子供が出来て、大晦日にその金坊をあやす場面が出てくるなど、如何にもさん喬師匠の人情噺らしい、実にほっこりする話しぶり。特に、お得意のお爺さんから勝五郎の魚で何日か寿命が延びたと感謝され、魚屋になったことを真に喜ぶ様が実にイイ。

 幹となるストーリーは変わらねど、各師匠のそれぞれの工夫が見えて、ストーリーは勿論、「芝浜」で云えば、「また夢になっちゃいけねぇ」という“下げ”は皆同じであっても、どの師匠の「芝浜」を聞いても楽しめて聞く度に新鮮に感じられるのだと思います。
 今年の年末は、果たして生の「芝浜」や「第九」は聞けるのでしょうか?
BCJの様に少人数での演奏可能なメサイアは可能でも、今年の第九は無理かもしれませんね。