カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 コロナ禍により制作がままならず、中断や放送回数削減などを余儀なくされた今回の朝ドラ「エール」。
朝ドラだけではなく、同じNHKの大河や民放のドラマ制作にも、コロナ禍が大きな影響を及ぼしました。

 その週の総集編を放送している土曜日の朝ドラ再放送を止めて本放送に変えれば、10話も回数を減らさなくても、元々の内容に限り無く近付けられるのではないかと個人的には思ったりもしたのですが・・・。
後で知ったのは、コロナ禍の影響は、単にキャストや制作スタッフが密を避けるべくなかなか集まれないということよりも、むしろ制作に莫大な時間と工数の掛かるCG製作が不可能だったことが一番の理由だということでした。
 「ナルホド、そうだったんだ・・・」
確かに、インパール作戦の悲惨な戦場、豊橋の空襲後の廃墟、原爆後の長崎での崩れ落ちた浦上天主堂、そして戦後の闇市・・・。
その後、漸く甲子園の場面になって、当時の甲子園で撮影されたかの様な、CGのさすがの臨場感・・・。改修前のスコアボードやスタンドの様子がCGで蘇りました。アルプススタンドの看板に「キロンパス」という看板がありましたが、「サロンパス」を書き換えたのでしょうか、芸が細かい、細かい・・・。
確かにその意味では、放送された先述の空襲や原爆後の廃墟や闇市のバラックなど、CGに比べれば如何にも安っぽい舞台セットにしか見えなかったのは事実です。
しかし、まるで舞台の様な、そんな“安っぽい”セットだからこそ、まるで舞台演劇を劇場の客席で観るかの如く、演じる俳優に、そのセリフの一言一句と一挙手一投足に、より大きなスポットライトが当たったのではないか・・・!?
その結果、TV前で“観劇”をしていた我々“観客”は、画面ではなくむしろその演技そのものに引き込まれたのではないか・・・!?・・・例えば、
焼け跡で歌う聖母の如き、讃美歌「うるわしの白百合」に・・。
廃墟となった浦上天主堂に響く「長崎の鐘」に・・・。
闇市のラーメン屋台での、スープ以上に暖かそうな、長女夫婦と戦争孤児との“家族”愛溢れる笑顔に・・・。

 以上に代表される様な、コロナ禍中断後に放送された場面は、逆説的ではありますが、最近の朝ドラには無かった様な、結果的に“コロナ禍”に因ってもたらされた朝ドラ史上に輝く名場面になったのだと思います。

 最後に、個人的に一番印象深かったシーンは、戦争に加担した心の呵責にさいなまれ作曲出来ずにいた祐一が、幻影に襲われながらも夜を徹して漸く書き上げた“復活”の曲、「鐘の鳴る丘」(注)の主題歌「とんがり帽子」を、疲れ切って眠る裕一の傍らにその楽譜を見つけた音が、泣きながら感激に声を震わせて初見で口ずさむ場面。
 「♪・・・ みっ・ど・りっ・の・おっ・か・のー・あっ・か・いぃ・や・ねー・・・」
例え史実とは離れたフィクションであったとしても、感動する名場面だったと思います。
 「フム、さすがは音大出身者!」
 そして、音大出身といえば佐藤久志役の山崎育三郎。
後で知った、甲子園のマウンドで歌った「栄冠は君に輝く」のシーン。実際は、ある球場でロケして3番まで全てアカペラで歌い、その後の編集でコーラスや伴奏を追加したのだとか。普通アカペラの合唱などでは、どうしても音程が下がり気味なのですが(合唱した際に、冒頭アカペラで始まって途中からピアノ伴奏が入ると、その音程差にガックリしたこと暫し)、最後3番目でバックにコーラスや合奏が入っても、ピッチもテンポもドンピシャ!
 「オー、さすがは本物の音大出身者!!」
と感心した次第です。

【注記】
「鐘の鳴る丘」のモデルの一つとなったのが、穂高町にあった「有明高原寮」。昭和21年(1946年)、地元篤志家が戦災孤児ら少年の保護施設「松本少年学院」を開設し、24年(1949年)に法務省所管の少年院となって「有明高原寮」と名称を変更。当時の建物は「鐘の鳴る丘集会所」という青少年の合宿訓練所として、近くに移築されて現存しているそうです。
因みに、昔スキーで良く行った栂池スキー場にも「鐘の鳴る丘ゲレンデ」があり、モニュメント「とんがり帽子の塔」も建っていて、「どうして関係の無い栂池に?」と訝しく思った記憶があるのですが、それは栂池が映画「鐘の鳴る丘」のロケ地だったからなのだとか。

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