カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 漸く、自身の重い腰を上げることにしました。
父が亡くなり、母を家に呼んでから空き家になった母屋の整理です。

 この母屋は、私メが高校一年の時から住んだ家で、それまでの築300年近いであろう茅葺の家から、リンゴ園の中に祖父と父が家を建てて引っ越してきた家です。
祖母と母の女性陣は反対したと云いますが、入り婿の祖父と養子だった父は江戸時代の初めに分家した我が家を取り巻く同姓の繋がりや古いしきたり、また地域の古い因習には然程未練は感じなかったのかもしれません。
「深志高校がある場所から北は、リンゴ園ばかりだった」という昭和30年代の状況からは、その後の高度経済成長期故に宅地化が次第に進んでいたとはいえ、家を建てた昭和46年の周囲はまだリンゴ園ばかりで、殆ど“野中の一軒家”状態。そこで、祖父は「自宅で問題無く葬式が出せる様に」と、上中下の連続する座敷と居間の襖を取り払えば、廊下を含めて50~60畳のL字型の大広間が出来る間取りにしたので、確かにそういう時は便利でも、日常の生活はどちらかというと近代的な生活様式には合わない家ではありました。ただ、知らない人からは「旅館かと思った」と云われる程に100坪の大きな家だったので、それこそ押し入れや倉庫スペースがふんだんにあり、結局それが災いし、更には戦前を生きてきた人たちの勿体無い精神が加わって、結果、家中にモノが溢れた状態になっていったのです。

 父が突然倒れ、所謂“断捨離”という整理を全くしなかった母の性格も手伝い、母屋は最近話題のゴミ屋敷状態になっていました。
家が余りに広い分、部屋中にゴミが足の踏み場もないくらいに溢れているのではなく、家中の押し入れや納屋の様な別棟を含めた倉庫スペースに古いモノや、例えばそれこそ優に二百人以上の葬式も対応可能な食器や座布団が仕舞われている様な状態・・・だったのです。

 そのため、出るわ、出るわ・・・不用品の山。それを見るこっちは溜息の山・・。さて、一体どうすべぇか・・・???どこから手を付ければイイのやら・・・???
しかし、とにかく色々考えていてもしょうがない。先ずは動かなくては何も始まらない・・・。いずれにしても、やるっきゃない・・・でしょ!

 かくして、漸く空き家だった母屋の片付けが始まりました。

 自動車の運転マナーについては、「松本ルール」だ「松本走り」だと何かと批判が多い松本の運転マナーですが(でも、信号の無い横断歩道でチャンと停まる車は松本だって他県よりも遥かに多いのですがネ)、個人的に感じている(正直、頭に来ている!)のはむしろ自転車の運転マナーです。
マナーというより運転ルール。もしかすると、自転車に乗っている人間が自転車の交通ルーツを知らないのではないか?と思う程です。

 本来自転車も運転中は軽車両の扱いで、運転ルールは基本的に自動車と変わりません。歩車分離の交差点の信号を歩行者と一緒に自転車で渡るためには、本来自転車から降りて押して歩くのがルールの筈(そんな人は殆どいませんが・・・)。従って、例えばT字路の交差点で縦棒の方向から車が青信号で右左折する段階で、赤になっている横棒の道路では車同様に自転車も赤信号で停止していないといけません。(標識で明示されている、自転車も通行OKという歩道はその限りではありません)。また、自転車に乗っている時は軽車両ですから、「止まれ」の書かれた一旦停止の箇所では自転車も止まって安全確認をしないといけません。

 ところが、先日もT字路を信号に従い右折しようとした時に、左側から若い女性の乗る自転車が車道の左側を赤信号で停止せずに直進して来ました。
また、見通しの悪い路地から道路を横切る際に、二人の高校生の乗る自転車が並行しながら、路地の交差点には「止まれ」と書いてあるのに一旦停止せずに、車の前をそのまま横切って行きました。
勿論全員が全員ではありません。信号の無い横断歩道で自転車が横断しようと待っているので、車で停まってあげると、(降りて押さずに自転車に乗ったままではありますが)ちゃんと頭を下げて礼をして渡って行く高校生もたくさんいます。
しかし、一般的に「自転車は軽車両」という理解をしていない人が多過ぎる。むしろ歩行者と同じだと思っているのではないでしょうか?自転車通学が増える高校で、キチンと入学時に自転車の運転マナー・ルールをキチンと教えるべきだと思います。
見通しの悪い道路からの左折時にスピードを出したまま膨らんで曲がる自転車や、右側を走行して来る自転車が結構いてヒヤッとします。何かあれば、「未必の故意」ではありませんが、相手にケガをさせる危険性が高い自動車の方が、常に「自転車が路地から飛び出してくるかもしれない」とか、「交差点で止まらないかもしれない」と思って、「かもしれない運転」や「KY(危険予知)」を心掛けるしかないのでしょうか。
自動車の運転免許を取得すれば少なくとも道交法は学ぶ筈なので、「自転車は軽車両」ということを知る可能性も高いのですが、問題は「自転車は歩行者と同じ」と思っているかもしれない運転免許の無い子供たちです。
本来は、子供が自転車に乗り始めた時に親がキチンと教えることが必要なのですが、乗れるようになるための“技術訓練”に先ずは必死なので、余り期待出来そうにありません。従って、学校で通学時の歩行マナーと一緒に自転車ルールも教えることが必要です。出来れば早い小学校の段階で。それが無理なら、自転車通学が増える高校入学時に必須として。
街中を走っていると、高校生の自転車の運転マナーの酷さにイライラする程です。悲惨な事故が起こらない内に何とかしないといけないのではないか!と危惧しています。

 山中湖を走っていて感じたこと。
それは、何とか集客しようという観光上での工夫や努力が感じられることでした。特に、同じ“海無し県”の山の湖である地元の諏訪湖との対比で、尚更その意を強くしました。

 例えば、山中湖周辺にはテディベア美術館などの幾つかの美術館や花の都公園などの観光スポット、また周囲14㎞の湖をぐるっと一周出来るサイクリングコースや遊歩道が設けられています。
一番感心したのは長地親水公園など、あちこちに無料の駐車スペースが設けられていること。それも数十台は駐車可能な広い駐車場です。仮に道路の反対側のレストランやカフェの駐車場が一杯でも、道路の反対の湖側に無料駐車場があったりします。
天気にもよりますが、石割山登山から昼頃戻った日は富士山が望めたので、駐車場に車を停めて皆さん思い思いに湖越しの富士山の写真を撮っていました。
そして、ドッグフレンドリーな観光地として知られる山中湖。調べてみると、ペットと泊まれるドッグヴィラやペンションはもとより、犬連れで入店できるレストランやカフェが湖の周辺にたくさん点在しています。テラス席OKという店が多いのですが、店内もペット可というレストランも何軒かあり、最終日に食べたほうとうのお店も別棟でしたがワンコと一緒に食べられるので、我々同様犬連れの観光客の皆さんが結構来られていました。
 片や、諏訪湖も一周16㎞で、周囲にはサイクリングやランニングコースが設けられていて、国宝や重文を収蔵したり、信州ゆかりの画家やフランスのアール・ヌーボーのガラス作品などを収蔵する、結構見応えのある美術館が湖畔に幾つもありますし、歴史ある諏訪大社や諏訪らしい味噌の醸造所もあってお味噌汁の試飲も出来ますし、少し歩けば日本酒の酒蔵も点在しています。また、一周すれば八ヶ岳は勿論、富士山や槍や穂高も湖岸から眺めることが出来ます。温泉施設は、山中湖は貧弱過ぎて湯量豊富な上諏訪温泉に比べるべくもない。決して観光スポットとして諏訪湖が山中湖に負けているとは思えないのですが、この賑わいの差はどうしてなのでしょうか?
やはり目の前にドーンと聳える日本一の富士の絶景には、幾つもの百名山の遠景を以てしても叶わないのでしょうか?(つくづく、背比べに負けて八ヶ岳の頭を叩いた富士山が憎らしい・・・とは厳に“三つ子の魂百までも”的幼少時の印象の恐ろしさです・・・)
 しかし思うに、山中湖に来て感じるのは、観光で盛り上げようという地元の熱意が違うのではないか?
山中湖村一村と、上諏訪、岡谷、下諏訪町という二市一町の諏訪湖を囲む広域とは、まとまり易さが違うと云えばそれまでですが、“大きいことはイイことだ”的な合併の良し悪しはその弊害もあることから別として、諏訪広域は長野県内でも唯一平成の合併が一件も成立しなかったエリアですから・・・。
しかし、例えば無料の駐車場一つとっても、山中湖はあちこちに広い無料の駐車スペースが設けられていて、写真を撮ったりワンコと一緒に散歩が楽しめたりするのですが、諏訪湖は湖岸通りの駐車場は狭く、ヨットハーバーは遠くて観光には不便。岡谷や下諏訪にもあるのですが、かなり離れています。
要するに、観光スポットが個々に存在しているだけで、エリアとしての連携・提携が無い・・・。ペット連れで来ても、散歩には良いのですが、一緒に食べられるレストランなど殆どない・・・。しかも山中湖のレストランはどこも高い観光地価格(ランチのほうとうやハヤシライスがナント1600円!)で、むしろ諏訪湖の方がリーズナブルで選択肢は遥かに多いのに!・・・なのです。

 せっかく美術館などの個々の施設にはそれぞれの魅力があるのに、実に諏訪湖は勿体無い!第一、諏訪湖の方が山中湖より大きいのに!・・・。忍野より、諏訪守矢家に代表されるミシャクジの方が余程神秘的!、八ヶ岳の圧倒的な縄文パワー!・・・なのに・・・です。
山中湖に来て富士山に圧倒され、観光で賑わう湖畔で何だかそんなジレンマを感じた次第です。

 せっかく山中湖に来ているので、最終日にワンコを連れて観光です。
行ったのは、忍野八海。コロナ禍の前は、忍野八海はインバウンド、特に中国人観光客に人気の観光地であり、所謂オーバーツーリズムの代表例として京都と共にTVで報道されていました。忍野八海では、ゴミを捨てる、民家の中に勝手に入り込んで写真を撮ったりご飯を食べたり、禁止を無視して池にコインを投げ入れる・・・云々。
しかし、GoToトラベルとはいえ、まだ海外からの観光客は居ないでしょうから、その間に忍野八海に行ってみようと思った次第。観光案内に拠れば、
『天然記念物である「忍野八海」は、富士山の伏流水に水源を発する湧水池です。富士信仰の古跡霊場や富士道者の禊ぎの場の歴史や伝説、 富士山域を背景とした風致の優れた水景を保有する「忍野八海」は、世界遺産富士山の構成資産の一部として認定されました。』
「忍野八海」の名前は、8つの池がとても神聖なもので、「池」というにはもったいないほど尊いから「海」と付けられたとされ、富士山を水源とするその8つの池は、「出口池」、「お釜池」、「底抜池(そこなしいけ)」、「銚子池」、「湧池(わくいけ)」、「濁池(にごりいけ)」、「鏡池」、「菖蒲池」の8つの湧水池です。

 山中湖から忍野八海へは車でホンの10分足らず。中には、サイクリングで山中湖から来られた観光客のグループもおられました。
9時前に忍野八海に到着。目に付いた駐車場に車を停めました。30台程は停められる民間の無人駐車場で、郵便受けの様な箱に300円を投入する仕組み。
まだ朝早いのか、我々も含めて3台程しか停まっていませんでした。
駐車場からは、近道という案内に従って、一番近くの「湧池」へ。周囲には土産物店があって、修学旅行と思しきジャージ姿の子供たちや我々同様の観光客で混んでいました。池に近付くと、白線が引かれていて「ここからはペット侵入禁止」とのことで、止む無くバギーを停めて、家内と代わり番こに池を観察してから、すぐ横の「濁池」へ。池というより川の一部で、脇には穂高の万水川にあるような水車があり、ちゃんとソバの粉を挽いていて、すぐそこの蕎麦屋さんでその粉で打ったソバが食べられるとのこと。そこから川沿いに沿ってしばらく歩いて行くと「お釜池」。直径2m足らずの一番小さな池ですが、コバルトブルーの深く吸い込まれる様な青色が印象的です。イワナと思しき魚が悠々と泳ぎ、豊富な湧水がその池から清流となってが流れ出していて、梅花藻がびっしり生えていました。そこから少し歩くと、集落の外れに出て、一番離れている「出口池」へ行くのですが、どこも同じような感じなので、そこには向かわずに川沿いに戻ることにしました。
そして、最初の「湧池」の先の一番賑やかな通りを進むと、そこが集落の中心地で、周辺には土産物店が立ち並んでいて、そこに「忍野八海」とは関係のない人工池の「中池」があり、この「中池」はその一番大きな土産物店の所有なのだとか。池に行くには土産物店の中を通らないと行けません。
そこで、屋根付きの休憩所の様なオープンスペースで、ワンコたちにおやつをあげながら、代わり番こに行ってみることにしました。
大きな池の中にある島への中に橋を渡り、その島の中にあるのが「中池」。人工的に掘った池だそうですが忍野の中で一番深く、湧水も豊富な様で、深さがあるためかコバルトブルーも一番深みのある青で実に印象的。大きな鯉やニジマスが泳いでいて、池の周りには「お金投げ入れ厳禁」、「罰金千円」との警告板が中国語でも書かれていました。実際、深い池の底には投げ入れられたコインが銀色に光っていました。中国では、池への投げ銭は幸運のおまじないなのだそうですが、それは最初の「湧池」も同様で、忍野では投げ入れられるコインは、毎年ダイバーを雇って取り除いていると聞いたことがあります。
土産物店や幾つかの屋台を物色していた奥様。買いたいものも食べたいものも特に無いというので、ランチも(信州から来て)ここでソバを食べてもしょうがないので、だったらホンの10分足らずの山中湖へ一旦戻って、昨日は定休日だった山梨名物の「ほうとう」を食べてから帰ることにしました。
 「忍野富士」。記憶に残る、雪を頂いた富士と茅葺屋根の古民家の風景。ある意味、日本の原風景であり、だからこそ、我々日本人ばかりでなく中国人を始め海外からの観光客の人気も集めるスポットであるのでしょう。
しかし、残念ながらその一方の主役である富士山が、この日は雲に覆われていて姿が見えなかったせいもあるとは思いますが、確かに湧水は清らかでそのコバルトブルーは印象的ではあったのですが、でも富士が無ければ或る意味“それだけ”。例えば、穂高のワサビ田と然して変わらない。ただ(我々もその一人である)観光客が多くて、その観光客目当ての俗化された店ばかりが立ち並んでいるだけで、先程の「この先はペット侵入禁止」という旅先での初めての警告に触れ、また店の前では「〇〇、どうですか?」、「すぐ食べられますヨ~!」という客呼びの声が掛かり、残念ながら“原風景”的な風情は微塵も感じられない。集落のあちこちに設けられた、手っ取り早い現金稼ぎの手段であろう無人駐車場も(観光客にはありがたい反面)何だか俗化を助長する・・・。批判されたオーバーツーリズムも、観光業(忍野であれば、土産物店や飲食店)はインバウンドの恩恵に浴していたのも事実・・・。
部外者がアレコレ批判しては失礼とは思いつつ、コロナ禍で“声高”で煩い様なインバウンドの集団が消えた中で、これが「忍野富士」のイメージを抱いて初めて訪れた「忍野八海」での正直な印象でした。

 石割神社は石割山の八合目とのことですが、そこまでは参道ですので、キツイ階段を除けば結構幅広い緩やかな登山道でしたが、神社から先の山頂までは細く、思いの外急登が続きます。

     (写真は、神社から登山道に入って振り返った地点で写したもの)
急坂に木の根が張り出していたり、補助のロープが張られていたりして、それらを掴んで登る箇所が幾つもあったりと、ハイキングというよりもむしろちょっとした登山気分が味わえます。
そして急に目の前が開けると空き地が現れて、そこが1413mの石割山の山頂でした。神社から20分で到着しました。いきなり目の前に、ドーン!と富士山が現れます。箱根の金時山も目の前に富士山が眺められましたが、山中湖のすぐ北に在る石割山からは、金時山よりも富士山がとにかくデカイ!しかも、富士山の右肩に雪を被った南アルプスまでの眺望が拡がっていました。この日は快晴とまではいきませんでしたが、一週間前までは雨模様の予報だったことを考えると、流石は我が奥様の(2年間参加した「女性のための登山教室」で崇められたという)“晴れ女”振りは健在です。
 暫くすると石割神社に居た方々もそれぞれ到着され、お互いの中高年の登山話で談笑。「いや、健脚ですね!」とのお褒めの言葉に、
 「いえいえ、ただ家内の後を付いて来ているだけです・・・。」
その方はリタイア後の健康とお金の掛からぬレジャーとして登山を始め、寝泊まりできるようにワゴンカーを自ら改造し、各地の日帰りで登れる山を選んで巡っているのだとか。それだったらと、少ない経験の中から唐松岳を推薦させていただきました。
 我々は先に行くことにして、次にトレッキングで平尾山を目指します。
平尾山は1318mと石割山からは100m低いことから、ずっと下りが続きます。しかもかなりの急坂で、昨日の雨もあって滑り易いので補助ロープを掴んで気を付けて進みます。暫くすると尾根道で平坦になり、平野へ下る分岐点の標識を過ぎると平尾山はすぐそこ。
ここからも、富士山が目の前に聳える絶景です。しかも、石割山よりも少し富士山に近づいたので、心持ち富士山が大きくなったようにも感じます。
山頂にはベンチもあったので、ここで行動食を食べて暫し休憩。すると賑やかな声がして、二人組の別の男性陣が到着。
私メが、富士の裾野に見える広大な草原を家内に、
 「あれって自衛隊の演習場だよね、きっと」
と言っているのを彼らが聞いて、
 「そうか、あのドカン、ドカンという音は自衛隊の砲撃訓練なんだ!」
と言うので、思わず私も、
 「ナルホド、そうか、そうですよ!」
と相槌。というのも、昨日からドン、ドンという大きな鉄の扉を閉める様な音がホテルの部屋の中にいても聞こえていて、まさか山中湖付近に鉄工所や造船所がある筈も無く、一体何の音なのだろうと訝しく思っていたのですが、地元の方々は何の違和感も無いようにさえ感じられて、不思議な気持ちでいたのです。「そうか、自衛隊の演習なら理解できる・・・」。以前も富士吉田から御殿場間の富士五湖道路を走っていると、ちょくちょく迷彩色をした自衛隊のトラックや装甲車(今回は軽装甲機動車の車列)などの車両とすれ違うのですが、そういえばこの富士の裾野には北富士、東富士などの広大な演習場が拡がっていて、昔「戦国自衛隊」などの映画のロケも行われた筈です。定期的に実施される演習での砲撃訓練で、きっと地元の方々は慣れっこなのでしょう。
 その男性二人組は、これから大平山に向かうとのことで、
 「大平山ヘ行くと、石割神社の駐車場へは戻れませんよ」
 「そうなんですよね。でも今日は富士山もしっかり見えるので、せっかくだから大平山まで行ってみます。帰りはタクシーでも拾って戻りますヨ。」
と、お互いの山道の無事を祈って、我々は先程の分岐へ戻り平野方面へ下ることにしました。実際、このハイキングコースは石割山から平野山を経て大平山までがトレッキングコースになっています。
 我々は来た道を少し戻り、分岐から平野への道を下っていきます。途中、整備された下記の階段の坂が続き、木々の林の中を下っていきます。
暫くすると標識が現れ、トイレ・駐車場と書いてある広い道の方を下っていきます。しかし、何となく違うような気がして、ちょうど森林調査をしている調査員の方がおられたのでお聞きすると、この道は石割神社ではなく別荘地の方に向かう道で、遠回りになるとのこと。そこで、5分程でしたが標識まで戻りました。その標識、どう見ても指し示す方向がずれています。そこで、他の登山者が同じ様に道を迷わぬために、刺してある杭を折れない様にねじって矢印を本来の方向に出来るだけ近づけておきました。そういえば、このコースは、道そのものは遊歩道として木製の階段が所々に設けられていてかなり整備されているのですが、山頂までの距離などの案内の標識が少なく、分岐点にあるだけくらいなので、登山道としては些か不親切な気がしました(今までで、一番案内が親切だったのは那須岳でしょうか・・・?)
本来の道はかなり狭い道で、10分ほど下ると無事駐車場に到着しました。
すると、石割山におられた方が車で休んでおられたので、お聞きすると、その方は平尾山には寄らずに石割山から下山されたそうですが、やはり道を間違えてそのまま下り、民家の点在する中を歩いて駐車場まで戻って来らたとのことでした(「そういえば、調査員の方がおられました。」との由)。

 朝は10台程だった駐車場は満車で、停められずに溢れた車は道端に何台も駐車していました。石割山は手軽に登山気分を味わえる人気の山の様です。
キツイ階段を上り、神秘的な石割神社にお参りをしての石割山と平尾山登山。朝8時半に出発し、最後10分程道に迷いましたが、下山は11時半過ぎ。概ね3時間程の行程で、登山というよりもトレッキング、地元の観光案内ではハイキングでしたが、石割山山頂付近は結構な急坂もあってちょっとした登山気分も味わえますし、勿論石割山と平尾山からは(天気が良ければ)富士山の絶景を眺められますので、結構変化もあって楽しめるコースでした。
我々にとって、コロナ禍でのシーズン締め括りとなった富士の絶景を楽しめた山旅でした。

 秋になって日本列島に近付いた台風の影響もあって、10月の中旬は雨模様の日が続きました。
そんな10月17日。里は冷たい雨でしたが、美ヶ原では初雪で2㎝の積雪とのこと。もう信州の2000m級まで雪山シーズンの到来です。紅葉の美ヶ原へ3度目の登山で、今シーズンの締め括りと考えていたのですが、慣れない雪山は・・・と諦め。
 そこで、プチ旅行を兼ねて山中湖へ行って、富士山を望む周辺の低山に登ることにしました。登山というよりもトレッキング。地元の観光案内には、「山中湖ハイキングコース」との表記。いずれにしても初心者向けコースです。
今回もワンコ連れで、山中湖周辺のドッグヴィラに宿泊します。
山中湖は、娘が学生時代の夏休みに湖畔の高級リゾートで住み込みのバイトをした時に日帰りで送迎したことがありますし、家内は以前山中湖に実家の両親と観光で滞在しています。
また、これまでも車で箱根や西伊豆へ行く際に、中央道で富士吉田から富士箱根道路を走ると山中湖ICも通過するのですが、観光では今まで山中湖に来たことはありませんでした。
山中湖周辺はドッグフレンドリーなエリアとしても知られているので、今回の登山も兼ねて初めて観光で行ってみることにしました。
移動した日は、松本から山中湖までずっと雨。一番の目的の“富士山の眺望”も、麓に行っても僅かに裾野が見えただけ・・・。今年の秋は?

 一転して翌日は晴れ!朝から、富士山がクッキリとその雄姿を見せてくれました。
ワンコたちは部屋でお留守番です。今回のトレッキングは、標高1413mの石割山。以前、NHK-BSの登山番組で、初心者向けコースとして石割山が紹介されていました。
先ずは石割神社を目指します。地元の観光案内のパンフレットに依れば、石割神社は石割山の八合目に位置する大岩を御神体とする神社で、その名の通りご神体の岩が裂けていて、この岩の隙間をくぐると開運と無病息災の御利益があるといわれ、岩からしみ出る水は霊水として信仰されているそうです。石割山ハイキングコースの途中にあって、「道は険しいが山中湖随一のパワースポット」とのこと。

 朝8時半に石割神社入口の無料駐車場に到着。トイレもあり20~30台は停められるとのことでしたが、もう既に10台程駐車していました。我々を含めて結構県外車が多く、TVで最近放送されたこともあるのかもしれませんが、石割山の人気の程が伺えます。
石割山へは別の登山道もある様ですが、石割神社へは赤い鳥居をくぐり403段という階段を上っていくのが本来の参拝ルート。しかし、この階段を上るのがかなりきついので、全日本スピードスケートチームも合宿の際に練習に利用していたそうです。そういえば近くの富士急ハイランドにアイススケート場がある筈ですが、富士急のスピードスケート部といえば、旧三協精機と並ぶ名門で、メダリストの橋本聖子や岡崎朋美を始め多くのオリンピック選手を輩出しています。
 駐車場横の太鼓橋を渡って一礼して鳥居をくぐり、いざ階段上りのスタートです。途中でマスクを車に忘れてきたことを思い出し、やむを得ず独り階段を下りて急遽引き返して再挑戦。見上げると先が見えません。7年前にツアーで行った金毘羅さんは、本宮までの階段が785段でしたが、それよりも短いとはいえ、その間の+7歳の加齢故か、この400段は些か身にこたえます。しかも、途中で待っていてくれた家内と合流して見えていた階段を上り切ると、そこが終点ではなく、右に折れて更に続く階段が目に入りました。そこで皆さん、「えっ、まだ階段あるんかいな!」というショックもあって、ここで暫し休憩の様子。
しかし、ここまで三分の二くらいは上って来ている筈なので、「あともう少し!」(の筈)と勇気を奮い立たせて残り100段程を登りきると、そこが東屋のある富士見平です。東屋にはベンチもあるので、漸く403段を上り切ってここで皆さん休憩です。但しその「富士見平」は、今は木々に囲まれていて富士山は見えませんでした。ここまで15分との表示ですが、私メが戻った時間を除けば10分くらいだったでしょうか。ここから更に神社へは30分との表示で、今度は登山道にしては幅が広くて立派な参道を登っていきます。階段に比べれば坂の傾斜は緩やかで、途中漸く木々の間から眼下の山中湖とその後ろに聳える富士山が顔を覗かせてくれるので、その雄姿に励まされる様で何だか歩みも軽く感じます。途中傾斜が多少急な個所もありますが、最初の階段に比べれば遥かに楽。それこそハイキング気分で歩けます。ご神木という桂の巨木を過ぎると、神社はすぐそこ。小さな祠と大きな岩が目に飛び込んで来ました。
富士見平からは20分程で到着。“神社”というイメージからすれば、祠の様な小さな社殿とその背後に立つ威圧感溢れる堂々とした巨岩。しかも、縦に裂けていて、左側の側面に「石」の形に亀裂が入っていて、それが“石割”神社の名前の由来なのだとか。そこからも連想される様に、ここも天岩戸伝説のモデルの一つとされる様で、従って主祭神は天手力男神とのこと。そしてここは開運のパワースポットでもあり、時計回りに回る順路が示されており、高さ15mという狭い割れ目を3回通り抜けて回ると願い事が叶うのだとか。我々もそれにあやかって、三度割れ目を通り抜け(結構狭いです)拝殿で願い事をふまえてお参りをさせていただきました。
その途中、階段と東屋で先に行かせていただいた4名ほどの方々の内、お二人が到着。謂れをお話しし、お二人も「それでは」とお参りをされていましたので、我々はそこから目的の石割山山頂を目指して先に歩を進めることにしました。

 コロナ禍により制作がままならず、中断や放送回数削減などを余儀なくされた今回の朝ドラ「エール」。
朝ドラだけではなく、同じNHKの大河や民放のドラマ制作にも、コロナ禍が大きな影響を及ぼしました。

 その週の総集編を放送している土曜日の朝ドラ再放送を止めて本放送に変えれば、10話も回数を減らさなくても、元々の内容に限り無く近付けられるのではないかと個人的には思ったりもしたのですが・・・。
後で知ったのは、コロナ禍の影響は、単にキャストや制作スタッフが密を避けるべくなかなか集まれないということよりも、むしろ制作に莫大な時間と工数の掛かるCG製作が不可能だったことが一番の理由だということでした。
 「ナルホド、そうだったんだ・・・」
確かに、インパール作戦の悲惨な戦場、豊橋の空襲後の廃墟、原爆後の長崎での崩れ落ちた浦上天主堂、そして戦後の闇市・・・。
その後、漸く甲子園の場面になって、当時の甲子園で撮影されたかの様な、CGのさすがの臨場感・・・。改修前のスコアボードやスタンドの様子がCGで蘇りました。アルプススタンドの看板に「キロンパス」という看板がありましたが、「サロンパス」を書き換えたのでしょうか、芸が細かい、細かい・・・。
確かにその意味では、放送された先述の空襲や原爆後の廃墟や闇市のバラックなど、CGに比べれば如何にも安っぽい舞台セットにしか見えなかったのは事実です。
しかし、まるで舞台の様な、そんな“安っぽい”セットだからこそ、まるで舞台演劇を劇場の客席で観るかの如く、演じる俳優に、そのセリフの一言一句と一挙手一投足に、より大きなスポットライトが当たったのではないか・・・!?
その結果、TV前で“観劇”をしていた我々“観客”は、画面ではなくむしろその演技そのものに引き込まれたのではないか・・・!?・・・例えば、
焼け跡で歌う聖母の如き、讃美歌「うるわしの白百合」に・・。
廃墟となった浦上天主堂に響く「長崎の鐘」に・・・。
闇市のラーメン屋台での、スープ以上に暖かそうな、長女夫婦と戦争孤児との“家族”愛溢れる笑顔に・・・。

 以上に代表される様な、コロナ禍中断後に放送された場面は、逆説的ではありますが、最近の朝ドラには無かった様な、結果的に“コロナ禍”に因ってもたらされた朝ドラ史上に輝く名場面になったのだと思います。

 最後に、個人的に一番印象深かったシーンは、戦争に加担した心の呵責にさいなまれ作曲出来ずにいた祐一が、幻影に襲われながらも夜を徹して漸く書き上げた“復活”の曲、「鐘の鳴る丘」(注)の主題歌「とんがり帽子」を、疲れ切って眠る裕一の傍らにその楽譜を見つけた音が、泣きながら感激に声を震わせて初見で口ずさむ場面。
 「♪・・・ みっ・ど・りっ・の・おっ・か・のー・あっ・か・いぃ・や・ねー・・・」
例え史実とは離れたフィクションであったとしても、感動する名場面だったと思います。
 「フム、さすがは音大出身者!」
 そして、音大出身といえば佐藤久志役の山崎育三郎。
後で知った、甲子園のマウンドで歌った「栄冠は君に輝く」のシーン。実際は、ある球場でロケして3番まで全てアカペラで歌い、その後の編集でコーラスや伴奏を追加したのだとか。普通アカペラの合唱などでは、どうしても音程が下がり気味なのですが(合唱した際に、冒頭アカペラで始まって途中からピアノ伴奏が入ると、その音程差にガックリしたこと暫し)、最後3番目でバックにコーラスや合奏が入っても、ピッチもテンポもドンピシャ!
 「オー、さすがは本物の音大出身者!!」
と感心した次第です。

【注記】
「鐘の鳴る丘」のモデルの一つとなったのが、穂高町にあった「有明高原寮」。昭和21年(1946年)、地元篤志家が戦災孤児ら少年の保護施設「松本少年学院」を開設し、24年(1949年)に法務省所管の少年院となって「有明高原寮」と名称を変更。当時の建物は「鐘の鳴る丘集会所」という青少年の合宿訓練所として、近くに移築されて現存しているそうです。
因みに、昔スキーで良く行った栂池スキー場にも「鐘の鳴る丘ゲレンデ」があり、モニュメント「とんがり帽子の塔」も建っていて、「どうして関係の無い栂池に?」と訝しく思った記憶があるのですが、それは栂池が映画「鐘の鳴る丘」のロケ地だったからなのだとか。