カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 飼い主に忠実と云われる柴犬などの和犬や、総じて人懐っこいとされる洋犬など、それぞれ犬種毎に特徴があることは否定しませんが、同じ犬種であっても個々の犬によって少しずつ性格が異なります。それは、必ずしもその犬種のせいだけとは断定できない個々の性格や癖であり、それは我々人間と同様に、それぞれの犬の持つ個性だろうと思います。

 以前、家を建てて初めて飼った今は亡きチロルと二代目のナナのそれぞれの癖を、題して“ナナ癖”とご紹介した(第939話)のですが、新たに家族になったコユキには犬種のマルチーズとしての特徴に加えて、コユキ個人(個犬?)としての癖があります。

 それは、大好きな家内が朝起きたのを察知すると、二階から降りて来るのを今か今かと階段下まで行って待っていて、階段を下る音がするとやおら立ち上がってけんけんして歓迎しています。しかもそれが、長い時は20秒くらいも続くのです。
そして、もう一つの癖は、ウンチをする時にまるでフィギアスケートのスピンの様に、それこそ何十回もその場でクルクル回転してからポジションが決まると漸くウンチをするのです。
室内のオムツでオシッコをする時は、ナナもオムツの上で何度か回転してからオシッコをしていますが、散歩中はウンチも含めて回ることはありません。
散歩ではコユキは大好きな家内と必ず一緒に行くのですが、その時家内はコユキが回転することでリードが縒(よ)れてしまうのを避けるために、手許でコユキの開店に合わせて(同調させて)一緒にリードをぐるぐると回転させています。
或る意味“微笑ましさ”を感じないではないのですが、その癖はもしかするとブリーダーに捨てられるまでの8年間(推定ですが)、ただ繁殖させるための“ビジネスツール”として狭いケージに閉じ込められていて、自由に動くことが出来ず、ましてや戸外に散歩に出ることなど無く、結果としてその狭い自分の行動範囲の中で出来た唯一の“動き”がその“回転運動”=スピンだけだったのかもしれません。
しかもコユキは、散歩中に他の犬が普通にする様なマーキングを、これまで一度としてすることがありません。散歩をさせてもらうことも無く、捨てられるまでの8年間、ずっとケージの中に閉じ込められていたのであればそれもむべなる哉・・・と思わざるをえません。
その意味では、むしろこれまで歩んで来たコユキの“犬生”から止むを得ず身についてしまった習性や癖かも知れず、例えクルクルと何十回と回転しても、それは微笑ましさよりも却って不憫さを感じてしまうのです。
 小型犬の寿命は大体15年と云われています。犬種の平均寿命で云うと、コユキのマルチーズは、ナナのシーズーとほぼ同様の13才だそうです。正確には分かりませんが、コユキが推定8歳であるとすると、仮に彼女の寿命が仮に15年だったとしても、クルクルと回転をするコユキを見るにつけ、“三つ子の魂”ではありませんが、彼女の過ごして来たこれまでの“犬生”の半分を思わずにはいられません。
これまでの彼女の“犬生”と少なくとも残りの同じ8年以上をこれから頑張って過ごしていく中で、これまでの様に怯えて神経質にならずにお腹を見せて寝られる様な、安心安寧の生活の中で、これからのコユキが好きな様に、そしてしたい様に、これまでの生活から身に着いた癖や習慣が少しずつ、そして一日も早く変わっていくことを願っています。
 “ハイ、コユキ!りらっくすぅ~♪”

 この冬は暖冬ですが、薪ストーブは例年同様に毎晩焚いています。
購入しているナラ材の薪が太くて火持ちは良いのですが、細い方が火を着けた最初の頃は燃え易いため、焚き付けの確保も含めてナタで半分くらいの太さに割って使っています。
一週間毎に薪割をするのですが、薪を割っていると結構木の中から小さな芋虫が現れてきます。
すると、以前にもご紹介した様に、どこからともなく背中が黒くお腹の茶色い小鳥が現れて、木の枝に留まって人間がいなくなるのを待っています。モズです。
10年ほど前でしょうか、初めてモズが現れて薪割の度にその芋主を啄んで食べる様になりました。そのモズは随分人懐っこくて、然程警戒することもなく、すぐ近くの枝に留まってじっと待っていました。そこで“モッくん”と名付けて、モズとの交流が冬の間続きました(第37話参照)。

 春先などにトラクターなどで畑を耕していると、掘り返された土の中に住む虫を探して、耕し終わった後を鳥が歩き回ることがありますので、鳥の習性として、薪割りなどで木の中に住む芋虫が見つかることを知っているのかもしれません。そこで、薪割り最中に木の中から出て来た芋虫をモズ用に並べてあげます。割った薪を運んで、新しく割る薪を積んで戻って来ると、しっかりとモズが芋虫を食べてキレイに無くなっていました。

 その後“モッくん”は居なくなったのですが、また二年程前にモズが現れました。しかし、モズ(百舌鳥)の寿命は2年程度だそうですので、10年程前の最初の“モッくん”ではなく、恐らく全く別のモズだったのでしょう。謂わば“モッくん”2世です。
 そして昨年は全く見掛けなかったのですが、今年、また芋虫を並べて置くと無くなるようになりました、まだモズそのものは見掛けてはいないのですが、また別のモズが現れて食べているのかもしれません。今度は“モッくん”3世なのでしょうか。姿を現してくれるのを楽しみにしています。
【注記】
写真は2年前の“モッくん2世”と(嫌いな方もおられるかもしれませんが・・・スイマセン)木の中から現れた芋虫です。

 松本でもお寿司が食べたくなって、久し振りに「氷見きときと寿司」松本店へ。週末の土曜日ですので、まだ6時頃でしたが結家族連れの皆さんで結構混んでいて、この店で初めての順番待ちでした。
この混雑振りなら、“何とかステーキ”の様に撤退閉店する心配は無いようです。というのも、何とかステーキはが全国で50店舗近くをここで閉店した中で、長野県内では飯田店と大町店、更には2店舗あった長野市も川中島店が閉店した由。イオンモール松本が県内初出店だった松本には現在2店舗あるそうですが、果たしてお客さん入っているのでしょうか。個人的にはどうでもイイことですが・・・。いずれにしても、報道を見るにつけ、店頭にあるらしい社長さんの写真とメッセージは撤去した方が良いのでは?と思います。

 さてこの日の「きときと寿司」は久し振りにヒラメがあり、しかもプリプリと歯応えもあって美味しかったので、二人とも二皿ずつ頂きました。
そこでエンガワも炙りで注文。光り物は初めに“おすすめ三貫セット”で試した結果、やはりこの日もアジが出色。プリプリで新鮮でした。イワシは炙りの方が好みなのですが、この日のイワシは小骨を取り切れてなかったのか少々骨っぽい。でも好きなので炙りイワシと真アジは二皿ずつ注文。
つまみ用に頼んだ玉子は、前回横浜で食べた「金沢まいもん寿司」の玉子が実に美味しくてまだ舌の記憶に残っていて、それと比べるとしっとり感が無くパサパサに感じてしまいます。更に、つまみ用にはまさに氷見が地元の“富山湾の宝石”白エビの天婦羅をいただきました。
 次女の住む近くには「金沢まいもん寿司」はあるのですが、蒲田からは移ってしまったので、「美登利寿司 活」に行く機会が無くなってしまいました。昔高速バスに乗る前によく行っていた、新宿駅西口の「沼津港」は東口に移転して(少なくとも新宿店は)質が落ちました。「活」は、蒲田以外にも渋谷や池袋にもあるのですが、次女も嫁いでしまった今、そもそも上京する機会が減りました。
そのため、“海無し県”信州の松本で食べる以外は無さそうです。流通網の発達で、昔に比べれば遥かに新鮮な魚介類が食べられるようになったとはいえ、そうは言っても海の近くや需要の大きな都会とはさすがに差は歴然で、比べるべくもありません。地場の店では、一時はお好みでのネタも新鮮で豊富だった「王滝」も、寿司以外にむしろ注力しているのか、寿司ネタの数が減ってしまい、以来全く行かなくなりました。
因みに、かっぱ寿司は長野市が発祥の地ですし、勿論全国展開をしているスシローやくら寿司なども県内に幾つも出店はしています。しかし、「美登利寿司」や「まいもん寿司」などが松本に出店して来ることはあり得ないでしょう。しかし、「きときと寿司」も「まいもん寿司」同様に、北陸が本拠の所謂グルメ系回転寿司ですので、その意味で「きときと寿司」は貴重な存在。従って全国展開をしている回転寿司チェーンよりは、値段は高めになります。
例えば、「活」、「まいもん寿司」、「きときと寿司」をネタ(一皿2貫)で比較すると、勿論仕入れや時期によって値段は変わるかもしれませんが、その順番で、ヒラメが360円、780円、660円。中トロは、360円、590円、460円。日本海のイメージであるのどぐろは360円、780円、660円。光り物は、アジが110円(特選アジは260円)、290円、180円、コハダが110円、350円、110円でした。従って、値段的には「きときと寿司」の方が、「活」よりもむしろ高くなります。
しかし、富山湾の氷見に本拠を置く、そうしたグルメ系回転寿司の「氷見きときと寿司」が松本にもあることに、むしろ感謝した方が良いのかもしれません。

 平野レミさんといえば、そのあっけらかんとした天性の明るさで自由奔放で大胆な料理を連発し、今や元々シャンソン歌手だったとは思えぬ程の「料理愛好家」。人呼んで“生きる放送事故”とか・・。
それにしても、毎回彼女の大胆な発想には驚かされますが、しかし単に大胆なだけではなく、料理そのものが実に美味しそうなのです。

 先月、NHKの朝ドラの後、そのまま付けていた「朝イチ」で放送されていた「平野レミの早わざレシピ」。
その中で、「これは面白い!」と興味を持ったレシピが「長ねぎのとぐろ巻き」。それは、長ネギが丸く曲がるように蛇腹風に1㎝刻みで刃を入れ、豚バラ肉を隙間なく巻き塩コショウをして、豚バラが剥がれない様に小麦粉を薄くまぶしてから、フライパンにそれこそとぐろを巻いたように何本か並べて途中ひっくり返して焼き、料理バサミで適当な長さに切りながら、お好みで柚子胡椒や七味唐辛子、或いはポン酢で食べるというもの。

 女性陣に好評かは微妙ですし、自分だけなら失敗しても良い(母には常備の惣菜など別の料理を出せば良い)ので、そこでm奥さまが娘の処に上京して不在の時に試しに作ってみることにしました。
材料は長めに切られた豚バラスライスを買って来て、家にある「松本一本ねぎ」レシピに沿って豚バラを巻きます。自分ひとりだけではそんなには食べられないで、ネギは二本だけにしました。
因みに、この松本一本ねぎは江戸時代から松本地方で栽培されていた伝統野菜で、わざわざ植え替えをして寝かせ土を被せて白い部分を多くするのと、また寝かせることで、真上に伸び様とするネギにストレスが掛かることで結果甘味が増すのだとか。そのため、JAの付けた松本一本ねぎの愛称が“曲がりちゃん”であるように、一般の白ネギの様に真っすぐではなくて弓なりに湾曲しているのが特徴。従って、実にこのレシピ向きのネギなので、わざわざ蛇腹風に切り込みを入れなくても、一人分の二本位であればそのまま巻いて丸くフライパンに並べることが出来ました。お皿に移さず、フライパンのまま鍋敷きに載せて食卓へ。ナイフで4㎝に切りながら、ポン酢で頂きました。
 脂部分の多いバラ肉ですので、結構もたれます。そのため見た目よりも食べ応えもあり、豚バラもですが蒸し焼きにしたネギが実に甘い。全体にコクがあって美味しく感じました。
従って、年寄はそうそうたくさんは食べられないかも知れませんが、材料費も他の肉料理に比べて大して掛からないでしょうから、見た目のインパクトがありコスパも良いので、子供さんや若い人受けするメニューかもしれません。
また、豚バラに信州産ポークを使えば、地場の伝統野菜である“松本一本ねぎ”をPRするレシピとしても最適だと感じた次第です。

 先日、国立がん研究センターが大豆食品と発酵性大豆食品の摂取量と死亡リスクの関連について専門誌で論文を発表し、全国的なニュースになりました。それによると、納豆・みそなどの発酵性大豆食品の摂取量が多いほど死亡リスクが低下。特に納豆の摂取量が多いほど循環器疾患死亡のリスクが低下する傾向がみられたとのこと。かと言って、多く摂り過ぎても効果は無く、一日一パックの納豆摂取が理想的とのこと。
納豆菌の効能は以前から知られていましたが、この報道で更に納豆や味噌などの発酵食品が注目されることでしょう。

 長野県は信州味噌に代表されるように味噌生産日本一で知られていますが、実は“納豆王国”でもあるのだとか。
それは、「全国納豆協同組合連合会」が主催する、納豆の製造技術改善と品質の向上を目指して行われる審査会「納豆鑑評会」。これまで19回行われてきたこの審査会において、日本一の農水大臣賞受賞回数が一番多い都道府県は誰もが想像する“水戸納豆”の茨城県ではなく、通算5回受賞している長野県なのだそうです。因みに二番目は北海道とのこと。
確かに、信州味噌に代表される様に長野県は大豆の発酵食品が昔から盛んですので、納豆もその延長線上にあるのかもしれません。
 その「全国納豆協同組合連合会」のH/Pに拠れば、「納豆鑑評会」は、
『・・・「納豆」の日本一を決めるコンクールとして毎年開催され、 審査員が、納豆の「外観(見た目)」「香り」「味・食感」の3つの項目を評価して、5点満点の整数で出展納豆それぞれに点数をつけて審査が行なわれ、最優秀なものに対して農林水産大臣賞が送られる・・・』
納豆の全国コンクールなのだそうです。
このコンクールで日本一になっ長野県の納豆は、「川中島納豆」、「道祖神納豆」など。そして大粒納豆派の奥さまが昔から買って食べているのが、この「川中島納豆」なのです。
 因みに、小粒派の私メもこれまで色々試しては見たものの、結果として昔から好きなのが本場水戸の「くめ納豆」(過去の経営不振により現在はミツカン傘下)。
余談ながら、高校の大先輩でもある太田和彦先生が「ニッポン居酒屋放浪記・疾風編」の中の「水戸」の中で書かれていた「・・・天狗でもおかめでもなく、納豆はくめに限る!」の一文を読んで以降、その思いは遂に確信に変わりましたが・・・。
さて奥さまのお気に入りである、地元長野市篠ノ井の増屋納豆店の大粒納豆「川中島納豆」。大手メーカーではないので生産数量も限定されるのか、イオンや西友などには並んでおらず、この辺りではツルヤでしか入手できません。この川中島納豆は過去2回日本一になっているのだそうです。現在使われている大粒納豆は松本平で生産されるツブホマレという品種なのだとか。他の納豆に比べ少しお高いのですが、大豆の粒だけでなく容量も90gと倍の大きさです。
また同じく長野市若里にある村田商店の安曇産のナカセンリとい小粒納豆を使った「道祖神納豆」も日本一を受賞。きっと「道祖神」という商品名も、大豆の産地である安曇野からの命名なのでしょう。
そして更には、中野市にある阿部納豆店も北海道産の大豆を使った納豆が農水大臣賞を受賞しているのだそうです。
 観光等で信州に来られた際に、もし機会があったら“納豆王国”の納豆を是非試してみてください。

 10年ほど前に奥さまの実家から頂いて来たシンビジウム。
一鉢を株分けし、実家の茅野では咲かなかった別種のシンビジウムを、茅野よりは温かい松本なら咲くかも?と運んで来た鉢と併せて三鉢。
今では、栽培している各園芸店で様々な品種改良がされ、その結果多くの品種が登録されていますので、ネットで調べても全く同じと思える品種の名前は分かりません。後から来た鉢には「プロムナード」とありましたが、ネットで調べて写真を見ると、園芸店毎に多少違うような気もします。

> 毎年の手入れと共に庭の植栽も診ていただいている園芸店「ナカツタヤ」のスタッフの皆さんのアドバイスも踏まえ、奥さまが丹念にシンビジウムの世話をしてきた結果、実家からのプロムナードは数年に一度、他の株分けした同じ種類のシンビジウムはほぼ毎年の様に花芽を付けてくれています。
しかし、昨年全部の鉢が初めて見る位たくさんの花芽を付けてくれたのですが、玄関に出すのが早過ぎて春先の遅霜(松本平では農作物を含めて影響がありました)でせっかくの花芽がやられてしまい、咲かずに黒く変色して枯れてしまいました。
 今までの経験から、今年は全部の鉢に花芽が付くのは無理だろうと思っていたのですが、本数は昨年より少ないのですが、三鉢とも花芽が出て来ました。そこで暖冬とはいえ昨年の反省で霜害を避けるべく、今年は早めに玄関内に入れ、玄関外に出すのも出来るだけ遅くして、しっかりと花を咲かせる予定。
今朝、三鉢とも洋蘭用の支柱を刺して、針金入りの紐(洋蘭用ビニタイ)で刺した支柱に括り付けました。結果、プロムナードは4本、他の二鉢はそれぞれ二本ずつ花芽が出ていました。プロムナードは昨年霜害で花芽がダメになって咲けなかったためか、二年連続で初めて花芽が付きました。
シンビジウムの三鉢。咲き揃うのが今から楽しみです。
【注記】
最初の写真は冬用の寄せ植えの鉢と、1月26日。他の写真は今日2月10日のシンビジウムの花芽の様子です。

 某社の米国事業の責任者としてアメリカに拠点を置きながら、本社の在る日本とを忙しく行ったり来たりしている長女。
Xmasから年末年始は米国でしたが、1月中旬にまた東京に戻っていて、上京していた奥さまと一緒に一泊だけでしたが、2月上旬の週末に久し振りに“骨休め”に帰省して来てくれました。
東京にいると、夜も仕事で遅いでしょうし、外食ばかりだろうことから、奥さまから家庭料理の方が娘には良いだろうとのこと。個人的には、“たまには”外食の方が有難いのですが、そこは親バカで当然のことながら子供優先と相成りました。そこで、
 「さて、何つくろ?」
しかも、帰省前夜は二人でタンしゃぶを食べたばかりということで、しゃぶしゃぶや焼き肉は却下。そこで選んだのは、肉じゃがと鱈チリ風湯豆腐。そして二夜目に“相葉風”餅ピザとお好み焼き。
どれも庶民的な家庭料理ではありますが、喜んで食べてくれました。
 「やったネ!!」

 家族の中で一番信心深い?長女ですが、年末年始はアメリカでしたし、東京に来てからも忙しくて未だ初詣に行けて無いので、どこかにお参りに行きたいとのこと。厄払いはちゃんと彼女の名前も書いて、代参で祈祷してもらっていますので、翌日の午後に四柱神社へお参りに行くことにしました。

 松本市大手の女鳥羽川の縄手通り沿いにある四柱神社。
その由緒書きに拠れば、『明治7年2月に筑摩県庁の所在地である松本に神道中教院が設立され、四柱の大神が奉斎されてきましたが、新たに一社を興し、四柱神社として明治12年10月1日、現在地に厳かに鎮斎されました』とのこと。従って、古社ではなく明治になってから建立された新しい神社です。松本市内では、本殿が重文にも指定されている筑摩神社が一番古い神社ですが、地区の氏神様は岡宮神社ですが、父が総代をしていたこともあり(その縁で、娘たちは年末年始巫女さんのアルバイトもしました)、お参りは専ら四柱神社で、入試などの時は松本の“天神さん”深志神社へもお参りをしていました。
四柱神社は大名町という街の“ど真ん中”に在って、その由来から「神道さん」として市民にも親しまれていて、10月の月初に行われる“神道祭り”に行くのが子供の頃の何よりの楽しみでした。
“四柱”(よはしら)という名の通り、祭神は、
  天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、
  高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、
  神皇産霊神(かみむすびのかみ)、
  天照大御神(あまてらすおおみかみ)
の四柱の神が祀られていることから『四柱神社』と呼ばれています。
それぞれ、商売繁盛、学業成就、家内安全、健康寿命の全てを叶えてくれるとされています。そのため、2014年に某テレビ番組で、その占いの的中率が高いことで人気のタレントによって「四柱神社はパワースポットである」として紹介されたことから、“長野県の神社の中で最も願いが叶いやすいパワースポット”として若い人たちを中心に全国的にも人気になった由。
そのため、さして広い境内でもありませんし、古社に比べればビルに囲まれていて然程厳かな雰囲気を讃えているとは決して言えないと思うのですが、そのご利益のお陰か、昔に比べると初詣は参拝の列が長く繩手通までずっと延びる様になってしまい、そのため我々は混雑しているその三箇日を外して初詣のお参りに行っています。
 中町の駐車場に車を停めて女鳥羽川を渡って四柱神社へ。
週末とはいえ、初詣の時期は過ぎましたが、結構参拝客の皆さんがおられました。
お参りし、娘がお神籤を引いてから、北アルプスがキレイに見えるカフェに行きたいとのことでしたが、松本市内でそうした喫茶店は思い当たらず、結局アルプス公園へ。
季節外れの冬ですが、駐車場は結構車が停まっていて、小さなお子さんを連れた家族連れが一杯。市外からも近い都市公園なのに、北アルプスを望む高原風で広いアルプス公園は入場無料ですし、いくつも遊具もあるので若いご家族には人気のスポットです。
解体された「まきば山荘」の跡地は、展望テラスで安曇平越しに北アルプスが一望出来ます。せっかくの場所と眺望ですので、カフェかせめて自販機位あれば良いのに・・・と来る度に思うのですが、今のところそうした気配は全く無し。まだ空きスペースもかなりあるので、個人的には“箱モノ行政”には決して賛成ではありませんが、是非市政として何か有効活用を考えて欲しいものです。
 「ホントに、あぁ実に勿体ない!」

 定年まで上田に通っていた時の通勤路沿いには、三才山峠を下った所に在る鹿教湯温泉に始まり、信玄の隠し湯という大塩温泉、そして霊泉寺温泉と幾つかの温泉があり、これらをまとめて丸子温泉郷と呼ばれています。
その中で、一番上田の市街地側になる平井地籍に在るのが霊泉寺温泉。
大きなホテルなどもある鹿教湯と比べて、小さな温泉旅館が4軒だけという静かで鄙びた温泉です。

 この霊泉寺温泉に古びた共同浴場があり、以前先輩から、「華やかさは無いけど良い温泉だ」と聞いていました。
この共同浴場は、年中無休で朝7時から営業していて、しかも入浴料はたったの200円。温泉はアルカリ性単純泉のかけ流し。
奥さまが娘の処に上京し、母はデイサービスで不在。勤めていた時に購入した有料の三才山トンネルの回数券がまだ手許にあり、今年の9月で無料になることから、有効な今の内にと平日の午前中に行ってみることにしました。
自宅からはゆっくりと走って30分ちょっと。
案内板に従って、国道254号線から細い横道に入り1㎞。霊泉寺川の谷合にお寺のお堂が見えると、そこが名前の縁の霊泉寺です。

 この「霊泉寺」が霊泉寺温泉の入口で、お寺の横に無料駐車場がありましたので、そこに車を停めて50m程でしょうか、古びた旅館が数軒道の両側に達つ先に公民館の様な共同浴場がありました。
入口で入浴料200円を払い中に入ると、狭い脱衣場がありました。先客で地元のお爺さんが入っておられ、平日の午前中ということもありましょうが、結局最後までこのお爺さんと二人きりでした。
浴
槽は2m×4m程の内湯のみですが、浴室はガラス窓が大きくて明るいので開放感があって広め。しかし、洗い場に石鹸やシャンプーの備えもありませんし、蛇口も4つでどこにもシャワー設備はありませんので、どちらかというと洗うというよりも温泉に浸かる・・・という感じでしょうか。
単純アルカリ性という無色透明のお湯は思った程熱くは無く、割と長く入っていられそうでした。しかしシャワーも無いので髪は洗い辛く、結果体だけをさっと洗ってお湯に浸かるのを楽しんで帰ることにしました。
 駐車場に戻り、せっかくですので横の霊泉寺にお参り。結構広い境内を持つ立派なお寺で、寺の由緒書きの看板に依ると、安和元年(968年)に鎮守府将軍の平維茂が開基し、空也上人の開山によって創建されたという伝承があるそうです。弘安元年(1278)平頼臣繁有を開基に霊峰源興禅師を開山として臨済宗建長寺の末寺として再建され、その後、天正二年(1574)に武田信玄の助力により高井郡谷厳寺魯庵俊誉禅師を中興の開山として復興、曹洞宗の寺となった由。本堂西側には阿弥陀堂があって、ご本尊の阿弥陀如来は鎌倉末期の作といわれ県宝に指定されているとのこと。この地も外れとはいえ早くから開けた塩田平の一角ですので、北条氏が治め庇護した“信州の鎌倉”に在る寺として古い歴史がありそうです。
そして、入り口の門の横には、樹齢900年、太さ9.4mだったという大ケヤキが在ったそうですが、平成20年(2008)7月26日に倒壊、伐採されて、今はその太い幹と根っこが大きな切り株として残っているのみでした。
 この霊泉寺温泉は、平維茂が鬼女紅葉退治の後にここの湯で傷を癒し、霊験あらたかな湯であると寺を建立し霊泉寺と名付けたところからこの名が付いたと伝えられていて、元々は寺湯。
まるで、昭和30年代のまま時計が停まった様な静かな佇まいの風情のある、山間の古びた温泉です。嘗て、白樺派の文豪、武者小路実篤がこの中の旅館に逗留したこともあるのだそうです。
そんなレトロな“山の出で湯”として、都会の喧騒を避けての温泉好きの人に親しまれているそうですが、真冬の平日故かどの旅館にも人の動きは無く、どうやらこの日は宿泊客は誰もいなさそうでした。

 今度はそば粉を頂きました。量にして粉で500gありましたので、蕎麦にすれば大盛りで二~三人前位でしょうか。
しかし残念ながら蕎麦打ちの経験は無いので、自分で打って蕎麦にして食べる訳にもいきません。
 「さて、どうしよう?」
素人でも見様見真似でやってみれば、多少は蕎麦らしきモノにはなるかもしれません。我が家でも自家用に昔蕎麦を植えて収穫し、祖母が自宅で蕎麦を打って食べさせてくれたことがありました。十割ですので味は良かったのですが、そこは素人故にぶつぶつ切れた太くて短い真っ黒な田舎蕎麦でした。
まぁそこまで無理しなくても、蕎麦が食べたければちゃんとした蕎麦屋で食べれば良いので、奥さまは蕎麦がきが食べたいとのこと。
以前木曽の時香忘と旧安曇村の稲核にある渡辺で蕎麦がきを食べたことがありますが、時香忘のそれは蚕の繭状に丸めた団子を炙ってあり、(海苔を巻いて)醤油を付けて食べます。渡辺の蕎麦がきは、片手鍋にそば粉を溶いてあり、それをスプーンですくってタレに漬けて食べます。多分、渡辺の方が本来の蕎麦がきであるように思います。
しかし、奥さまの希望は温かい汁に蕎麦の団子を入れて、根菜と一緒に煮て食べたいとのこと。どちらかというと蕎麦がきではなく、そば粉で作ったすいとんでしょうか。

 そこで、鴨の代わりに鶏モモを焼き、ダイコンやニンジン、ゴボウの根菜、湯引きした刻み油揚げを煮て、その汁に熱湯で溶いた蕎麦粉をスプーンで落とし入れ煮立てて完成です。ハスに切ったネギを散らし、好みで七味を掛けていただきます・
我が家のつゆは常備の「創味のつゆ」。信州蕎麦風のそばつゆの様には決して甘過ぎず、絶妙な塩梅です。今回も野菜の甘みと相まって美味しいのですが、むしろゴボウから実に良い出汁が出ている様に思います。
 「旨いなぁ!」
却って、素人が下手な蕎麦を打って食べるよりも、却って蕎麦粉でのすいとんの方が自宅で食べるにはむしろ美味しかった様に思います。
ただ500gというのはかなりの量ですので、全部ではなく、溶いた残りは蕎麦湯にしていただきました。最近の蕎麦屋の中には、蕎麦の茹で湯ではなく、わざわざそば粉を溶いてドロドロとした濃いそば湯として出す店もありますが、これまた同様に濃いそば湯も美味で、蕎麦がきならぬすいとんとそば湯で存分に楽しめた蕎麦粉でありました。